ここでは芦屋宿より海老津を経由し赤間宿に至るルートを紹介する。
ここに『筑前國続風土記』巻之14 遠賀郡上 ◯蘆屋の項の内容を引用する。
民家多く町頻廣し。富家も亦多し。 岡の湊の南のほとりにあり。 むかひは山鹿の里也。 遠賀川其間をへだつ。 旅船おおく出入して、交易の利多く、民家にぎはへり。
(中略)
昔此地に釜を鋳る良工數家あり。 下野國天明釜よりなほ精巧なり。 其鋳物師は太田氏、朝廷より受領の官を給はり、蘆屋の向、山鹿の里に居たりし故、 山鹿左近丞と稱す。 天正(1573-1592)の比より漸衰て、 長政公入國し玉ふ時、なほ其工人の家ありといへども、 其職人ども皆賤工となり、其後に家絶たり。 その末裔は博多姪濱に移り、近世は博多に在て良工なり。 やや古にも及ぶべし。 土産門に詳にしるす。
芦屋は「葦屋」「蘆屋」とも書き遠賀川の河口に位置し、流域の産物の集散地であった。
芦屋町の歴史については、芦屋歴史の里(施設案内) - 芦屋町に、かなりの遺物が保存されている。
渡船場跡のすぐそばには、芦屋大橋がある。当時の渡船場の痕跡は何も残っていない。 芦屋大橋のたもとにある石碑の裏に記されてある内容を書く。
筑前21宿の1邑であった芦屋と山鹿間の往来は、渡船によって永い間行なわれていたが、 明治40年(1907)には町営となった。 当時の渡船料は大人が6厘、牛馬1頭口付1人共1銭1厘、 自転車は乗人共1銭であった。 渡し場は幅約8メートルの石畳の斜面 になっていて、 福岡までの距離を示す元標が立っていた。大正6年(1917)4月旧芦屋橋が架けられると同時に渡船も廃止された。
ここまで北上してきた街道はここで90度左にカーブする。 ここより西構口までは上り坂である。
光明寺は悟真山と号し浄土宗の寺院である。 街道を挟んだ所には芦屋警察署があった。
『芦屋案内記 芦屋編』によれば、鳥居は弘化3年(1846)銘という。
,『芦屋案内記 芦屋編』によれば、明治33年(1900)9月下旬落成。 1,907.4平米。観客定員は立見席を入れて1,000名を超えていた。 昭和19年(1944)、広沢虎造の浪曲公演中に火災により焼失。 昭和23年(1948)、規模を縮小して再建。 昭和41年(1966)解体されたという。
華やかなりし頃の大國座の写真は大国座跡のページの下の方に掲載されている。
構口には、祠と梵字石それに追分石がある。
梵字石の裏には弘化2年(1846)5月吉日の銘がある。
追分石には「左濱口通 川筋道」 と刻まれている。(文久元(1861)銘)
この追分石は、真新しい御影石でできているが、近年置き換えられたのであろう。
構口の脇には日切地蔵堂がある。 遠賀川川西四国八十八ヶ所霊場第81番札所。
岩津神社と白浜神社は同一境内に並んで鎮座している。 岩津神社の鳥居は嘉永2年(1849)銘。
詳細は岩津神社をご覧ください。
芦屋宿を出て、唐津街道はいったん途切れる。街道はフェンスの中の航空自衛隊芦屋基地内を赤間宿に向かう。
糠塚阿弥陀堂は岡垣四国霊場第73番札所(本尊:阿弥陀如来)となっている。
須賀神社境内には大日堂があり、 岡垣四国霊場第72番札所(本尊:大日如来)となっている。
寛政11年(1799)の銘あり。
画面右が前牟田橋。街道は、橋を渡ってすぐ左に直角に曲がって赤間宿に向かって進む。
街道はここで県道287号線から分かれ、この三叉路を右に進む。 ここから地蔵堂までの間は、道幅が狭くなる。
東側には、大豆・水稲などの畑が見られ、その先に低い山々のある田園風景が見られる。
氏森神社境内の案内板の内容を下に記す。
祭神
木花開邪姫命/ 高皇産霊命/ 神皇産霊命
由緒
山田村大坪にあった氏森神社と、山田村押田の聖母山にあった氏森八幡宮を寛政年間(1789-1801)に領主黒田公の寄進により合祀したのが現在の氏森神社である。
神殿の裏には氏森宮の安産腰掛け石がある。 参拝した夫人は、この石に腰を掛けて安産を願えば霊験あらたかといわれている。
祭礼
4月9日、10日(おくんち)
平成13年月吉日 山田区氏子
氏森神社のすぐ西側には清石山弘増寺 寶樹院が伽藍を構えている。
街道は田園地帯を進む。
街道はここで県道287号線と合流する。
地蔵堂の記事はこちらをご覧ください。
街道はここから右の路に曲がる。ここより次の赤鳥居までは道幅は1m~2mでかなりの悪路である。 通行には要注意。
この大鳥居はその脇の石碑によると城山敷島稲荷大明神の参詣道とあるが現在その場所は分かっていない。
写真正面の山が城山である。大平寺福岡別院がその麓にある。
大平寺福岡別院は萬國山と号し、法華宗本門流の寺院である。
右写真#1の右端が大平寺福岡別院。手前が国道3号線である。街道はこの城山の中腹を右から左に赤間宿に向かって進む。
ここには「長崎街道」の道標がある。そこから先はしばらく竹やぶの中を進む。 橋の所までは単独行は危険である。
写真を見てのとおり倒木などで道はかなり荒れている。 イノシシのヌタ場と思しき場所などもある。
ここからは、オフロードバイクであればかろうじて走れるくらいの道となる。
当時は橋などはおそらくなく、浅瀬を濡れながら前進したのであろう。
街道はこの分岐点を赤間宿に向かって左側の道を進む。 200mほど進むと福岡教育大学の構内となり街道のルートは歩けない。