松崎宿(旧:筑後国御原郡 現:福岡県小郡市松崎)
概要
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『松崎宿文化財マップ』の記事を下に記す。
松崎宿について
松崎宿は、有馬豊範が御原郡19ヶ村1万石の分知を受け、 寛文9年-12年(1669-72)に郡内の「鶴崎」の地に居城を築き(現在の三井高校)、 名を「松崎」と改めたことに由来する。
松崎藩の設置に伴って、北は山家宿、南は府中宿に至る街道筋が天下道(参勤交代道)と定められ、 城下町である松崎の地が宿場町として整備されていった。
貞享元年(1684)に松崎藩は改易され、 最終的には久留米藩の所領に戻るが、 その後も参勤交代道路として九州の主だった大名がここを通り、 筑後地域における重要な宿場町として繁栄していったのである。
慶応2年(1866)の古文書によれば、 松崎宿の総戸数は129軒で、旅籠が26軒、煮売屋が6軒あったという。 旅籠以外には、藩主や大名を休泊させる御茶屋を設け、 また駅伝(問屋)では物資の運搬にあたった。
宿場町の運営には庄屋・町別当が主にあたり、 必要があれば問屋、町年寄、組頭らが加わった寄り合いによって合議決定されたという。
宿場内は、南北の構口、南北の枡形構造の街道などほぼ当時のままに保存されている。 作者が今まで見た九州の宿場の中で最も江戸期の状態が良く保存されている宿場町である。 宿場内の街道はほぼ全域Google Street viewが可能である。 こちらでもお楽しみ下さい。
当宿場より、長崎街道田代宿の昌町追分(当地より西約4km)への道もあったようだ。
参考:小郡市の歴史と文化を守る会(特定非営利活動法人 文化財保存工学研究室) :: おごおり街道七物語
ここでは、松崎宿から次の府中宿(久留米)までのルートを記載する。
経路
北構口 標高: 20.4m MAP 4km以内の寺社検索
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南北の構口に設置された内容をそのまま記載する。
市指定文化財松崎宿北構口小郡市松崎 昭和51年8月1日指定
松崎宿は、北は太宰府を経て博多に、 南は久留米より柳川を経て熊本に通ずる大公道 即ち松崎街道に沿った宿場である。
松崎街道は、有馬豊範が寛文12年(1672)松崎城に入るに及んでつくられ、 延宝6年(1678)には、 従来の往還である、久留米より横隈への宝満川右岸を通る横隈街道にかわって参勤交代道路となった。 この街道は北に山家宿、南に府中宿にいたる江戸時代の天下道(幹線道路)である。
この宿場の東北と南西の出入口には、 おのおのその西側に、高さ1間(約2m)、縦横2間(約4m)の堅固な石塁、その上に物見櫓が構えられた。
ここが南の「構口」通称「かめぐち」である。 構口には番士が常駐していて、改札に従事し、 宿場への出入監視とその警備にあたった。
開設の延宝年間(1673-1681)から明治5年(1872)の宿駅廃止にいたる約200年間、 この営みは続いたが、 今はただ石塁が残っているだけである。
昭和52年3月1日 小郡市教育委員会
街道はここから次の北枡形までが「上町」と呼ばれていたようである。
北枡形 標高: 20.4m MAP 4km以内の寺社検索
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街道はここで右に90度曲がり、さらにその先を左に90度曲がる。 枡形構造がみごとに保存されている。
枡形道のすぐ先にはえびす堂がある。 このえびす様には文化3年(1806)の銘があるという。
油屋 標高: 18.9m MAP 4km以内の寺社検索
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『松崎宿文化財マップ』の記事を下に記す。
旅籠油屋
旅籠油屋は江戸時代後期(19世紀中頃)に建てられた大型の旅籠建築で、 棟を分けた「母屋」と「座敷」から成る。
「母屋」は寄棟造草葺、平入り鍵屋、 階高が高い二階建てで、建ちの高い外観が特徴である。 母屋の中央部には幅1間の大階段があり、 二階の座敷間が客室として使用されていた。(一般客用)
「座敷」は寄棟造草葺の平屋で、 玄関・次の間・座敷の3室が縦に並ぶ本格的座敷をなす。 玄関は両側に板戸を建てて障子を引き込む式台構えをなし、 座敷には床の間と平書院を設けている。 「座敷」の前面には前庭を隔てて塀を巡らし、 門を構えていた。 ここには身分の高い賓客を泊めており、油屋が脇本陣並みの施設であったことが指摘されている。
油屋には西郷隆盛が宿泊したという伝承が残されているほか、 乃木希典が昼食・休憩をとったことがその日記から明らかである。
油屋の建物内も見学できる。 ここから南枡形へ一直線の街道両脇は「中町」と呼ばれていたようである。
本陣跡 標高: 19.8m MAP 4km以内の寺社検索
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大名の宿泊施設である本陣(御茶屋)は、右写真の裏手にあったようである。
御茶屋跡は桜馬場側から行けるようであるが、あいにくその前が道路工事中で行けなかった。 そこにもえびす像があるようである。
桜馬場入口 標高: 19.3m MAP 4km以内の寺社検索
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桜馬場の入口近くの右手には宿番所があったという。 ほぼ一直線のこの道を進むと三井高校がある。
この場所が松崎城址である。 校門前の道を進むと天満稲荷神社の鳥居に突き当たる。 (江戸末期の地図には「稲倉魂神社」と表記されている。 天満神社拝殿内の扁額にもこの表記がみられる。昔は「稲倉魂神社」と呼ばれていたのであろう。)
伝馬(松崎郵便局) 標高: 19.6m MAP 4km以内の寺社検索
街道左手には、松崎郵便局がある。 このあたりに伝馬があったという。 長崎街道・唐津街道でいう馬継所あるいは問屋場と言われていたものに相当するのであろう。
南枡形 標高: 20.8m MAP 4km以内の寺社検索
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ここまで南進してきた街道は、ここで右に90度カーブ、さらにその先で左に90度カーブする。 枡形構造がみごとに保存されている。
2番目のカーブの脇にはえびす像が鎮座している。(大正11年に奉納されたものという。)
この枡形のすぐ東側には教薗山 真浄寺が伽藍を構えている。
ここから、南構口までは「下町」と呼ばれていたようである。
えびす宮碑 標高: 20.1m MAP 4km以内の寺社検索
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えびす宮碑街道右手にひっそりと立っている。 えびす宮碑は自然石に文字が彫り込まれたものである。
鶴小屋前 標高: 20.5m MAP 4km以内の寺社検索
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鶴小屋は旅籠であったという。 明治以降の建築と言われているが、旅籠建築の雰囲気が良く残されている。
鶴小屋の少し手前の街道右手には自然石製の小さな石碑が小祠に安置されている。 江戸末期の地図によれば、このあたりに柳清エ門の墓があったという。 これが、墓かどうかは作者は未確認。 しかし、旅籠前に墓石を置くとは何か曰くがあったのかもしれない。
鶴小屋を少し過ぎた所の街道右手には不動明王の木像が安置された祠がある。
柳清エ門の墓・不動明王像には綺麗な生花が手向けられていた。 地元の方々の信仰心の篤さを感じる。
えびす像 標高: 20.8m MAP 4km以内の寺社検索
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このえびす像は大正11年に奉納されたという。
えびす像の対面には古い商家の建物が観られる。
南構口 標高: 19.8m MAP 4km以内の寺社検索
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見事である。
下岩田の天満宮 標高: 13.0m MAP 4km以内の寺社検索
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鳥居の束額には「天満宮・天神宮」と表記されている。
この地点の前後の街道両側は田園地帯となっている。
下岩田の一里塚跡 標高: 11.3m MAP 4km以内の寺社検索
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石碑と案内板は、街道右脇の民家の敷地内に建てられている。 案内板の内容を抜粋して下に記す。
一里塚跡
(前略)この地の「一里塚」は米府年表によると「寛延3年(1750)2月三井郡往還筋壱里塚建。 八丁島村之内、光行一里塚より乙隈村御境石迄の間一里塚出来」とある。 即ち、五郎丸、光行、下岩田(この地)、干潟へと、有馬藩によって、それぞれの地へ「一里塚」がつくられたものである。 一里塚は設けられたものの、放置のまま時がたち、修理がされず、漸次すたれて天明中(1780)頃には、 大半は原形も失われたということである。
ここの「一里塚」も昭和の中頃までは、 大きな榎の名残も見られたが、今は昔を偲ぶものはほとんど残っていない。
昭和54年2月 小郡市教育委員会 小郡市郷土史研究会
下岩田の追分石 標高: 12.4m MAP 4km以内の寺社検索
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追分石は御影石製のようである。 かなり風化が進んで作者は完全な判読は不可能であった。 『秋月街道をゆく 』によれば、 南面「南至、北野・久留米・御井町 西至、小郡・田代」 西面「北至、二日市・博多 東至、松崎・甘木・山家」 東面「明治44年 下岩田村在郷軍人」と刻印されているという。
ここから次の古飯集落までの街道は圃場整備の為消失しているという。
古飯北枡形口 標高: 11.5m MAP 4km以内の寺社検索
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この地点から、平方郡境石までが当時賑わった古飯の集落である。 南北には枡形構造の出入口があったようである。 右図を見ると、油屋・木賃宿・鍛冶屋・麺屋・饅頭屋・蝋屋・醤油屋・呉服屋・酒屋・目薬屋・米屋・紺屋・砥石屋・つり屋・おこし屋・金貸屋・饅頭屋・床屋・共同風呂・糸屋・桶屋・帽子屋などがあったようである。 ここに来れば生活用品一式が揃えられる場所であったようである。
下に本集落内に掲示されている案内板の内容を引用する。
在郷町 古飯のあゆみ
江戸時代になると、主要な街道の要所に在郷町が形成されました。 在郷町とは、江戸時代に成立した商工業者が集中する地域のことで、 周辺の農家が日用品を購入したり、余った生産物を売るために重要な場所でした。 家並は街道に沿ってでき、 面的な広がりはありません。
古飯は、薩摩街道が整備される延宝(1673-1680)年間に町が形成され始め、 宝永(1704-1710)年間には在郷町として機能していたと考えられます。 元禄(1688-1703)年間の記録では、町の規模は2町58間(約320m)[1]で、戸数は28戸となっています。
薩摩街道は。有馬豊範による松崎藩が成立した街道で、 久留米府中宿から、平方、古飯、松崎宿を通り、筑前山家宿で長崎街道と合流します。 後に道中の便宜を図るために、一里塚(八丁島・下岩田・干潟)や立場茶屋(光行・干潟)なども整備されました。 古飯町も、参勤交代をはじめ、お宮参りなどで街道の利用者が増えるに従って発展し、 明治時代以降も様々な日用品の店や居酒屋、床屋、宿屋などが出来て大いににぎわいました。 特に目薬屋は近隣でも有名な店でした。
大正13年(1924)、九州鉄道(現在の西鉄)が開通すると、 人々の往来は減少します。 しかし、現在も町筋には繁栄祈念の恵比寿像や、諏訪神社、古屋佐久左衛門・ 高松凌雲兄弟の生家が残り、馬風流[2]の祭りも行われるなど往時をしのばせています。
平成25年11月 小郡市教育委員会
古飯集落北口 標高: 12.3m MAP 4km以内の寺社検索
ここから古飯集落がはじまる。 道幅は2間程度の昔のままのようである。
案内板・道標 標高: 11.2m MAP 4km以内の寺社検索
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未稿
高松凌雲碑 標高: 11.9m MAP 4km以内の寺社検索
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幕末生まれの兄弟、古屋佐久左衛門・高松凌雲の生誕地という。
ここには、二人の顕彰碑と案内板がある。 その裏手の建物が生家と思われるが、未確認。
佐久左衛門は、幕末勤王の志士。弟凌雲はオランダ医学の医師。 戊辰戦争では、兄は勇猛な指揮官として、弟は敵味方関係なく治療をした軍医として戦ったという。 兄は戦死。弟はその後貧困層の医療に携わって一生を終えたという。
恵比寿像・馬風流の飾り 標高: 11.8m MAP 4km以内の寺社検索
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正月4日のせいか、恵比寿様の前には形のかわった大根、竹・木製の食物を形どったお供え物が添えられていた。
恵比寿像の斜め向いには「馬風流」の飾り。 良く見ると竹製の食物を形どったお供え物と一所に本物の鯉がぶら下げられている!! この地区は西に宝満川・東に筑後川が流れ、その支流と思しき水路が縦横に通過している。 川に関係するお祭り・風習なのであろう。
馬風流:やなぎ医院のブログを再掲する。お供え物の詳しい作り方などが掲載されている。
諏訪神社 標高: 10.4m MAP 4km以内の寺社検索
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一の鳥居は街道沿いではなく、街道と交差する県道14号線沿いにある。
境内入口付近には、両側に石仏を従えた金色の小さな仏像が安置されている。
境内の建物には「昭和28年筑後川大洪水」の時の水位を示す看板が設置されている。 ちゃんと測定していないが、大人の胸の高さほどあったろうか?
筑後川の三大水害参照のこと。
古飯恵比寿 標高: 11.8m MAP 4km以内の寺社検索
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藁で飾られた恵比寿様が鎮座。その隣には木製の小堂がある。
古飯道標 標高: 9.2m MAP 4km以内の寺社検索
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近年建てられたと思われる、木製の道標と小郡市の歴史を守る会の「おごおり街道七物語」サイトの案内がある。
平方郡境石 標高: 11.6m MAP 4km以内の寺社検索
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正面に「北御原郡 従是北四百六間 古飯村丁場 南御井郡」、 側面に「文政十二(己丑)年九月」
光行の一里塚 標高: 10.2m MAP 4km以内の寺社検索
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この一里塚前後の街道は県道322号線となっている。 両サイドは広大な田園地帯となっている。
石碑の礎石部分は白くなっているが、これは雪ではなく、最近の工事跡のようである。
この県道322号線は片側1車線。歩道も無い所が多い上に業務用の大型トラックを始め車の往来が激しい。 くれぐれもご用心ください。
西の宮橋手前 標高: 9.5m MAP 4km以内の寺社検索
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西の宮橋は大刀洗橋に架かる橋である。 橋の手前に恵比寿像が鎮座している。
北野天満宮下宮 標高: 11.3m MAP 4km以内の寺社検索
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鳥居前は三叉路となっている。
北野天満宮(本宮)はここから県道81号線を東進して1.6kmほどの場所に鎮座している。
石崎三叉路 標高: 11.1m MAP 4km以内の寺社検索
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三叉路脇には弘法大師の小さな石像が安置された真新しいお堂が建てられている。
脇には「御国三十三箇所霊場」霊場碑が建っている。 この大師堂と霊場碑はここより100ほど東側の円勝寺の参道口だったのだろう。
円勝寺は集仙山と号し曹洞宗の寺院である。 筑後三十三箇所観音霊場第14番札所となっている。
神代橋手前 標高: 15.3m MAP 4km以内の寺社検索
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当時はここには橋は無く、「神代渡し」と呼ばれる渡し場が多数あったという。
伝説レベルの話のようであるが、元寇の時南九州の武士たちがここを渡るのに船で浮橋を架けて渡河、 無事博多に着いたという。この橋は「神代浮橋」とよばれたという。
神代天満宮 標高: 14.0m MAP 4km以内の寺社検索
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境内の案内板によれば、「身浴びの天満宮」とも呼ばれているという。 昔菅原道真がこの地に立ち寄った際、この神社の所在地にて沐浴した事によるという。
文政8年(1825)銘の鳥居前には、道を挟んで大師堂、石碑、猿田彦などが観られる。
この先、ほどなくして次の府中宿である。