大里宿より小倉までの間を掲載する。
大里宿は、現在のJR小森江駅近くからJR鹿児島本線と国道199号線との間を約900mほど海岸沿いに南西に一直線にのびている。 対岸の下関は目と鼻の先(最短距離で約1km)である。 長崎街道を北上してきた旅人は、黒崎宿・小倉城下それとここ大里宿より船にて本州(赤間関)に渡ったという。赤間関までの直線距離はこの地が最短であるが、潮流の早い関門海峡のことなので、黒崎・小倉と比べて移動時間・渡海での安全度などの大小は作者はわからない。
「大里」の名の由来は長崎街道 (大里・小倉と筑前六宿内宿通り底井野往還) (九州文化図録撰書 (1))にその作者の私考として掲載されている。 概略は、寿永2年(1183)秋に、安徳幼帝(第81代天皇)を奉じて、平氏一門が芦屋の山鹿から柳ヶ浦に逃れ来て、 御所(内裏)をこの地に一時的に定めたことに由来しているとのことである。 「柳」はそれ以前のこの地の地名である。
JR小森江駅の北側の海側にあったとされるが、今は工場(ニッカウイスキー)の敷地内となっており、近づくことはできなない。
ここより、次の西生寺あたりの前の海岸が渡海口であったようである。
西生寺は山号を柳浦山と号し、浄土宗鎮西派の寺院である。別名"踏み絵寺"と呼ばれる。 本堂には小笠原家の家紋(三階菱)が掲げられている。
西生寺門前の案内板によれば、 この地は元々細川小倉藩第2代藩主忠利公の浜御殿(お茶屋)があったが、 寛文年間(1670頃)に小笠原小倉藩第2代藩主忠雄の命により大里宿内(現在の大里本町2丁目八坂神社前)にあった当寺をこの地に移転し、その跡地に本陣がおかれたという。
街道を挟んで、大専寺が伽藍を構えている。大専寺は西光山と号し、 浄土真宗本願寺派の寺院である。
石碑に記載されている内容をそのまま記載する。
江戸期凶作に苦しむ農民を救済のため私財を投じて門司小倉に新田門司六本松猿喰小倉曽根 百拾八町余りを開作した郷土の誇りとする功労者である。
小倉に向かって左側が御茶屋(本陣)跡である。
石碑に向かって右側が浜郡屋跡、右側が浜番役宅跡。その間の狭い路地を海側に行くと御番所跡があった。 そこには常夜灯があり、高札場もあったという。
石碑によると、浜郡屋では湊出入者及び船舶の検問・取締りなどを役人・在屋などが協議した所と云う。
仏願寺は柳谷山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。
石碑によれば、南郡屋は藩役人が各庄屋へ通達打合を行ったところと云う。
戸上神社は寛平年間(889-898)創建される。 奉祀の際、御霊代を枝折戸に奉載して山頂に奉安したことからこの山を戸上山と号し、神社を戸上神社と称するようになった。
江戸時代、小倉藩主、細川・小笠原の尊崇が篤く、社殿造影・社領寄進などがされた。 また、九州の諸大名の参勤交代の折、大里宿を通過時、武運長久・海上安全を祈願された。
旧柳郷(大里)の氏子達は古来「戸上権現」と呼び、開運・長寿・産業興隆の鎮守の社として崇めてきた。(以上 境内の石碑・戸上神社HPより)
参勤交代制度がはじまると、筑後久留米藩は寛永20年(1643)は大里の大川河口に船屋敷を置いた。 藩主をはじめ船屋敷衆は平素から戸上権現を尊崇し、鳥居・灯籠・絵馬等の寄進した。(戸上神社HPより)
石碑によれば、人馬継所跡は宿場の主要施設であって継立の人馬を常備していた。 旅人は料金を支払って人馬・駕篭をたのみ次の宿まで旅行したという。
石碑の内容をそのまま記載する。
寛政11年(1799)幕府(長崎奉行所)は大里浦出張所をここに設置した。 当時、玄界灘に出没した密貿易船の取締りと、対唐貿易の代物(俵物・諸色)を長崎に送る為、保管中継の基地として設置した。
番所跡は,JR門司駅前にあり、このあたり一帯は赤煉瓦の建物が目立つ。ここが最近流行りの「レトロ」を楽しむ場所なのであろうか?
お堂には、幕末の画家村田応成が画いた「地獄・極楽の絵図」が2幅あり、1月16日、8月16日の祭の日に一般公開される。 夏の祭の時は、堂前で盆踊りが催される。
長浜閻魔堂参照のこと。
下の参考サイトによれば、文化元年(1804)豊前国企救郡長浜浦で出生。 57歳の時、小倉藩から難破船を救助する役に任命される。 灯台建設の願書を藩に提出した助左衛門は募金活動をして資金調達も自分で行ない、一生を灯台造りに捧げた。
助左衛門の死後、明治政府が引き継いで 明治6年(1873)に完成した白洲灯台は、近くを通る船が浅瀬に乗り上げないよう、今でも安全の光を灯しているという。
墓所は西顕寺(小倉北区京町4丁目)にある。
参考:岩松門左衛門、 岩松助左衛門 - 北九州市
ここを過ぎると、いよいよ次の小倉城下である。