相島(あいのしま) AINOSHIMA IS.

  • 島の東端の先に浮かぶ鼻栗瀬(めがね岩)
    島の東端の先に浮かぶ鼻栗瀬(めがね岩) 
  • 『相島散策マップ』
    『相島散策マップ』 

場所

福岡県糟屋郡相島  MAP

概要

相島は周囲6.14kmの玄界灘に浮かぶ小島である。 玄海国定公園の要の一つという。 島内には、古代の積石塚、鎌倉期の蒙古来襲、秀吉の朝鮮出兵、江戸期の朝鮮通信使などの史蹟がある。 また、紺碧の玄界灘はもちろんのこと、島内は自然でいっぱいである。 島中のそれぞれの観光スポットには親切な道標・案内板が設置しており、はじめて訪れる人に親切である。

作者は初めて上陸。妻と二人で神宮寺をかわきりに時計回りに駆け足で一周してきたときの記録である。 神宮寺の和尚はじめ島内の親切な道案内をしていただいた方々に感謝感謝。 また、訪れたい島の一つである。

相島を歩く時に『相島散策マップ』(平成25年3月 相島歴史の会編)を持参して行った。 この冊子は全8ページ。コンパクトに島内の史蹟の説明・地図が掲載されている。 渡船場にも常設してあるようであるが、もしなければ島内の神宮寺にあります。 是非ご活用してください。

Links

九州福岡島めぐり(よかとこBY)

ルート

下のルートは渡船場から時計回りのルートである。 実際歩いた時間は昼食休憩も入れて2時間半程度。 のんびり歩きました。

新宮渡船場 → 相島渡船場 → 朝鮮通信使客舘跡・神宮寺 → 龍王石 → 遠見番所跡 → 太閤潮井の石 → 穴観音 → 積石塚群 → 朝鮮通信使関連供養塔 → 鼻栗瀬(めがね岩) → 日蒙供養塔 → 弁才天 → 山の観音堂 → ねこ

その他のインデックス

島の祭り(神宮寺和尚からの情報) 通信使関連災害61名溺死・300回忌供養会

新宮渡船場

  • 町営渡船「しんぐう」
    町営渡船「しんぐう」 
  • 新宮渡船場-渡船を背にして撮影
    新宮渡船場-渡船を背にして撮影 

渡船場には、待合所・広大な駐車場などがある。 周囲の防波堤・波止場などには休日ともなれば家族連れや釣り人などが多数みられる。


相島渡船場

相島港-渡船より撮影
相島港-渡船より撮影 
相島港-渡船より撮影
相島港-渡船より撮影 
渡船場付近に掲げられた島の観光案内図
渡船場付近に掲げられた島の観光案内図 
渡船場付近に掲げられた朝鮮通信使客舘図
渡船場付近に掲げられた朝鮮通信使客舘図 

ここには、渡船の待合所・食料品雑貨販売店(JA新宮相島購買部)・海産物販売所・旅館などがある。 この周辺はネコが多い。写真はページ最下部にたくさん載せています。


朝鮮通信使客舘跡・神宮寺

朝鮮通信使客舘跡
朝鮮通信使客舘跡 
石碑
石碑 
神宮寺本堂
神宮寺本堂 

神宮寺は島の西のはずれに伽藍を構えている。 朝鮮通信使客舘跡はこの付近一帯に建てられていたようであるが、現在は畑・民家となっている。

石碑の内容を下に記す。

江戸時代朝鮮通信使は徳川将軍交代の祝賀に、朝鮮国王の国書を持って300人〜500人が12回来日し、徳川将軍の返書を持ち帰った使者です。

相島にはその内11回来島しており、福岡藩は一行を迎える為にこの地に毎回客館を新築して帰国後解体しています。

第10次1748来島寺の客館図によると敷地は東西65間約117m南北70間約126mに板・藁葺や青竹等を利用した建物が40軒ほど建っていました。

今は残っていませんが、相島朝鮮通信使の歴史を顕彰する為碑を建立しました。



第17回朝鮮通信使ゆかりのまち全国交流新宮大会
平成22年201011月2日


龍王石

  • 龍王祭り-写真は神宮寺提供
    龍王祭り-写真は神宮寺提供 
  • 龍王石
    龍王石 

相島散策マップ』によれば、海の男の信仰を一心に集めるものという。 御神体は周囲750cm,横256cm。 毎年11月15日は豊漁を願う伝統的な龍王祭が行われるという。


遠見番所跡

道標
道標 
番所跡の石碑
番所跡の石碑 
番所跡の石積み
番所跡の石積み 
番所跡の石積み
番所跡の石積み 
番所跡の灯台
番所跡の灯台 

龍王石からここまではなだらかな上り坂。左手に海、右手に崖をみながら曲がりくねった道を進む。

遠見番所跡跡は道路から少し高い所にあり、坂道を50mほど登って行く。 古い石組みの横に現代の灯台が並んで立っている。 ここからの眺めを期待していたが、周囲は雑木林のため視界は良くない。


太閤潮井の石

潮井の石・穴観音への道標
潮井の石・穴観音への道標 
潮井の石入口の石碑と石仏
潮井の石入口の石碑と石仏 
潮井の石
潮井の石 
潮井の石
潮井の石 
岩宮神社
岩宮神社 

潮井の石は、道路より少し海側にそれた所にある。 その脇には岩宮神社が鎮座する。

境内の案内板の内容を下に記載する。

太閤潮井の石

豊臣秀吉は、文禄元年1592・慶長2年1597の二回にわたり朝鮮へ攻め入りました。 この戦いは、日本では「文禄の役」「慶長の役」といわれ、 「唐入り(からいり)」「高麗(こうらい)の陣」などとも呼ばれました。 (中略)

島に伝わる、「安部嶋窟観音濫觴(あべのしまあなかんのんらんしょう)に、 「(かつ)て慶長の頃、 秀吉公の高麗陣のおり、諸国の軍船は此の嶋に寄りて千手観音の利生(しりょう)を祈らんと 他所より大石を運び来りし、 今尚残りて石山をなす....」とあり、「太閤潮井の石」といわれています。 (後略)

平成8年9月 新宮町教育委員会

相島散策マップ』によれば、石の山は10tダンプトラック200台分に相当するという。 すごい量の石。 当時の武将が未だ見ぬ異国へ戦いに行かされ、残された家族のもとへ無事帰ることができるよう必死で石を運んだのであろう。


穴観音

穴観音につきましては、別立てでページを作成しました。こちらをご覧ください。

積石塚群

積石塚群
積石塚群 
積石塚群
積石塚群 
積石塚群
積石塚群 
積石塚群
積石塚群 
積石塚群
積石塚群 

穴観音からここまではなだらかな下り坂。所々でワラビ・ツワブキなどの山菜採をしている地元の方々と出会う。 積石塚群周辺の景色はまた絶景である。 その先には鼻栗瀬(めがね岩)を眺めることができる。

相島散策マップ』によれば、4-5世紀にかけて造られた古墳群で、 現在まで254基の積石塚が確認され、その形は方墳・円墳が半々。 死者を埋葬した部屋の造りは様々な形で造られているという。 長野県の大室古墳群に次ぐ国内第二の積石塚群であるという。


朝鮮通信使関連供養塔

供養塔
供養塔 
供養塔の文字。「韓使来聘」文字が見える
供養塔の文字。「韓使来聘」文字が見える 
供養塔全景
供養塔全景 

供養塔は、積石塚群の南側の端付近にあるようである。ここは、作者は未だ行っていない。 『相島散策マップ』によれば、第9次朝鮮通信使迎聘を控えた一週間前の享保4年17197月24日、 大台風による福岡藩士・浦水夫ら61名の溺死事故を悼んでの供養塔という。 黒田家文書、新宮大庄屋の横大路家の記録とも一致し、極めて貴重な史跡という。 この溺死者達は、通信使の接待の準備作業中に事故に遭ったのであろう。(合掌)

相島歴史の会」の今村様の御好意により写真・文章を掲載します。 以下の文章は今村様から頂戴したメールの内容です(ほぼ原文のまま)。 研究者の感動生き生きと 伝わってきます。

建立者触口(後の大庄屋)、庄屋、賛同者、つまり民間です。 この石碑の碑文を平成7年ごろ町史編纂のおり、調べたが風化して文字がよめずと町史に記載あり。 この石碑の碑文を調査のため、当会で拓本採ったところ、朝鮮通信使迎護の折、 大風で61名が溺死した「合葬舟人墓」(碑文表)と判明。つまり、昔建立した想いが現代に蘇えった。

この写真は百合越浜の石碑の碑文、この文字に注目ください! 拓本採る時、2010年10月16日「韓使来聘(かんしらいへい)」、この文字が見えてきたときは、 胸が高まり体が震えるくらい感動しました。 島にほとんど朝鮮通信使が来た痕跡が見られない中にこれに遭遇したからです。 「韓使」は朝鮮通信使を意味し、「来聘」は丁寧語でお招き、来て頂くの意です。 丁寧で無い表現は、来朝とか朝貢とかの表現になります。 何故か、「韓使」の韓が削り取られて薄くなっていたのが残念ですが・・・・。  

尚、61名の合同位牌は、島内の神宮寺に安置されている。 神宮寺中澤住職のお父様が建立された「蒙古供養塔」もこの石碑近くにあるという。

参考:地蔵堂[浄土宗][福岡県糟屋郡]


鼻栗瀬(めがね岩)

鼻栗瀬 - 積石塚群より撮影
鼻栗瀬 - 積石塚群より撮影 
鼻栗瀬 - 積石塚群より撮影
鼻栗瀬 - 積石塚群より撮影 

『相島散策マップ』によれば、島の東300mにそそり立ち、岩質は玄武岩で高さ20m、周囲100mで中央部は荒波の為空洞になっている。 伝馬船などの小舟は通り抜けできるという。 県指定文化財(名勝)。


日蒙供養塔

供養塔
供養塔 
供養塔(拡大)
供養塔(拡大) 
供養塔前の海
供養塔前の海 
遠景
遠景 
供養塔前の海岸(右手が供養塔)
供養塔前の海岸(右手が供養塔) 
超遠景
超遠景 
県道599号線脇の道標(拡大)
県道599号線脇の道標(拡大) 
県道599号線脇の道標
県道599号線脇の道標 

供養塔脇の案内板の内容を下に記す。

日蒙供養塔(にちもうくようとう)

アジア全域をその手中に収めたフミライは、日本もその支配下におくため2回にわたり大軍を派遣しました。 いわゆる蒙古襲来-元寇です。 ここ相島で戦闘があったか否かは定かでははありませんが、博多湾を舞台に大きな戦闘が行われました。

1度目は、3万数千の軍勢がおしよせた文永の役(文永11年1274)です。 2度目は弘安の役(弘安4年1281)で、東路軍4万、江南軍10万の総勢14万の大軍が押し寄せました。 この時、偶然にも蒙古軍を暴風雨が襲い船団は壊滅状態となり、潮の流れにのって。この百合越(ゆりこし)海岸にも船の残骸、死体が折り重なっていたと伝えられています。 この流れ着いた死体を敵味方区別なく手厚く葬った場所が蒙古塚であるといわれています。

現在では、蒙古塚がどこにあったかはっきりと分かっていません。

ここに建てられている石碑は、江戸時代の終わり頃、博多より医師として相島に永住した児島昌達の家に伝わった記録に同様の記載があったため供養塔を建てたいと発起したことに始まります。

その後紆余曲折があり、神宮寺の先住、中澤龍智師の尽力により昭和42年1967にようやく建立され盛大な入魂式が執り行われました。(後略)

平成28年
新宮町教育委員会

塚の前はすぐ海である。 道標のある県道599号線脇からの参道を進むと、しばらくは土の道。 その先は直径10-20cmほどの栗石が敷き詰められた海岸を100mほど進むと塚の前にたどり着く。


島の祭り(神宮寺住職からの情報)

祭礼開催日内容
恵比寿祭り 1月10日 これは島の氏神「若宮神社」のお祭りで、若者が恵比寿・大黒・福禄寿の神様に扮して1月10日に行われます。 恵比寿様は神様に供える鯛と酒樽を付けた笹竹を担ぎ大黒様は打ち出の小づち、 福禄寿様はすりこ木をもち、その後に餅を入れた袋を持った幹部が従い、 「祝うた、祝うた」と大声で叫びながら家々の壁を激しくたたき島中を回り、島民は正月の餅を神様の餅と交換して福を授かります。 起源は解らないが多分博多の「十日恵比寿」の始まりと同じ頃でしょう。
ドンドンカン 8月17日 この祭りの正式名は「観音遷座祭」と言います。
祭りの起源が島民の伝承と、寺に残る古文書『相島窟観音濫觴』とは異なる。 島の人たちは、その昔、島の洞窟に祀られていた観音様が洞窟に潮が入り浮かび上がり、 波に流されて遠く長崎県の五島「玉之浦」の海岸に漂着、浦人が拾って祀っていた。 霊験あらたかで浦が栄えたと云う。漁師の奥さんの夢枕に観音様が現れて「筑前相島の観音である。 早く元の場所に返して欲しい」という。浦人は驚き船を仕立てて鐘や太鼓で送り届けた事から始まったと云う。
しかし、『濫觴』には観音様が玉之浦から送り返された事は、記されているが鐘や太鼓で送られたとは一言もない。
時代は下って、1760(宝暦10)年7月17日に島中で詰まった洞窟を(さら)えたら、小さな観音様が2体出てきた。 現在、その観音様は神宮寺のみこしの中に安置しています。 毎年8月17日にその観音様が神宮寺から「山の観音堂」に遷座します。 鐘や太鼓を打ち鳴らして行われる写真様な祭りです。
龍王祭 11月15日 このお祭りは漁師の祭りで「旧来慣行八大龍王祭禮記録」(寛政9年1719の文書)という古文書が有ります。 それによるとその昔、 丸木舟ありし頃島の漁師が磯見をしていたら岩の上におびただしいアワビがいるのを見つけ突き取り大漁に喜んで帰ったら気が狂い 「この島を焦土とせん・微塵とせん」と狂乱したので、これは龍王様の祟りでではないか。と。 お祀りをしたら島が繁昌したと書かれています。 この祭りには守るべきいろんなしきたりがあり、数年前まではきちんと継承されて来ましたが、 近年島の過疎化が進み維持出来なくなり、随分簡素化されて形だけのお祭りになっています。

通信使関連災害61名溺死・300回忌供養会(2018-07-22)

快晴・猛暑。 島内西側の「経塔様」の広場にて盛大に供養会が開催された。出席者は作者目測約100名。 導師は神宮寺住職。 読経の後、参列者全員にて焼香。その後、東旭秀大師範による筑前琵琶の奉納があった。

場所を隣の「きずな館」に移して今村 公亮氏による講演。歴史に疎い作者にも理解しやすい内容であった。 同氏の歴史に関する知識の巾・深さにはあらためて感心させて頂いた。 その後、お齋(おとき)

筑前琵琶の音を聴きながら、祭壇裏手の旧波止を眺めると300年前の情景が頭に浮かんでくるようであった。 お齋にふるまわれた「鯛めし」美味でした。島のみなさんの心尽くしの手料理、感謝感謝。

以下は「300回忌供養会に至る経緯」(相島歴史の会、今村 公亮氏)である。

300回忌供養会に至る経緯~享保4年7月24日の大風破船・61名溺死事故を中心に~

2016年6月、相島歴史の会は百合越浜にある石碑(供養塔)に着目した。島民の言い伝えでは流れ仏や蒙古の墓とされていたが、拓本を10月に採取したところ「韓使来聘」の4文字が刻まれていて、通信使の関連遺物であることが古文書によって裏付けられた。 その後の調査で、石碑の傍にある台座のほか、神宮寺の所蔵する合同位牌や扁額等の存在が明らかになったが、いずれも通信使迎護の準備の最中に発生した享保4年1719の海難事故に由来するものであった。 以下300回忌供養会に至るまでの調査結果の概要を記す。

  • 百合越浜の石碑(供養塔) 建立者は浦の大庄屋、庄屋、賛同者である。建立時期は、総合的に判断して、次の通信使を迎えた延享5年1748と考えられる。碑文中の「玉山」とは八田毅邦1713-85のことであり、福岡藩の儒者、医者、書家である。当時の触口である横大路家等の古文書において、事故の内容は確認できたが建立に関連する記述は見出せていない。福岡藩の記録他にも同様の記録あり。
  • 1.の傍に残る台座 1周忌に建立された可能性が高い。
  • 経塔様 建立時期は不明。8月16日、経塔様の広場に合同位牌や他の位牌を持ち出し、施餓鬼供養が行われている。当時は百合越浜の石碑まで道も無く極めて困難のため、波止場の近くに建立し、他の横死人と併せて供養したと考えられる。
  • 合同位牌 制作時期は1.と同時期である。当時の藩主は第6代継高(藩主在位1719-69)。当時は厳格な身分社会であるため、武士と領民の合同位牌はめずらしい。
  • 寺の資料 「往古国主黒田公ヨリ六十一霊追善ノ為メニ寄附セラレシ祠堂財[以下略]」との記述がある。 この「黒田公」は藩主継高を指すと考えられる。
  • 扁額 黒田藩の武士である横田久平が藩主継高に仕官した延享元年1744以降に「心行三昧」と書したと推測される。神宮寺に「御用船御難の折に黒田公より賜った」との口伝が残る。

以上の調査の結果、8月16日の施餓鬼供養の背景には享保度ママの海難事故もあることが明らかになった。 また、相島に残る古文書等の調査によって、島民が通信使と深く関わりを持っていたことがみえてきた。 相島における通信使の関連遺物は、2つの波止、客館跡、井戸、そして積石塚群付近に残る4つの墓碑があるが、今回の調査によって、以上のものが加わることとなった。

待ち望んでいた朝鮮通信使のユネスコ「世界の記憶遺産」の登録が2017年10月31日に発表され世界から市民権をえた。 これはゴールではなく新たなスタートだと思う。 今後は61名溺死関連での福岡藩・各庄屋の記録の悉皆調査、石碑の周辺に残存する25基の墓等の未調査箇所の調査が望まれる。

また、61名が溺死してから300回忌にあたる今年の7月22日に、島人を主に多くの人と供養を行いたい。