『日田街道その歴史と美展』によれば、「万葉集」にある次田温泉[1]が初見で、 西海温泉、鎮西温泉、西府温泉、武蔵温泉などとも呼ばれたが、昭和25年(1950)から二日市温泉と改称して現在に至るという。
『筑前國続風土記拾遺』巻之18 御笠郡 4 武蔵村の項に下の記事が見られる。
武蔵、塔原2町に係れり。温泉ハ川の両邉所々に出浴する者多し。 武蔵寺の縁起に此湯の始て出しことは白鳳12年癸未(683)6月8日のことゝいへり。 此處ゟいと近き處に湯原といふ田の字(二日市村内)あり。若ハ万集によめる湯原も此地ならんか。(後略)
参考:『筑前國続風土記』巻之9 「湯町」「塔の原」の項
ここでは二日市宿札の辻から湯町までのルートを記す。 本ルートは、今昔マップ の地図(1922-1926)を参考に作者が想像したルートである。 実際のルートとは異なっているかもしれない。
道はここからしばらく、一直線に南進する。
道はこの先県道7号線に突き当り、そこからは消失する。
昔の道は県道7号線と交差して直進、10m-20m先を左にカーブしていたと思われる。
昔は、そのカーブ地点から鷺田川沿いに南進していた。 その鷺田川は現在はほとんどが、地下水路となっている。 温泉街は、川の両側にあったようである。
上流から地下水路となっている鷺田川はこの地点から地上に現れる。
御前湯は現在、温泉街の鷺田川の上流に向って左手にある。 しかし、本ページの概要に掲げた「明治30年代の湯町の町並み」では、 昔の御前湯は、鷺田川(温泉街)の上流に向って右手にあったようである。
益田啓一郎のブログに 御前湯の北隣にあったという椛屋旅館の写真が掲載されている。
下に、御前湯前の案内板の内容を記す。
御前湯縁起
二日市温泉は、白雉4年(653)、 武蔵寺の創建者である藤原登羅麿が薬師如来のお告げにより開いたとされ、 万葉集にも詠まれた歴史ある温泉です。 (出典・・武蔵温泉誌)
古来より「皮膚病や火傷に効く」ことで有名であり、 多くの湯治客が訪れていました。
また、近くにあった太宰府政庁の役人など身分の高い人々が入浴できる設備が備えられ、 入浴の順番も決まっていたようです。
時代がくだり江戸時代においても、 元禄2年(1689)も福岡藩第4代藩主、黒田綱政侯が入浴したとの記録が残っています。
「御前湯」は、宝暦7年(1757)に福岡藩家老、 立花勘左衛門が、新湯を堀り施設を整えたことに始まります。 同じ年、福岡藩代6代藩主黒田継高侯をお迎えしています。
湯治の「御前湯」は、「留湯」とも呼ばれ、 一般の入浴が禁じられた殿様専用の温泉施設であり、 歴代の福岡藩主がしばしば入浴されました。 そのため、温泉奉行と呼ばれる役人が置かれ温泉の管理にあたっていました。
その後、明治4年(1871)の廃藩置県の際、 湯治の武蔵村(現武蔵管財区)に授与されたのを機に、一般に広く開放されました。
以来、その姿を変えながらも、地域の大切な財産として、 多くの人々に愛される温泉として引き継がれています。
平成23年1月 武蔵管財区
現在はその跡地に湯町薬師堂と「■代之命」の石碑があるのみである。 薬師堂は、施錠されており内部を拝めなかった。 薬師堂前の表札石碑には「薬師如来(日光佛・月光佛)傳教大師御作」とある。
『日田街道その歴史と美展』によれば、薬師湯は武蔵寺の創建者、藤原虎麿が霊夢により発見し、 娘瑠璃子の流行病が湯の効力で回復した話が広まり湯町が繁栄したという。 いわば、湯町のルーツである。
鷺田川は、ここから先ほどなくして地下に潜る。
この地点には、湯町大師堂・猿田彦大神の石塔が見られる。