南関宿(旧: 現:熊本県玉名郡南関町)
概要
薩摩街道、伍日目。~南関宿。 | mixiユーザー(id:19181805)の日記によれば、 南関は筑後国と肥後国の国境という交通の要地に位置した街道の警備の拠点であり、現在の南関町の中心部近くには、関所と南関番所が置かれた(関所は、大津山の関、松風の関とも呼ばれていたが、関所がおかれた正確な場所は、いくつかの説があり現在もはっきりしていない。福岡県山川町と南関町の県境付近に置かれていたという説や、北の関と南の関の二つがおかれていたという説がある)。 また、参勤交代の道中、肥後藩主らが休息をとった「御茶屋」は、現在、豊前街道南関御茶屋跡として保存されている。 肥後国熊本藩初代藩主である細川忠利も、寛永9年(1632)の肥後入国の際に南関で休息をとり、熊本に向ったという。
ここでは、南関宿から山鹿宿までのルートを記載する。
経路
南関御番所跡 標高: 61.7m MAP 4km以内の寺社検索
標識が立てられており下のように記されている。
北側に上番所(役人2人)、南側に下番所(同6人)があった。 この付近を今でも「ごばんどころ」という。
現在は、番所跡の遺構が確認できない。
南関茶屋跡入口 標高: 63.7m MAP 4km以内の寺社検索
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,豊前街道南関御茶屋跡 - Wikipediaによれば、 この地は古代官道の大水駅が置かれた地。 古来、交通の要衝として発展した。 近世においても利用され、肥前国内における最後の休憩・宿泊地であった。
現在の建物は嘉永3年(1850)に起工、嘉永5年(1852)に竣工。 鹿児島から江戸に渡る途中篤姫もここで休憩したという。国史跡。
御茶屋跡に向かって右手に、南関城址(鷹ノ原城址)への登り口がある。 案内板によれば、熊本城の支城の一つ。 縄張りの規模は近世の宇土城・肥前名護屋城に匹敵する規模。 慶長5年(1600)関ヶ原の戦い直後、加藤清正みずから縄張りをした記録が残っている。 元和元年(1615)一国一城令により廃城されたという。
高札場跡 標高: 63.4m MAP 4km以内の寺社検索
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案内板によればに下のように記されている。
寛永10年(1633)に肥後藩独特の手永制が布かれ、南関手永会所が現在の南関町公民館の敷地に置かれました。
ここで、「手永制」とは藩政期の大名、細川家が採用した行政制度で、領内を「手永」と呼ばれる行政区画に分けて村を束ねて管理したもの。「手永会所」とは、現代で言う「村役場」のようなものと思われる(Wikipediaより)。
街道はこの地点で、左に90度曲がる。所謂、「鍵型道」あるいは「枡形道」である。
中町の恵比寿さん 標高: 60.7m MAP 4km以内の寺社検索
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脇の四角柱に下のように記されている。
町屋敷にあり、中町の人達が10月20日夷講を行い守ってきました。 木像は恵比寿像・豊玉姫像 石祠は寛政7年(1795) 石工 関村茂平次 関町 藤七
正勝寺 標高: 61.6m MAP 4km以内の寺社検索
正福寺は舞鶴山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。
眞光寺 標高: 59.7m MAP 4km以内の寺社検索
眞光寺は舞鶴山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。
西の木戸(推定) 標高: 56.8m MAP 4km以内の寺社検索
高札場に掲示されていた古図より推定しました。間違っているかもしれません。
イベント(ISU-G1グランプリ)開催中で、道路が人で混雑しておりここを迂回しました。 おそらく、標識などは無いと思われる。
この地点以南は、日程の都合の未踏査(記)。
南関橋東 標高: 53.4m MAP 4km以内の寺社検索
未稿。
十里木跡 標高: 90.5m MAP 4km以内の寺社検索
未稿。
八幡宮 標高: 93.1m MAP 4km以内の寺社検索
未稿。
八里木跡 標高: 20.3m MAP 4km以内の寺社検索
未稿。
光行寺 標高: 25.2m MAP 4km以内の寺社検索
光行寺は玉祥山と号し、真宗大谷派の寺院である。参勤交代の細川藩主のお茶屋として使用されていたという。
腹切り坂終点付近(豊前街道道標) 標高: 82.7m MAP 4km以内の寺社検索
郡境石 標高: 95.6m MAP 4km以内の寺社検索
「従是西北玉名郡」
七里木跡 標高: 55.3m MAP 4km以内の寺社検索
未稿。