ここでは吉井宿から次の日田までのルートを掲載する予定である。 ここから日田へは2つのルートがあったようである。 即ち、筑後川を渡り日田街道福岡城路と合流するもの、筑後川南岸を東進し日田に入るもの。 本ルートの詳細は作者があまり理解していません。誤った情報も混入している恐れが十二分にあります。 これから詳細は調査して順次更新してゆく予定です。 本項の下に作者のメモを記します。
吉井宿の成立について、町中の案内板に非常にわかりやすく記載されているのでそのまま引用する。
かつて吉井町は田畑に水が無く穀物の収穫も少なく農民の飢えを見かねた5人の庄屋たちが久留米の有馬藩に筑後川から水を引き入れる工事の嘆願書を出しました。 この嘆願書には「これらの工事に掛かる費用は私共、五人の庄屋が全部持ち受け決してお上にはご迷惑をかけませぬ」と書かれていました。 寛文4年(1664)1月11日工事が始まり長野村(吉井町)の入口には5人の「はりつけ台」が立てられ、 これを見た人々は「五人屋どんを殺すな」とばかりに老人、女、子供までがこの水路工事にかかり、 寛文4年(1664)3月に人工の川(南新川)が完成しました。
川の新設工事の成功によりこの地方は有馬藩有数の穀倉地帯となりました。 南新川が田畑を潤すだけでなく唐臼、水車が造られ精米、製粉、酒造、製麺、櫨蝋、菜種油などの工業、商業の豊かな町造りの基盤となりました。
また寛文3年(1663)有馬藩下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の中心として吉井に宿駅が新設されました。 吉井の宿場町は豊富な穀物を地主商人などが商品化、 販売し莫大な冨を蓄え、 その後「分限者どん」の住居造りが始まりました。
寛延元年(1748)、文化12年(1815)、明治2年(1869)に大火に見舞われ「分限者どん」たちは冨を象徴する白壁土蔵の防火対策の住居を競って造りました。
明治、大正と繁栄を見せた白壁土蔵造りの吉井の町並みも第2次世界大戦の経済・社会の変動の中で失われていきましたが、 平成8年12月に福岡県で初めて(全国で44番目)国の重要伝統的建造物保存地区の選定を受け、修理修復が行われ保存されています。
右写真の『宝暦12年(1762)吉井の図』(ご注意:南が上です)によれば、町割りは西から、天神町・下町(本町?)・中町・上町・堀田町の5町の構成であったようである。 浄満寺の門前に木戸らしき印がみられる。
この地点が宿場内の西の入口と判断した根拠は、町中で配布されている『吉井のまちめぐり案内』の図である。
民家の塀にはエノキと思われる大木が見られる。
六角堂はこの地点から東側の狭い路地を入った所にある。 周囲は江戸末期の年代銘の多数の墓石がある墓地となっている。 内部は金色の観音様が安置されている。 数を数えていないが、三十三観音ではなかろうか?
六角堂前には石造五重塔・怖い様態の石像が観られる。
西厳寺は法樹山と号し、真宗大谷派の寺院である。
少し手前の民家には赤い鳥居のお稲荷様が祀られている。
この地点が枡形と判断した根拠は、町中で配布されている『吉井のまちめぐり案内』の図である。
道路の拡張工事の為か、かなり緩やかなカーブとなっている。
この角を左に曲がると、天神町の通りとなる。 突き当りに田代本家のりっぱな門が観られる。
街道は枡形の手前で国道210号線と分かれ、右・左と直角にカーブして再び国道210号線と合流する。 枡形を出ればそこは下町(本町?)である。
最初の右カーブの脇には「鳥越本家」の立派な門が観られる。
本町の枡形を出ると、円応寺の門前である。 円応寺は大悲山と号し、真宗大谷派の寺院である。
『吉井町誌』によれば、円応寺の西側に藩主、幕府役人、藩役人の宿泊接待所である御茶屋があったという。 ここを基点に道程が計られた。 (「御茶屋より○○里、御茶屋より○○町」などと表記された。)
この恵比寿像はかなり古いもののようである。
実際の札の辻はこの東側の中町信号の所にあったようである。
庚申塔は商家の角に建っている。 脇の案内板の内容をそのまま記載する。
うきは市指定文化財 札の辻の庚申塔
古代中国では「人の体に住む三尸の虫が、庚申の夜、 天に登って天帝にその罪過を告げに行くことでその人の生命がちぢめられる。」 とする道教の教えがある。
その夜は眠らずに長寿を祈念する行為が、 日本では徹夜で酒食をとるなど庚申待ち行事(講)となり、 江戸時代には全国に庚申塔の造立が広まった。 塔の正面には道案内にかかわる猿田彦大神・悪霊を退散させる青面金剛とその使いの 三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)や、 ただ庚申と表すこともある。
ここの庚申塔には猿田彦大神と三猿が示され、 「南 妹川 星野 道」の道案内と文政元年(1818)銘が残る。 書は頼山陽のものと伝えられる。
昭和60年3月5日指定 うきは市教育委員会
庚申塔の表記どうり、この地点を基点とする県道718号吉井妹川線は南下し、耳納の山を登り、うきは市妹川を通り星野に通じる道である。
みごとである。
『宝暦12年1762吉井の図』によれば、浄満寺の門前に木戸らしき印がみられる。
浄満寺は高教山と号し浄土真宗東本願寺派の寺院である。 納骨堂上の鐘楼には寛永7年(1630)銘の梵鐘が掛けられているとのことである。
町中を東進してきた街道はここで右に90°カーブする。
この井戸の地点で2度目のカーブである。 井戸脇には恵比寿塔も建っている。 井戸脇の案内板の内容を抜粋する。
堀田の井戸
(前略) 往還と呼ばれた道路や、橋・溝・船着き場・駅馬・建場・高札場・ 会所・御茶屋・構と云い慣わした大門、 それに井戸も町には必須のものでした。
この『堀田の井戸』も「岩井の井戸」と並んで、 吉井の名の起こりと云われる程の銘水。 近辺住民の生活用水は無論のこと、 遠来の旅人や行き交う牛馬にも差別なく喜ばれた井戸で、 古来枯れたことがないそうです。
またお参りしてきましたこの地は以前、吉井町の東の入口に当たった所で、 すぐ北側には開閉した大門が建っていました。 また井戸のすぐ脇を流れる水路は、 吉井の「走り井」のひとつ、 お陰で水勝手だけでなく、 火事まで減ったと重宝され、 いずれも長く人々に愛され親しまれて、 吉井の四季の情緒と風物詩を育んでくれた、 大切な先人の遺産です。
幕末の歌人大隈言道 吉井にて詠める歌
「いくはなるよしゐの里のはしり井の はしりてやまぬ水のすゞしさ」
うきは市教育委員会
ここの辻にもカッパが鎮座。
この大明神の縁起は不詳。 この付近の道幅は約2間。 かなり狭い。
石祠の縁起については不詳。
この石塔の前面には文字か画像が刻まれているようであるが、判読不可。 縁起については不詳。