案内板の内容をそのまま記す。
畔町は、昔(藩政時代)筑前黒田藩が指定した27宿駅の一つであった。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦の後、黒田長政が筑前の国主として入国するころまでは、まだ 人家も少なかったが、寛永19年(1642)唐津街道の整備に際し、青柳(古賀市)と 赤間(宗像市)との間、約4里(16km)が遠すぎるということで、当時の鳥ノ巣村[1]と 本木村[2]の一部を街道沿いに集め、 宿駅として新たに成立したのが 畔町村である。 当時100余軒の戸数があり、480余人が住んでいた。街道を行き交う人も多く商家が多かった。南北に 通じる街並みの入り口の両脇には構口があり、御制札所や役人詰所はあった。
宿場町として栄えた畔町村も明治年代以降は、宿駅廃止や鉄道などの 交通路線の変更と共に宿場の機能を失った。今では、宿場通りも古い家は建て替えられ、 昔の家並みは少なくなったが、「杉ぼて」や「卯建」など江戸時代のたたずまいが 残っているところもあり、宿場町の名残りが感じられる。 - 文:平成11年度 福間町公民館主催ふるさと再発見教室
天明8年(1788)旧暦4月23日、司馬江漢は江戸を出発。長崎街道を通り長崎に到着。その後、平戸島を通り平戸街道御厨筋で伊万里に到着。 そこより、徳須恵-浜崎を通り、博多-箱崎と旅をした。天明9年(1789)(旧暦)1月16日、畦町に止宿した。 下の記事は『江漢西遊日記 (東洋文庫)』の抜粋である。当時の情景を垣間見ることができる。
天明9年(1789)(旧暦)1月16日
天気。出立せんとす。老婦色々取り揃へ飯出す。
茶、梅干、他に金子を添えて餞別とす。
5時(午前8時)少し過て発足し、程なく箱崎八幡、往来なり。
参詣す。
海の中路見へる。
玄海じま、鹿(志賀)の嶋など云嶋々見へ、能き景色。
夫より松原を通り、昼比より雨降り出していよいよ大降りとなる。
青柳に至り昼食す。
これ迄4里あり。爰より駕籠にのる。
雨益々つよし。路、皆山坂、畝町(畦町カ)と云う所、これ迄2里あり。
問やに参、人足を頼みければ、
「最早七つ時(午後4時)過なれば、之にお泊り」
と云う。雨ヤマず。
「夫なら泊るべし。上る処ありや」と云いければ、
「イザ是へ」と云。
見るにサッぱりとしたる所一間あり。
タゝミもよし、
窓より外を見れば、漸く一重の早梅のさやかなり。
土瓶に能き茶を入れ、茶ウケ香の物、味噌づけ、沢庵づけ、菜づけ、色々皿に盛り出す。
亦酒を買ふて呑。
夫より飯出す。
爰元は魚は一向になし。
玉子フハフハにして出しけり。
今利(伊万里)路にて足の甲はれ痛む。夜に入り雨止ず。
引用文中に出てくる、「玉子フハフハ」は2018年畦町宿場まつりで、調理する所を公開されていた(右上の写真)。 玉子の白身をかき混ぜ泡立て、それを沸騰間近のゆで汁に流し込み。最後に黄身を足す。 作者も味わったが、さっぱりとした味であった。
2013年 唐津街道畦町宿保存会の方々によって宿駅内の要所要所に案内板が設置された。 宿駅内を散策する人にとってありがたい。
ここでは畔町宿より次の青柳宿の直前までのポイントを順次記述する。
この橋を渡ると、街道は畦町の東構口に入る。
西郷川にかかる畦橋を渡ると東構口があったと思われるところに出る。構内の痕跡は何も無い。
東構口のすぐ先に天満宮への参道の入り口を示す灯篭がある。 その灯篭のすぐ内側には年代物の菩提樹が道の真ん中に植えれられている。 菩提樹の枝はなぜか木製のあて木が添えられている。
そこから参道を進むと、急峻な石段が続き、一の鳥居をくぐる。 さらに石段を進むと、社殿に出会う。
社殿は良く手入れがされているようであるが、痛みが激しい。
畦町宿のパンフレットによれば、江戸期に建立され、祠の菅公像は明和2年(1765)作という。 石段が108段ある。
に宿場内のぎゃらりぃ畦の前を通りかかったらご主人(唐津街道畦町宿の街並みを保存する会)がおられ、早速新年のご挨拶。 別れ際に「天満宮の石段の竹を伐採したのでそこから畦町全体が見えますよ」と教えて頂く。 久しぶりに天満宮に登ってみた。 以前は両サイドが雑木林であったが、きれいに伐採され畦町の町並み全体が良く見える。 また、石段脇には手造りの杖が設置されており参拝者への心配りもなかなか良い。
ここには古民家風の郡屋跡の建物が立っていたが、倒壊の恐れがあり取り壊され、跡地は更地となっている。 畦町宿保存会による案内板(2019年7月吉日銘)が立っている。そのまま引用する。
畦町スポット - 郡屋跡
「郡屋」は江戸時代、畦町宿で休憩する福岡藩主の「陣屋」であり、近隣の庄屋の「寄合所」であり、 宿場民の「集会所」でもあった。 時には旅人も泊めた(藩主は向かいの八尋庄屋宅に休憩)。
2017年8月、倒壊の危険があるために福津市によって解体された。
竹藪にはとても珍しい「四方竹」が群生。なんと四角い竹で、10月末にタケノコが生える。
メインストリートより狭い路地を少し奥に進むと鎮座している。 平成25年7月吉日銘の畦町宿の街並みを保存する会の案内板によれば、お堂内の中央がお祇園様。 寛永19年(1642)以降の創建。御神体は盗難の為か自然石。石祠の銘は天保8年(1837)という。 祭神はスサノオノミコト。
お堂内両脇に境内神社2社が鎮座。 向って右手が恵比寿神社。恵比寿の線刻画はみごとである。 左手は疫神社。
鳥居の脇には池がある。そこには「命輝く池」と看板が立っている。正式には「祇園様池」という。 池は 唐津街道畦町宿の街並みを保存する会が平成25年に復元した。
鳥居脇の赤レンガ「世界一小さな蚕博物館」は蚕籠燻製場の建物という。 大正期、農家の副業として養蚕業が盛んであり、この建物は幼虫入れ用籠を燻製消毒する為のものという。
須賀神社の斜め前に昔問屋場(人馬継所)があったという。 現在その位置にぎゃらりぃ畦・手もみ処桜や(手もみマッサージ)の店舗がある。
主にご婦人向けのトンボ玉などの小物の販売。 各種の陶器・織物の展示会などのイベントが催される。 コーヒー・奥様の手作りのケーキなども食べる事ができる。 ここのご主人は畦町宿の生き字引と言われるくらい、新旧の畦町の歴史に詳しい方である。 地域のセミナーの講師などもされている。 ご主人は時間があれば、気さくにお話を聴かせてくれます。 是非一度おたちよりください。
お大師様は宗像四国西部霊場第56番札所となっている。
虫籠窓、新酒ができた合図の杉ボテを下げる場所などがみられる。
畦町宿のパンフレットによれば、江戸期の建物で畦町では最も古い建物。 昭和30年代までは日本酒を醸造販売していたという。 六角井戸が残っているという。作者は一度内部に入らせて頂いたが、その時見逃してしまった。 (残念)
軒先には、バンコがある。 これは、折りたたみ式で手前に倒してセットすれば、その上に座って休憩することができる。
畦町宿のパンフレットによれば、江戸期の建物で畦町では2番目に古い建物という。
護念寺は菖蒲山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。 周囲は古い町並が観られる。
西構口にはその痕跡は何も確認できない。 ただ宿場内を次の青柳宿方向に一直線に進んでいた街道がここで左右に分かれる。 右側が次の青柳宿への街道である。街道は右に急カーブする。 これは構口独特の軍事上の設計であったのであろう。
構口があったと思われる場所に小高い所がありそこに観地山地蔵尊が鎮座されている。 地蔵堂の中に木製手書きの案内板がある。 米一丸が博多で自刃。 その後その母が息子米一丸の安否を気遣い、 この地(案内板では「本木郷下がり藤」とある)に来て彼の悲運を知り程無く病に倒れ亡くなったという。 後の人々がこの親子の為に親子地蔵を祀ったのがこの地蔵尊であるという。
参考:米一丸の塔
街道はここでR503と合流する。 ここに畔町宿の案内板がある。
エンジュの木はR503沿いの青柳宿に向かって左の小高い場所に立っている。その木の根元には祠が祀ってある。
その場所はどう見ても自然にできたものでなく、一里塚ではないかとずーっと気になっていた。 だが、これは年代はわからないが、戦死した軍馬のお墓であるとのことである。 ([404]唐津街道参照のこと。)
店内は古い酒樽などの骨董品がおいてある。
作者は北九州の実家に戻るときは行きも帰りもここの自動販売機で缶コーヒーを買って一服する。 この店の駐車場には「小太郎」という犬が飼われていた。長年作者の顔を見ているうちに作者にもなついてくれていた。 2015年、天寿を全う。寂しいかぎり。
街道は橋を渡って左手の細い道を青柳宿に向かって進む。
このあたりは道が入り組んでいて作者は何度も道に迷った。上西郷小学校を目印にされると良い。
このあたりの地名を内殿と云うが、地元の方々は「うちどん」と発音するという。
街道はこの先自然道の坂道を進む。 かなり急な坂であり、途中に倒木などがある。 街道は地図の番号順に青柳宿に進む。(写真はすべて青柳宿に向って撮影している。)
峠付近に小さな木製の「唐津街道」の道標がある。この道標のおかげでこの道が正しい路で あることの確信が持てた。道標を建てた方々はどなたかは分かりませんが感謝致します。 道標はこの坂を青柳宿方向に下りR503との合流地点にも設置されている。
※この付近は夏場は草木が繁茂して歩行は困難かもしれません。
峠付近はみかん畑になっている。街道はここより下り駕篭立場跡へと進む。 (写真はすべて青柳宿に向って撮影している。)
写真(3)の先の横断歩道の左側より先が駕篭立場跡である。
駕篭立場跡は写真(1)左手の道路標識の左の白い手すりよりR503よりはずれ、R503と平行してあったと云う。 ('40'の道路標識の上あたり)
写真(2)が白い手すりを登って10mほど進んだ場所であるが、ご覧の通りつる性の草木が 繁茂して歩行は困難である。(2009-11-29現在)
さらに、進み写真(3)のガードレールのところよりR503と再び合流する。
作者は唐津街道沿の道を通って北九州-福岡市を往復することが多いが、ここはお気に入りの道である。 春は桜・菜の花、夏は高原のそよ風、秋は紅葉と四季おりおりの自然が楽しめる。
愛宕社の向かい側は、飯盛山である。 登山口があり、頂上から見る北側に広がる、古賀市内やその先の玄界灘の眺望はみごとである。 また、山頂には桜の木が多数あり桜の名所とのことである。
飯盛山は昔、城があったとのことであるが、その痕跡は発見できなかった。 余談ではあるが、高低差約70mの登山道はよく整備されているがかなり急である。
説明板の内容をそのまま記す。
旦ノ原は旧糟屋・宗像二郡の境で、莚内・薦野(糟屋郡)・ 内殿・上西郷(宗像郡)の四村にまたがる丘陵一帯のことを言います。
江戸時代は、ここを通る道を唐津街道といって参勤交代の要路でありましたが、丘陵にあるため 水がなく困りました。
この事情を当地に住んでいた伊東忠平が、大庄屋の石松林平に訴えて、井戸を掘る事をお願い したところ許され、伊東忠平の屋敷に文久2年(1862)の秋に掘り始め、翌3年にできあがりました。
以来住民にも旅客にも便利になり、この井戸のことを「二郡四ヶ村井戸ひとつ」と呼ばれるように なりました。[以下略]
平成21年3月 古賀市教育委員会
「左畔町二里」との銘がある。街道はこの道標の青柳宿に向かって左に進む。
医王寺は曹洞宗の寺院である。医王寺前の街道はのどかな田園風景が広がる。
心ない人のいたずらで道標が白いもので汚されている。 「左青柳町半里」「右畔町二里半」との銘がある。
畔町から玄望峠、旦ノ原の井戸あたりまではかなり急な上り坂でしかも山道である。 博多に向かう旅人たちはこのあたりで立花山を見たときに一安心して 木陰で一服したであろう。
ここより、博多まではほぼ平坦な道のりである。
青柳宿に向かって街道の右脇にひっそりと建っている。
浄土院は街道から少しそれたところにある。 浄土宗鎮西派で山号を安楽山という。
写真で右の車の走行している道は35号線。街道は画面中央のライトを点灯している車が走行している道で青柳宿の東構口趾に向かって進む。