周船寺は今宿-前原の間にある場所である。宿場などはなかったようである。
周船寺の名の由来は下に引用する『筑前国続風土記拾遺』巻之46 怡土郡 上 周船寺村に記載されている。
民居は本村 新屋敷2所 官道の左右にあり。 此村名古へ太宰府有し時、主船司を置て官船を爰に繋きしより出たる名なるへし。 主船司のことは延喜式に見えたり。
隣村飯氏村の内乾[1]方當村に境へる田宇に船町と云所あり。是又主船司に縁あり。考ふべし。
此村の境内すべて昔の入海の跡なり。(本編に雷山の古文書には主船司と書りと見えたり。即是也。 但し今は此文書同山にはなし。又長禄2年(1458)に大内教弘より深川に輿へし書には、怡土郡周船寺と有。是は後のことなるへし。) (後略)
ここでは、周船寺より次の前原宿の手前までを記載する。
街道はJR筑肥線の山側を通る。丸隈山古墳のすぐ先には竜松寺がある。
古墳の境内には観音堂があり、糸島東部八十八ヶ所霊場第28番(本尊:観世音菩薩)となっている。
日切地蔵尊は糸島東部八十八ヶ所霊場第28番(本尊:地蔵菩薩)となっている。
参道口は少し分かりづらいのでご用心。
金剛橋は周船寺川に架けられた橋である。
伊覩神社は『筑前國続風土記附録』巻之41 怡土郡 上 周船寺村の項に「松ノ木天神社」という名で記事がある。 伊覩神社 福岡県福岡市西区周船寺 : 空 sora そらによれば、昔は「主船司神社」とも呼ばれたようだ。
鳥居には天保12年辛丑(1841)5月吉日の銘がある。
ここから、数100mの街道の両側は商店街となっている。道幅も狭い。 多少昔(昭和)の風情を味わうことができる。
『筑前國続風土記附録』巻之45 志摩郡 下 高田村の項に能徳十六天神社として記事がある。
福岡神社参拝帳によれば、 元は能徳という所に鎮座。宝永元年(1704)現在地に遷座。大正3年(1914)あるいは大正12年(1923)是永神社と合祀され高田神社となったようだ。
高田神社は唐津街道より、前原宿に向かって右に入った所にある。 街道は、写真左で信号機のある国道202号線に沿って右から左に唐津に向かって進む。
『筑前國続風土記附録』巻之45 志摩郡 下 浦志村に「八幡宮」として記事がある。 「産神也。応神天皇を祭れリ。鎮座の年歴詳ならす」とある。
街道に面した鳥居の足の1/3ほどが地中に埋まっている。理由は定かでないがちょっと目立つ。
浦志八幡宮を過ぎると街道が喪失部分があり迂回が必要。その先、しばらく平坦な街道を西に進むと次の前原宿である。