山陽道

概要

山陽道は「西国街道」とも云われ、現京都市南区四ツ塚町の羅城門から、瀬戸内海北岸を小郡を経由して、山口県下関市の赤間関に至る街道である。 当サイトは本来なら、羅城門から赤間関までの全51宿全てを掲載すべきところ、作者の体力・資金力を考慮して、小郡宿以西に留める事にする。 掲載出来ない宿場については他の書籍・サイトなどを参照ください。

天明8年(1788)10月1日(新暦 10月29日)、江戸から長崎へ向かう司馬江漢は山中宿泊。 翌10月2日、船木宿より街道沿いに下り、一気に下の関(赤間関)に到着している。山中宿-赤間関間の距離は道なりに約52km。所要時間17時間。平均時速≒3kmの旅である。当時の様子を垣間見て下さい。 『江漢西遊日記 (東洋文庫)』より引用する。

曇。6時(午前6時)に山中を出立して河を渡り、峠あり、小坂あり。2里半にて舟木に至る。 (ここ)は能所にて商人(あきんど)軒を並べ、大名お泊りある処本陣あり。此辺、石炭を焚く故に往来自然と(けむり)(よつ)(くさし)

此節10月、霜枯(しもがれ)時分なれば、往来の人一向になし。1日に向こうから来る者2・3人、 皆六部(ろくぶ)[1]の類なり。 一人大どてらを着、おそろしき顔色の者、あとへなり亦先に行き、道連れならんと云。 どうやらきみのわるいヤツ故、此方からは見ぬふりをして居れど、兎角(とかく)なれなれしく口をきく故、先き()行くべしとて、浅(厚狭(あさ))の市にて駕籠にのり、よし田(吉田)より馬に乗り、小月を越へ、長府迄3里、(つつみ)の上を通り、其比ハゼと云ふうるしの木、実は(ろう)を取る、此辺畑の間、其外一面に植()、皆紅葉して(にしき)の如し。 暫くして長府の問屋場に至。 夜の5時(午後8時)比なり。

夫より駕籠にのり行くに、闇夜なり。 駕籠の内にトロトロと眠り、目を覚しけるに、誠に山中にして、(いのしし)を追う声のみし、亦はすゞ虫、松虫の声のみしておそろしきと処なり。 夜4時(午後10時)に比に下の関[2](つき)、タバコやと云旅舎に泊る。 爰は大船(ツキ)にして、瓦屋を立並べ冨商多し。

翌日、彼は赤間関から海路長崎街道内裏宿へと向かう。この続きは赤間関のページを参照の事。

ルート

(山口宿(山陰道)→) 小郡宿→山中宿→船木宿→厚狭宿→吉田宿→小月宿→長府宿→赤間関( →大里宿(長崎街道)もしくは小倉城下(長崎街道))

参考サイト

山陽道・厚東~小月|街道歩きの旅山陽道・吉田~下関(亀山八幡宮)|街道歩きの

ルート

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注釈