石堂橋口(旧:筑前國博多千代松原 現:福岡市博多区千代)
概要
ここでは博多の玄関口、石堂橋口から次の金出宿までのルートをたどる。
一部の箇所を除いて、このコースは車の往来がけたたましく歩道なども無い所も多い。街道歩きは交通事項・排気ガスに注意しながらとなるので覚悟が必要。時の流れには逆らえず。
経路
石堂橋口 標高: 7.4m MAP 4km以内の寺社検索
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ここを、篠栗街道の始まりとしよう。 博多から石堂橋を通ってきた街道は、ここで唐津街道と篠栗街道とに分岐する。
石堂橋口の周辺は下町の風情を僅かに残すのみで、昔の遺構らしきものは何も確認できない。
新茶屋 標高: 5.7m MAP 4km以内の寺社検索
『筑前名所図会』 | ![]() |
ここと、南側の御笠川の間一帯は昔「新茶屋」と呼ばれていた。 (今昔マップの1922-26の地図では水茶屋と表記されている。)
4軒の茶屋があり、大変な賑わいだったようだ。 そのうちの一軒「若藤屋」の跡地には現在「常盤館跡」として石碑がたっている。元治元年平尾山荘から出発した高杉晋作はこの若松屋で月形洗蔵と待ち合わせをしたようだ。(GoogleMapの投稿より) 『筑前名所図会』の記事を下に記す。
新茶屋は石堂橋の東にあり、所謂千代の松原の境内にて土地最綺麗なり、冶遊郎白拍子つとひて三絃の聲常にたへす、4軒の茶亭にハ(正木屋、若松屋、箱崎屋、若藤屋の柏戸あり)山海の鮮魚、珍果をつらね、覇臺の美酒を酌み、今様の風流に遊ふハ、いとはれらかなり、酒徒侠客ハ、夜よ夜よ喧しく家を忘るゝ、 無頼の少年も富人に劣らしと、臂をはるもいかめし、諸州の柏戸ハおおかれと、斯酒宴に興を催すハ、たくひあるましくおほへはへる、誠に西州の一奇といふへし
右の『筑前名所図会』の図では、図の下側に左右に流れる川が御笠川と思われる。
この周辺は町家風の商店が一軒ある他は、昔の遺構らしきものは何も確認できない。
千代森神社 標高: 5.3m MAP 4km以内の寺社検索
『筑前名所図会』 | ![]() |
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その昔、領主がこの地に社殿を建て妙見(北極星)を祀ったのが始まり。 当社周辺は鎌倉時代(1185-1333)頃、「千代の松原」と言われ風光明媚な海辺であった。 下って、戦国時代に入り大友氏の戦乱に遇い社殿は焼失。 元禄時代(1688-1704)、社殿が再興される。 宝永年間(1704-1711)稲荷神社が新たに建てられ妙見社との相殿で祭祀されるようになった。
この辺りは街道の要衝で、7本の道が合流する、巷であり、「七ケ辻」と云われていた。(以上門前の達筆な字で書かれた案内板より)
現在の妙見交差点は休む間なく車両が通行している。排気ガス・騒音などがけたたましい。 境内に入ると、うって変わって静寂の空間となる。 木々に覆われた境内はしっとりとした味わいである。
吉塚地蔵大菩薩 標高: 5.8m MAP 4km以内の寺社検索
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天正14年(1568)夏、島津勢力が九州平定を目指し岩屋城・宝満城を落とし8月立花城を囲む、八女の武将星野吉実・吉兼兄弟は300名余りを引き連れて出陣。毛利軍の豊前到着を知った島津勢は8月24日急遽立花城の囲いを解いて本国に撤退。星野勢は島津勢の撤退を助ける為、高鳥居城で防戦するも落城。二人も戦死。戦後、立花統虎は当地蔵堂に二人の首を丁重にあつかい現在の吉塚地蔵尊のあるこの地に葬った。
現代の街道は拡張工事の為、片側2車線。交通量の多い道となっている。 街道の痕跡などは確認できない。
仲原の観音堂 標高: 6.2m MAP 4km以内の寺社検索
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大木(樹名不詳、遠くからも目立つ)の下にある小堂。小堂内には石造の十一面観音像が安置されている。 脇には頌徳碑(文字がかすれて判読しづらい) と天保6年(1835)銘の猿田彦大神が立っている。 頌徳碑の最初の文面「戦後交通禍ノ頻発ハ子を持ツ親(後略)」となっており、終戦後に建てられたもののようだ。
観音堂前の街道は、現代では凄まじい交通量である。
『筑前國続風土記附録』巻之35 表糟屋郡 下の項に仲原村の記事がある。 それによれば、「志賀大明神社(ジノキ)」が産神とあるが、当社の場所は未確認。 また、『筑前國続風土記』巻之18 糟屋郡 表 下仲原村志賀大明神社の項に「田舎にしては大社なり」と失礼な事が書いてある。
この前の街道は何度も通ったが、いつも素通りしていた。 今回初参拝である。
旧道口 標高: 5.6m MAP 4km以内の寺社検索
ここで、県道607号線と別れ原町に入る。
今昔マップ(1922-1926頃)の地図では、この辺りから石碑の位置の街道の両サイドには集落があった事が確認できる。 街道の起点(石堂橋口)から金出宿までの距離が約3里。少し離れすぎている(作者の経験からして宿場間の平均距離は2里)。 原町あるいは、岩崎神社が鎮座している次の長者原町は旅人の一時の休憩地点の役割を果たしていたのだろう。
ここから先はしばらく旧道で狭い道であるが、南側を走る県道607号線の裏道として利用する車も少なくない。 歩道も無いので交通事故には十分ご注意されたし。
原町の小堂 標高: 6.7m MAP 4km以内の寺社検索
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小堂は石垣の上にある。間口半間の御堂内にはぎっしりと石仏が安置されている。
ここからしばらくは平坦な道が続く。
小堂に登る石段脇に「高野山弘法大師」と書かれた自然石で造られた石碑がある。 表面に「明治二十年旧三月十八日午前十二時頃酒造営業御彼相成三十一年始之候」 裏面には保証人などの氏名がびっしりと刻まれている。
明治期にこの地で酒造業を創業した記念碑だろう。今は残念ながらこの付近に酒造業の建物があるのは確認できない。
原町の石碑 標高: 10.7m MAP 4km以内の寺社検索
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石碑は「正徳四(1714)甲午十月吉日」銘。 残念ながら表面の文字の判読は不可。
石碑は、一見してゴミ捨て場のような趣の塀の中に立っている。 うっかりすると見逃すので注意が必要。
大久醤油 標高: 17.2m MAP 4km以内の寺社検索
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大久醤油は明治30年(1897)創業。大正天皇にも献上した醸造元である。
この辺りは道路拡張の為、当時の風情は残っていない。
岩崎神社 標高: 18.3m MAP 4km以内の寺社検索
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参道口は街道沿いにあるが、そこから境内までは120mほど歩く。 途中、福北ゆたか線の線路を跨ぐ。 Google Mapでは鳥居をくぐって行くこの道の先は当社より少し離れているように表示されるが、 この道を道なりに歩けば境内の正面にたどり着く。(車は通行不可)
『筑前國続風土記附録』巻之35 表糟屋郡 下 の新長者原村の項に当村に当社、岩崎神社が鎮座しているという記事がある。
また、『筑前國続風土記』巻之18 に下記の記事がみられる。
○長者原(新長者町)
下中原の境内に在て、博多より篠栗への大道の左右なり。其所に長者屋敷の址とてあり。礎少残るれり。 此長者何の時住しにや、いざしらず。太平記に、既に長者が原と云名あれば、久しき世の事なるべし。 元和年(1615-1624)中、長政公此処の西に町を立給ふ。是を新長者原町と云。博多より篠栗へ通る大道也。
光酒蔵 標高: 19.5m MAP 4km以内の寺社検索
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「博多小女郎」ブランドで有名な光酒蔵は大正11年(1922)創業の光安酒造株式会社から昭和34年(1959)に分離独立した蔵元だという。(ホームページより)
乙犬の小堂 標高: 24.1m MAP 4km以内の寺社検索
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小堂内には弘法大師像・不動明王像が安置されている。 御堂が何時の頃からここにあったかはわからない。 この前後の街道は多々良川の支流の左手に沿って東に進む。 付近では当時の遺構などはまったく確認できない。
『筑前國続風土記附録』巻之35 表糟屋郡 下の項に乙犬村の記事がある。 それによれば、「八幡宮(ジノキ)」が産神とあるが、当社の場所は未確認。
次は金出宿である。