赤間関(旧:長門国長府藩領 現:山口県下関市観音崎町)
概要
ここでは赤間関内のルートを掲載する予定である。
天明8年(1788)10月2日(新暦 10月30日)、江戸から長崎へ向かう司馬江漢は赤間関に宿泊。 翌日、赤間関より長崎街道内裏宿に船にて渡る。 かなり難儀したようだ。『江漢西遊日記 (東洋文庫)』より引用する。
天気。風あり。爰は九州へ渡る処にして、小倉へ3里、大里へ1里半あり。
4時(午前10時)比より乗合船、尤も渡船は小舟なり。 西風強ツヨシ。故に船を出す事見合居る。 退屈故に、岩国内坂氏より贈りし吸筒を取出し、酒を買ひ呑み、余る処は乗合ひの者に呑ませける。
のり合ひの者、「船を出さんかださんか」と口々に云ければ、漸く船を出しけるに、西風だんだん剛して、沖の方より大浪高く船の内に打込み、小倉は西に当り、内裏(大里)は少し南にあたり、風すこし開きなり。
帆は横にまがり船かたぶき、潮、舟の内に入。屋倉に入りたる者は風呂に入りたる如く皆々死たる者の如く、べ吐をはき、誠に舟覆らんとす。 吾と1人飛脚態の者、年50余、屋倉の上にのり、向ひ合い居たり。 其頭の上を浪飛越す故に、桐油を着て、浪を正写しにせんとて、波の飛びあがるをのみ見しなり。是は酒の酔爰にて発し、少しも舟に酔ず。 爰に於て、酒は気を甚だ太くして呑むまじき物なりと知りけり。 夫故、漸く1里半、内裏(大里)へ半時のうちに付けり。 船中働く者、僅に3人。「帆を下せ下せ」と呼びけれど、帆は風をふくみ一向下すことならぬものなり。船に打ち込むアカをかえるも此3人のみ。乗たる者は死人の如し。誠にあやうき事に逢ひけれ。
夫より岸に上がり、皆々ひとごゝち付たり。内裏(大里)と云処、町あり。(以下略)
経路
極楽寺 標高: 7.3m MAP 4km以内の寺社検索
極楽寺は願海山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。
阿弥陀寺跡 標高: 5.9m MAP 4km以内の寺社検索
阿弥陀寺は聖寿山号し浄土宗の寺院であった。 以下、出稿中。
本陣伊藤邸址 標高: 5.2m MAP 4km以内の寺社検索
案内板の内容を下に記す。
本陣 伊藤邸跡
伊藤家は鎌倉時代から続く下関屈指の名家。 室町・江戸時代には港町下関の指導者的な地位にあり、この地に広大な邸宅を構えていた。 室町時代は、下関の交通・流通などを掌握して朝鮮交易も行い、江戸時代には大年寄として町政を司る。 また、本陣を兼帯して九州諸大名の参勤時の休憩所となり、各藩の用達も行った。 特に、対馬宗氏とは前代から親密な関係にあった。
伊藤家はオランダ宿として名高い。 江戸に参府するオランダ商館長は、伊藤家と佐甲家の2つの本陣を下関の定宿とした。 歴代当主は進取の気性に冨み、開明的であったが、なかでも文化・文政期の当主杢之允盛永は、熱烈なオランダ趣味で、ヘンドリック・ファン・デン・ベルグというオランダ名を名乗り、ヅーフ、ブロンホフなどの商館長と親しく交際した。佐甲家に宿泊した商館医のシーボルトも杢之允から歓待されている。
また、幕末の当主杢之助(静斎)は吉田松陰と交際し、助太夫(九三)は真木菊四郎や坂本龍馬を支援した。 とりわけ、慶應2・3年頃の龍馬は伊藤家を活動の拠点としていた。 近代初頭の明治5年6月、伊藤家は明治天皇の西国巡幸時の行在所となり、本陣としての最後の役割を終えた。
下関市
引接寺 標高: 4.3m MAP 4km以内の寺社検索
引接寺は関亀山と号し浄土宗のお寺である。
赤間関在番役所跡 標高: 4.1m MAP 4km以内の寺社検索
未稿。
国分寺 標高: 6.0m MAP 4km以内の寺社検索
国分寺は高野山真言宗の寺院である。
街道を挟んで大國神社が鎮座している。
本陣佐甲家 標高: 4.3m MAP 4km以内の寺社検索
未稿。
専念寺 標高: 4.8m MAP 4km以内の寺社検索
未稿。
馬関越荷方役所跡 標高: 2.8m MAP 4km以内の寺社検索
未稿。
永福寺 標高: 5.1m MAP 4km以内の寺社検索
永福寺は重関山と号し、臨済宗南禅寺派の寺院である。