箱崎は福岡・博多の東側の玄関口の役割を果たしていた。 藩主が参勤の為江戸に向かう時には、福岡城からここまでは立派な大名行列装束で 行進。ここで旅装束に着替え筥崎宮に参拝し江戸に向かった。 帰国の際には、家老・主な家臣・お目見えをゆるされた町民などがここに集まり迎えた。
箱崎宿の御茶屋は、箱崎2丁目10番にある天満宮の付近にあったという。 (箱崎御茶屋 | 唐津街道研究所を参照のこと。)
『筑前國続風土記拾遺』巻之39 表糟屋郡 上 箱崎村の項に下記の記載がみられる。 当時はかなりの規模の村であったようである。箱崎の名の由来も記載されている。
民居本村 原田(枝郷) 浦分等にあり。 青柳宿より博多へ至る官道の駅也。 廣村にして村浦人家凡450軒斗有。(中略)
昔ハ那珂郡の内なりしか、いつの比より糟屋郡にハ属しけん。(慶長の郡村帳に既に糟屋郡に入たり。) 箱崎と云由ハ、往古八幡大神降誕の時、御胞衣を筥にして此浦に蔵めしよりおこる名と云。 其昔ハ葦津浦といひけるとなん。 崎とハ此地東北の入海(多々良潟也)南に周りて糟屋郡と古しへハ入海を隔たり。 因て博多の方より砂土東北に連り全く海中の崎なりしか、後世漸く海浅せて数村の佃となりしより、此地糟屋郡と土地連りて遂にハ彼郡に属せしと見へたり。 此処のミならす國中の海邉にハかかる地理の所多し。
箱崎御茶屋 | 唐津街道研究所によればこの付近に東構口があったという。
ここまで西に向っていた街道は勝楽寺の所で直角に左に曲がる。 ここからの道幅は4.5m(=2間半)と昔の道幅に近い道となる。
玉取恵比寿社は筥崎宮の末社である。 毎年1月3日に行われる筥崎宮の伝統行事である玉取祭(通称:玉せせり)の出発点である。
『筑前國続風土記拾遺』巻之39 表糟屋郡 上 箱崎村の八幡宮の項に 「恵比寿社(馬場丁に在。正月3日の玉取ハ此社より本社まで村民争いとる。)」とある。
このあたりから博多まではほぼ直線コースである。
玉せせり行事の詳細は筥崎宮玉取祭(玉せせり)・福岡地域別探検に写真が多数掲載されている。
箱崎御茶屋 | 唐津街道研究所によればこの付近に西構口があったという。
"従是東糟屋郡"
側面に「文久元年(1804)」の銘が見える。
居酒屋横にひっそりと立っている。しかも、電柱の裏手。よく見ていないと見逃す。
ちなみにこれより西は"那珂郡"である。
曲物とは薄く削ったスギやヒノキの板材を曲げ、重なった部分をサクラの皮でとじ合わせた容器のこと。 米びつ、茶びつ、弁当箱、膳などに使用されている。
箱嶋邸の周辺は新しい店舗がたちならんでいる。そこにポツンと建っている。国の登録有形文化財とのことである。
病院敷地内に"利休釜掛の松"がある。 松は二本。400年前より生えている松とは考えにくい。 植え替えられたのであろう。
下に案内板の内容を記載する。
利休釜掛の松
天正15年(1587)、九州平定を終え筥崎宮に滞陣した豊臣秀吉は、 小寺休夢(福岡藩の藩祖黒田如水の叔父)らと和歌を詠じ、 茶人千利休や博多の豪商神屋宗湛らと茶会を催しました。 その際、利休は秀吉の命により、この地の松に鎖を吊して雲龍の小釜をかけ、 白砂の上に散り敷いた松葉を集めて湯をわかしたと伝えられています。
福岡市
崇福寺については崇福寺[臨済宗大徳寺派]をご覧ください。