瀬高宿(旧:筑後国山門郡 現:福岡県みやま市瀬高町)
概要
下のみやま市歴史資料館のページによれば、瀬高は近世以来南九州へ通じる交通の要衝であったという。 柳河藩の物資集積の中枢として上庄を中心とした町屋が形成され、 商工業が著しく発展、かつては、鋳物・製瓦・和紙・製蝋等々藩内・近隣の需要を満たす諸職人の生産工房が軒を連ねていたという。
その後、柳川藩領の水陸交通の要衝として、上庄・下庄の町屋を中心に発展。 周辺村落は、肥沃で湿潤な耕地に恵まれ、比較的に安定した約70ヶ村(この内現瀬高町に属する村は約40ヶ村)が本郷・竹井・小川の大庄屋組に編成されて、穀倉地帯農村としての発展を遂げたという。
参考: 近世:常設展示室|みやま市歴史資料館 薩摩街道(豊前街道)を歩く
ここでは、瀬高宿から南関宿までのルートを記載する。
経路
富貴鶴(山下第二酒造場)前 標高: 8.1m MAP 4km以内の寺社検索
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このあたりの道幅はかなり狭い。
上庄のお堂 標高: 7.6m MAP 4km以内の寺社検索
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お堂の中には金色の仏像とお地蔵様が安置されている。 お堂の脇には、小さな御神体のような石も見られる。
御茶屋前信号 標高: 7.1m MAP 4km以内の寺社検索
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このあたりから宿場町の繁華街か? 古い町並が多少みられる。
御茶屋跡 標高: 8.2m MAP 4km以内の寺社検索
このあたりからの所に御茶屋があるはずなのであるが、確認できていない。
追分 標高: 8.2m MAP 4km以内の寺社検索
この三叉路の西側の角のお宅の前付近に昔は追分石があったという。 (現在もその台座はそこにあるらしい)
東面に「従是北宿町通」南面に「従是西柳川通」と刻まれているという。(高さ186cm幅30×30cm)(近藤氏宅中庭に保存)。 この追分石に刻まれている「柳川通」とは、柳河城下の札の辻(現伝習館高等学校北側の辻町信号付近)に至る道である。 柳川市三橋町久末の「一里石バス停」付近に一里石がある。
上庄の商家 標高: 9.3m MAP 4km以内の寺社検索
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このあたりの道幅は昔ながらのものらしくかなり狭い。
正覚寺前 標高: 7.6m MAP 4km以内の寺社検索
正覚寺は真宗大谷派の寺院である。
来迎寺前 標高: 8.9m MAP 4km以内の寺社検索
来迎寺は浄土宗の寺院である。
八坂神社前 標高: 8.0m MAP 4km以内の寺社検索
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『瀬高町誌』によれば、 元和7年(1621)再度柳河に入城した立花宗茂は、祇園の霊夢をみた。 「宗茂の大軍と家康の大軍が戦い始めて、なかなか勝負がつかない。 たがいに激戦の最中、祇園の神がぽっかりまんなかに姿をあらわされた。 すると不思議に戦いはいつのまにかおさまった」という夢である。 夢から覚めた宗茂は上庄の八坂神社を調べたところ、荒廃していたので本殿を再建、 翌年6月1日には鄭重な祭礼を行い、大人形の神事がはじめられたという。 また、旧暦8月には大提灯(提灯ぞろえ)の行事も行われているという。 いずれも福岡県の文化財とのこと。 (大人形さんと大提灯参照のこと)
鳥居が2つある。「祇園宮」と「新宮」である。 「新宮」の鳥居には慶安4(1651)の銘がある。 両鳥居とも足の元の部分がかなり太く肥前型の鳥居に分類されるのではあるまいか?
伊藤氏メモ県指定有形民俗文化財の「大人形」と「大提灯」が展示されている。()
菊美人醸造元 標高: 10.5m MAP 4km以内の寺社検索
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会社概要|菊美人酒造 株式会社によれば、享保20年(1735)創業とのこと。
白壁と杉ぼて。なかなか良い。
瀬高橋 標高: 12.5m MAP 4km以内の寺社検索
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はじめは橋は無く、舟にて渡河。 文政・天保(1818-1843)の頃になると、粗末な橋が出来て渡り賃を取ったので「賃取橋」または「ガタガタ橋」と呼ばれた。洪水の時は、梁は橋脚から外されて岸に移され、減水すると元に返す橋であった。 大名など高級武士の為には岸まで舟を並べ、つなぎ合わせた舟橋を架けていたという。
矢部川を渡ると、下庄地区へと入る。
熊川書店 標高: 12.0m MAP 4km以内の寺社検索
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上庄から矢部川を渡り国道443号線沿いに東進してきた街道は、ここで右に急カーブする。 枡形構造道路の始まりである。
星隈酒店 標高: 12.0m MAP 4km以内の寺社検索
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枡形前後の街道沿には古い家並みが見られる。
光源寺 標高: 10.6m MAP 4km以内の寺社検索
光源寺は真宗大谷派の寺院である。
伊能忠敬測量基点の石碑 標高: 10.7m MAP 4km以内の寺社検索
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石碑「伊能忠敬測量基点之地」は新町公民館の敷地内にある。
伊藤氏メモ石碑が建っており「伊能忠敬は寛政10年(1800)より17年の歳月を費やして全日本地図を完成した人で、当地方を測量して廻ったおり、この地点を測量基点と定めた」旨の記載がされている。()
尊寿寺前 標高: 11.2m MAP 4km以内の寺社検索
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尊寿寺は日蓮宗の寺院である。
街道の向いには、恵比寿像が安置された石祠がある。(嘉永6年(1853)銘)
下庄の恵比寿祠(西) 標高: 10.4m MAP 4km以内の寺社検索
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良いお顔をされておられる。
松尾神社 標高: 9.7m MAP 4km以内の寺社検索
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当神社の縁起などは不詳。
下庄の恵比寿祠(東) 標高: 8.7m MAP 4km以内の寺社検索
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恵比寿様は用水路脇に鎮座している。
このあたりは昔ながらの狭い道幅である。
橋 標高: 8.6m MAP 4km以内の寺社検索
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街道はここで用水路を渡る。
ここから先しばらくは用水路沿の道である。
踏切手前 標高: 9.1m MAP 4km以内の寺社検索
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街道はここでJR鹿児島本線に突き当たる。 踏切の少し北側には大きな恵比寿像と天満宮の小社が鎮座している。
近くの住人の方の話によれば、ここにも昔は踏切あったが、 複線化の後危険な為廃止されたという。 少し北側の国道443号線沿の踏切への迂回が必要。
下庄のニ里石 標高: 8.5m MAP 4km以内の寺社検索
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この二里石は柳河城下の札の辻が基点となる。
二里石は民家の庭先にある。 ここから、北方100m程の所にJR瀬高駅がある。
ここから先はまだ踏査していません。
満福寺 標高: 8.9m MAP 4km以内の寺社検索
満福寺は真宗大谷派の寺院である。 以下未稿。
筑後松延城(蒲池氏支城)址西 標高: 9.7m MAP 4km以内の寺社検索
未稿。
大祥寺 標高: 8.2m MAP 4km以内の寺社検索
大祥寺は霊松山と号し、臨済宗妙心寺派の寺院である。
面の坂で磔の刑に処せられた樺島彦左衛門とその父、樺島式部の墓所があるという。(下の面の坂参照。)
面の坂 標高: 32.9m MAP 4km以内の寺社検索
2010薩摩街道(山川宿~瀬高宿)山川編・千寿の楽しい歴史 : 千寿の楽しい歴史によれば、この脇に「人斬り坂」がある。江戸時代の初期の田中吉政の時に、関ヶ原の戦いで敗れ、加藤清正に一時預かりにの身になった立花宗茂や誾千代姫に米や金品を隠れて仕送った罪で、松延村の庄屋の嫡男、樺島彦左衛門らが磔の刑に処せられたところであり、昔から首切り坂と呼ばれている。
本郷村の壇家も同じく処刑されたが、立花宗茂公が柳川再封された際に、両家は永代大庄屋に任命されたという。
隈川鶴松の墓 標高: 30.0m MAP 4km以内の寺社検索
2010薩摩街道(山川宿~瀬高宿)山川編・千寿の楽しい歴史 : 千寿の楽しい歴史によれば、江戸時代より御牧山には柳川藩の軍馬農馬の育成所があり、その関連もあってか、その後も馬市が盛んに開かれていた。
隈川鶴松は馬喰として活躍し野町馬市の発展に貢献した。 その顕彰のため大正11年(1922)、有志の人々によって、この地に顕彰碑を建立したものという。
野町追分 標高: 28.4m MAP 4km以内の寺社検索
2010薩摩街道(山川宿~瀬高宿)山川編・千寿の楽しい歴史 : 千寿の楽しい歴史によれば、ここで左折すれば、清水道(野町→本吉(清水)→唐尾→矢部川→羽犬塚)、直進方向は薩摩街道である。
この付近に地蔵堂があるようである。
三里石と地蔵堂 標高: 30.0m MAP 4km以内の寺社検索
未稿。
入性寺 標高: 32.3m MAP 4km以内の寺社検索
入性寺は真宗大谷派の寺院である。以下未稿。
野町天満宮 標高: 31.6m MAP 4km以内の寺社検索
未稿。
平家の塔(五輪塔) 標高: 28.5m MAP 4km以内の寺社検索
2010薩摩街道(山川宿~瀬高宿)山川編・千寿の楽しい歴史 : 千寿の楽しい歴史によれば、要川の合戦で敗れて亡くなった平家の落ち武者の霊を祀ったものであると言い伝えられているが、供養塔の主はわかっていない。
以前周辺に散在していたのを、ここに集めて、地域の人たちによって一緒に供養されてきたもの。 実態は鎌倉後期から室町時代のもののようという。
日当川地蔵 標高: 26.0m MAP 4km以内の寺社検索
肥後の国の赤星統家の子が主君龍造寺隆信によって磔により惨殺された。日当川地蔵はその子の冥福を祈るために建立された。元は別の場所にあったものを昭和62年(1987)に現在地に新築移転されたもの。