『秋月街道をゆく 』の文を引用する。
1601(慶長6年)9月、細川忠興より杵築城主松井康之(家老職)へ宛てられた文書がある。(松井文書)。 それによると、一ノ岳に新城「鬼ヶ城」を構築し、 麓集落に城代の居館と士分集落「殿町」を町立し、 町部が南に形成された。 街道に沿って、職人町、本町、殿町、魚町、山下町という短冊型地割・長方形型街区を形成、 香春岳城の縄張りは、軍事機能より町場の監視機能を優先して形づくった。
現在も、香春岳の南山麓に密集して家々が連なり、その南側は主に田畑となっている。(右写真参照の事。)
ここでは、香春宿から次の猪膝宿までのルートを記載する。 香春宿周辺の散策スポットも参考にしてください。
里程表は道路脇の畑の脇に立っている。台座に近い部分が折れたようで、修復の痕がある。
東面:「従是上野迄貮里貮拾貮町」、
西面:「従是久保新町迄壱里半」、
南面:「従是採銅所迄壱里」、
北面:「従是猪膝迄貮里貮拾四町」。
石碑以外は御茶屋・香春藩庁の建物の痕跡は見られない。
西念寺は真宗大谷派の寺院で創立は天正18年(1590)という。 この手前で街道は右左にカーブする。
この地にはここから700mほど東南に移転した願光寺が伽藍を構えていた。 今は僅か門柱と案内板のみが残されている。
門柱から境内であったと思われる領域に入ると崖の中腹に大樟が立っている。 案内板によれば、樹齢800年、樹高42mで福岡県文化財に指定されているという。 明治20年と昭和20年の大水害時、この樹は土砂防止機能を十分に果たしたという。
この地には伊能忠敬が測量のため訪れ止宿したという。 以下案内板の内容を抜粋する。
(測量時の)田川郡への経路は、 文化9年(1812)7月11日に大分県の槻ノ木から薬師峠を経て英彦山に上がり、 添田から香春を経て小倉に向っている。
文化9年(1812)7月13日英彦山を出発した忠敬(67才)は香春に入る。
当日は山下町年寄米屋源右衛門宅に宿泊、 翌14日、月食実測のため小倉に向う。 測量隊は14日香春に入り、米屋源右衛門、博多屋勘助宅に分かれ宿泊、 翌15日小倉に出発した。
1995年10月 贈 田川ライオンズクラブ 香春町・香春町教育委員会
浄妙寺は寛永元年(1624)9月創建の浄土真宗本願寺の寺院である。
善龍寺は、永正15年(1518)創建の真宗大谷派の寺院である。
街道はこの先の三叉路で右に大きくカーブする。
「従是南豊後日向道 従是西猪膝道」
「従是西上野通筑前道 従是南猪膝通筑前道」
徳成寺は真宗大谷派の寺院である。
西浄寺は獅伏山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。 あいにく山門が閉ざされ、山門前からの参拝となった。
香春宿側から緩やかな上り坂を登って来た街道はこの地点が頂上のようで、ここから下り坂となる。 門前の交差点の角には酒屋がある。歴史ある酒屋のようである。
定林寺は平松山と号し、曹洞宗の寺院である。 あいにく山門が閉ざされ、山門前からの参拝となった。
門前のあたりの道幅は2間程度か? かなり狭い昔ながらのものと思われる。
この地点は上り坂となっている。 すぐ南側は田川後藤寺駅である。
街道は、ここより田川ごとうじ銀天街→上本町商店街へと続く。 両者はアーケードでつながっている。
アーケード内には昔の遺構と思しきものは確認出来ない。
日曜日の午後にも関わらずシャッターが降ろされている商店が目立つ。 地元の初老の男性の話によれば、ここは、この手前の伊田商店街と共にこの地区一番の繁華街であったという。
入口脇には、法運寺の参道口がある。
写真でご覧の通り、閑散としている。
街道は日田彦山線の線路の上に架けられた跨線橋を渡って進む。 橋の脇には小堂があり、弘法大師像・不動明王像が安置されている。
未踏査の為、未稿。
未踏査の為、未稿。
法満寺は浄土真宗本願寺派の寺院である。