旧街道

  • 冷水峠(長崎街道)手前の石畳(前方は首無し地蔵 ) 

ここでは、九州・中国地方を中心に作者が歩いた、あるいはこれから歩く予定の旧街道を紹介します。 街道沿線のお寺・お堂・城跡・その他の見どころなども多数掲載しています。 実際に現場を歩く為に役立つ工夫もしています。

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ルート

江戸期の旅

江戸期の旅については、『新日本史』(数研出版)にわかりやすい記述があるのでそれを引用する。 わが九州については下記の記述より旅の規模は小規模であったであろう。

江戸時代の庶民が旅をするということは、今日では想像もできないほどの難儀さであった。旅慣れしていた芭蕉でも、陸奥への 旅立ちに「前途三千里の思いを胸にふさがりて、幻のちまたに涙をそそぐ」としるしている。 大げさに言えば、旅立ちは決死の覚悟が必要であった。

重要な幹線道路である東海道を江戸から京都への53次をたどる場合でも同じである。 (ふところ)に路銀を入れ、寒暑中を身をかばいつつ徒歩(かち)をたよりにすることの不安と困難さは想像されよう。 宿の出発は「七つ立ち」(午前4時頃)で、4kmごとに設けられた(えのき)の大木の一里塚をみながら、次の宿駅に入る頃夜は明ける。 そして、いくつかの宿駅を経て、暮れ五つ(午後8時頃)までに宿に入らねばならなかった。 東海道の宿駅はよく整備されており、幕府の役人・大名の往来に供する人夫100人・馬100匹が常備されていた (中山道は50人・ 50匹、その他は25人・25匹)。 道中で最も華々しい旅行団体は大名行列であった。東海道を通る大名は159家、そのうち10万石以上は33家であった。 ちなみに「下に下に下に」の三声は将軍行列の先触れ、「下に下に」の二声は御三家・御三卿、「下に」の一声は老中・若老や幕閣高官であり、 一般の大名は先供が「寄れ」という制止をかけていた。 これら大名・高官たちは、本陣・脇本陣に安く宿泊することができたが、一般庶民は、公用のほぼ4倍が常識であった。 駕篭(かご)は4kmで64文、そのうえ10%の酒手をはずまねばならず、庶民はなかなか気軽に乗れるものではなかっただろう。 江戸初期の庶民は、宿に米と木賃(木銭=薪代)をだして炊飯してもらったが、ようやく17世紀後半に入ると、今日のように、 宿銭を払えばすべてまかなえるようになった。

庶民の旅を悩ますものに関所がある。箱根は東から西への通行人を、浜名湖西岸の新居は西から東への通行人を監視した。 庶民は通行にあたって、旦那寺や町役人に書いてもらった往来切手か、町代・五人組・町年寄の連署の関所手形を提出し、 通行許可をえていた。 もし隠れて通行し発覚すれば、(はりつけ)などの極刑が課せられた。 また川越の制も庶民の旅を悩ませた。 幕府はとくに大井川を軍事上の防御線とし、川をはさむ島田・金谷の宿場をつなぐ26間幅(約50m)に限って、川越え人夫による渡しを強制した。 雨期になると一ヶ月近くも川留することがあり、人々を悩ませた。

箱根越えの”山祝い”、大井川越えの”水祝い”が供のものに与えられるように、庶民にとっての難所であったのであり十返舎一九の 『東海道中膝栗毛』のように面白おかしく旅をすることは、物語の中にのみあったようである。

参考文献

長崎街道・唐津街道・底井野往還のルートは全面的に下記の図書を参考にさせていただいている。