益田宿ますだ(旧:石見浜田領美濃郡益田町 現:島根県益田市七尾町・本町)

概要

益田城址に鎮座する住吉神社社殿
益田城址に鎮座する住吉神社社殿 
益田市内の町並み - 住吉神社社殿を背にして撮影
益田市内の町並み - 住吉神社社殿を背にして撮影 

ここでは益田宿から次の津和野の手前までのルートを掲載する予定である。

近世の益田町は浜田藩領と津和野藩領の境界の宿場町であったようである。(Links①Links②Links③ より) 現在でも昔ながらの商家の町並みがみられる益田市本町・七尾町あたりであったのではなかろうか? その地は西側に益田川が流れ、東側には七尾城のあった七尾山に囲まれた平地である。

本ページの全ルートは 石見横田~益田~岡見津和野~樫実峠~鬼ケ峠~徳城峠~青原~石見横田『歴史の道 - 山陰道Ⅲ』を参考にさせて頂いている。

経路

辰ノ口 標高: 9.3m MAP 4km以内の寺社検索

辰ノ口 - 益田宿内に向って撮影
辰ノ口 - 益田宿内に向って撮影 
石柱・案内板・道標
石柱・案内板・道標 

街道の道幅はここからその先の萬福寺付近までは昔のままのようである。 案内板の内容を下に記す。

旧山陰道辰ノ口

萬福寺門前を通り石橋を渡ると、東に山陰道。北に久城に通じる道とに大きく二手に分かれていて、あたかも龍が口を開けたようだったことから【辰ノ口】と言われるようになったという。(木村晩翠著「随筆石見物語」では「龍の口」)

慶応2年(1866)6月17日の四境戦争・石州口の戦で、幕府軍は遠田・津田方面に総退却となったが、 ここでは両軍入り乱れその戦いは熾烈を極めた。

浜田藩の剣豪永井金三郎は、今日を晴れの討死と覚悟し獅子奮迅の働きをしたが銃弾で負傷、 やむなく辰ノ口の小屋に隠れていたところ、18日に追手の若い長州兵に見つかり討たれたという。

説明板の脇にある石柱は、現在の道の向いに設置されていたものだが、彫ってある文字は【濱田(太)道】とあるように判読でき、 旧山陰道の標柱であったと推測できる。

地元では通称「峠山道」と呼ばれ、古くから散策道として親しまれている。

平成19年3月 東町 山彦会

「旧山陰道 辰ノ口200m」道標 標高: 8.8m MAP 4km以内の寺社検索

道標
道標 
街道(左右方向の道は国道191号線) - 萬福寺に向って撮影
街道(左右方向の道は国道191号線) - 萬福寺に向って撮影 

街道はこの地点で国道191号線を横切る。

萬福寺参道口 標高: 10.7m MAP 4km以内の寺社検索

参道口(左手) - 益田宿内に向って撮影
参道口(左手) - 益田宿内に向って撮影 
参道口手前の町並み - 益田宿内に向って撮影
参道口手前の町並み - 益田宿内に向って撮影 

萬福寺は時宗の寺院で、境内には雪舟庭園もある。 慶応2年(1866)、第2次長州征伐・益田口戦争の際、幕府軍の陣営となった寺である。 参道脇には清瀧山天満宮が鎮座している。 この辺りの街道沿いには古い町並みが散見できる。

大橋 標高: 7.1m MAP 4km以内の寺社検索

大橋 - 萬福寺東側より撮影
大橋 - 萬福寺東側より撮影 
大橋
大橋 
橋の手前の道標
橋の手前の道標 
橋にあしらわれた益田氏の家紋
橋にあしらわれた益田氏の家紋 
益田川 - 大橋より上流方向を撮影
益田川 - 大橋より上流方向を撮影 

橋のたもとにある案内板の内容を下に記す。

札場の辻(現在の本町交差点)から益田川を渡って土手沿いを萬福寺に至る道筋は江戸時代の山陰道にあたりますが、 中世の時代も七尾城下の益田本郷市と益田家の居館三宅御土居を結ぶ重要な道筋であったと考えられています。

昭和62年(1987)3月に完成した大橋の欄干には中世の豪族益田家の家紋「丸に九枚笹」が使われています。 笹はすなわち竹の葉で、竹の持つ性質である長寿・瑞祥・武威・節度・猛々しさなどの意味が込められています。

中世の当時、益田川下流の港で川船に積み替えられた物資は、この付近で荷揚げされ、益田本郷市(上市・中市・下市)に供給されました。 関ヶ原の戦いの後、益田氏が長門国須佐に移ると益田本郷市は衰退しましたが、江戸時代の初め右田宗味によって六斎市(宗味市)として再興され、戦前まで続きました。

益田市教育委員会

益田本町郵便局前四角 標高: 8.6m MAP 4km以内の寺社検索

四角
四角 
四角
四角 

街道はこの地点で右に90度曲がる。

手前の大橋に掲げられた案内板によれば、「札場の辻(現在の本町交差点)から益田川を渡って土手沿いを萬福寺に至る道筋は江戸時代の山陰道にあたります」と記載されている。 この交差点には「本町交差点」の表記がないが、この場所をとりあえず札の辻があったということに推定して先に進もう。

「机崎神社 山陰道」道標(益田高校西) 標高: 7.6m MAP 4km以内の寺社検索

道標
道標 
街道
街道 
道標の西側にある稲積山
道標の西側にある稲積山 

道標のある地点の西側には石見稲積城があったと言われる稲積山がある。

慶応2年(1866)6月16、17日、石州口の戦いで村田蔵六(大村益次郎)率いる長州軍が岸静江の守る扇原関門を突破して、 益田に攻め入ろうとした時、蔵六は百姓姿になり幕府軍の立てこもる萬福寺の位置を確かめる。 この時この稲積山に登り益田の村の様子を確認したという。

特筆すべきは、蔵六率いる長州軍が益田攻めのおり市街戦で幕府軍の大砲が油屋の蔵に命中し出火。 蔵六は「戦は天下のためである。民を苦しませてはならない。」と述べ、一時休戦し、消火にあたる。町民はこれに感謝して酒を振る舞ったという。これ以降民心は長州軍に集まったという。 (毎日新聞 2015年7月22日 島根地域版 「近影遠影」(高橋一清)より。)

大師堂 標高: 9.7m MAP 4km以内の寺社検索

大師堂
大師堂 
大師堂前の街道 - 津和野に向って撮影
大師堂前の街道 - 津和野に向って撮影 
六地蔵堂
六地蔵堂 

津和野に向って街道左手の石段を登ると大師堂がある。 さらに坂道を少し登れば六地蔵堂がある。 いずれも由緒は不詳。

このあたりの街道は津和野に向って左手の山裾に沿って進む。かなり蛇行している。

地蔵菩薩 標高: 12.9m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵菩薩
地蔵菩薩 
地蔵菩薩の街道 - 津和野に向って撮影
地蔵菩薩の街道 - 津和野に向って撮影 

地蔵菩薩は街道左手の石垣の上に鎮座されている。

机崎神社 標高: 9.8m MAP 4km以内の寺社検索

机崎神社門前の街道 - 津和野に向って撮影
机崎神社門前の街道 - 津和野に向って撮影 
拝殿
拝殿 

境内の案内板の内容を下に記す。

由緒

古伝によれば、この机崎神社は奈良時代、聖武天皇の天平年間(約1200年前)背後の稲積山に五穀産業関連の祖神である宇迦魂命(うかのみたまのみこと)大国主命(おおくにぬしのみこと)、猿田彦命の三柱の神様を御祭神として奉斎したことに始まります。

平安時代には稲積山には官柱を新たに造営し、稲積神社と称して、盛んに祭祀を営みました。 鎌倉時代初期、益田兼高公が七尾城主となるや神威は更に増し、南北朝時代初期、興国2年(1341)の争乱の時に山頂の神社を現在の地に遷座し、机崎神社と称するようになりました。

幕府は慶応2年(1866)第2次長州戦争の軍を起こし、四堺より戦端が開かれ石州口の戦場となったのが益田でした。 幕府軍は浜田藩、福山藩の連合軍で、6月17日の朝萬福寺と勝達寺(天石勝神社)、医光寺に布陣しました。 村田蔵六(大村益次郎)率いる長州軍は幕府軍の動きを読み16日には扇原関門に迫りました。 扇原関門の関守は浜田藩士岸静江国治、少数の士卒そして農民兵16名のみです。 藩命を遵守した岸静江は関門に迫る長州軍を断固拒絶し、槍を構えた立ち姿のまま銃弾を浴び絶命したといいます。 藩境の扇原関門を突破した長州軍は机崎神社に集結し、指揮をとった村田蔵六が傍らの稲積山で敵情視察をし幕府軍の動静を探り、作戦を立てたと言われています。

平成27年2月吉日 益田市観光協会

地蔵堂 標高: 10.1m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵堂
地蔵堂 
地蔵堂前の街道(白壁造りの民家が見える) - 津和野に向って撮影
地蔵堂前の街道(白壁造りの民家が見える) - 津和野に向って撮影 

地蔵堂は街道左手の山裾の土手に建てられている。 この先には白壁造りの土蔵のある民家が見られる。

「旧山陰道」道標 標高: 11.2m MAP 4km以内の寺社検索

道標(写真中央) - 津和野に向って撮影
道標(写真中央) - 津和野に向って撮影 

このあたりの街道は左手に山、右手に田畑を見て蛇行している。 この地点も含めてこの辺りは道標がこまめに設置されており街道歩きには優しい心配りである。

「旧山陰道・扇原関門跡」道標・和崎商店 標高: 14.1m MAP 4km以内の寺社検索

道標 - 津和野に向って撮影
道標 - 津和野に向って撮影 

同上。

大元神社東 標高: 17.2m MAP 4km以内の寺社検索

全景 - 津和野に向って撮影
全景 - 津和野に向って撮影 
拝殿 - 津和野に向って撮影
拝殿 - 津和野に向って撮影 
門前の風景 - 津和野に向って撮影
門前の風景 - 津和野に向って撮影 
街道(左手の白い建物は多田温泉白龍館) - 津和野に向って撮影
街道(左手の白い建物は多田温泉白龍館) - 津和野に向って撮影 

西進してきた街道は大元神社の参道口で90度左にカーブして扇原関門への上り坂となる。 上り坂の左手には多田温泉 白龍館がある。 街道歩きの足を休めるにはもってこいの場所である。

境内の御影石製の案内板の内容を下に記す。

須郷田山大元神社 由緒・沿革

創立は室町時代第104代後柏原天皇の永正2年(1505)9月、 村民の厚い信仰により多田村大字大元に勧請。 文政9年(1826)9月、大元の地より多田里を一目で見下ろすことができる須里田山の現在の地に移転。 明治5年村社に列せられ、明治39年勅令により大正2年県告示を以って神社に指定される。 昭和3年の式年大祭に際し社殿新築したのが現在の社殿である。

岸静江の墓碑 標高: 65.9m MAP 4km以内の寺社検索

墓碑
墓碑 
墓碑脇の小祠
墓碑脇の小祠 
墓碑全景
墓碑全景 
扇原関門跡への街道
扇原関門跡への街道 
扇原関門跡への街道
扇原関門跡への街道 

墓碑脇の案内板の内容を下に記す。

史跡 岸静江国治(きししずえくにはる)の墓

岸静江国治は、天保7年(1836)群馬県館林で生まれる。

慶応2年(1866)6月16日朝、横田を出発した村田蔵六(後の大村益次郎)の指揮する長州軍は、 九ツ時(12時)頃に扇原関門に迫り開門を要求した。 浜田藩から関門の隊長を拝命した国治は、僅かな部下と急募の農民とともに防備についていたが、これを拒否して、 いわゆる石州口の戦いの火ぶたが切られることとなった。

しかし圧倒的な兵力を有する長州軍の前に、関門は重大な危機に直面したので、国治は部下と農民を逃し、 ひとり関門を死守するが敵弾を受け、31歳の若さで壮絶な戦死を遂げた。

勇敢な戦死者に長州軍から費用が出され、多田地区民により手厚く葬られたのが「浜田藩岸静江墓」である。 昭和8年靖国神社に合祀、国治の脇差しは現在、益田市立歴史民俗資料館に保管されている。

平成22年3月 益田市教育委員会

岸静江国治 | 益田市の歴史・風景体験レビューによれば、 「剛勇ニシテ錚々タル、十字長槍ノ達人タルモ衆寡適セズ、切歯シテ悲愴ナル、最後ヲ遂グ。乃チ飛弾満身、既ニ絶命スト雖モ、門前ニ槍ヲ杖キテ、仁王トナレリ。宛モ生ケルガ如ク、儼然トシテ瞑目ス。」と記されており壮絶な最期であったようである。

ここから直線距離で約2kmほど南西に伽藍を構える西禅寺が岸静江の菩提寺という。

ここから先、養鶏場までは道幅も狭く街道両サイドは木々に覆われており単独行は危険である。

扇原関門跡 標高:103.3m MAP 4km以内の寺社検索

関門跡手前の街道
関門跡手前の街道 
関門手前の石組み
関門手前の石組み 
「岸静江戦死の地」石碑
「岸静江戦死の地」石碑 
石碑後ろの石仏
石碑後ろの石仏 
国境石「從是北濱田領」
国境石「從是北濱田領」 
国境石「從是南津和野領」
国境石「從是南津和野領」 
関門先の街道
関門先の街道 

関門跡には、「岸静江戦死の地」と刻まれた石碑と、その後ろには2体の石仏がたっている。 石碑よりやや手前には石組みが残る。この石組みの上に番所があったのかもしれない。

石碑のすぐ先には、国境石が二本、街道を挟んでたっている。 「從是北濱田領」、「從是南津和野領」。 この関門前後の道幅は約1間。当時のままのようである。

扇原関門跡道標 標高: 91.6m MAP 4km以内の寺社検索

道標付近(拡大)
道標付近(拡大) 
道標付近
道標付近 

街道はここで林道と合流する。 合流地点には「扇原関門跡」の道標が設置されている。

「特別社 豊田神社 奥の院参道」の石碑 標高: 87.0m MAP 4km以内の寺社検索

石碑
石碑 
石碑前の街道(紫色の線は奥の院への参道)
石碑前の街道(紫色の線は奥の院への参道) 
参道口にある鳥居
参道口にある鳥居 

石碑は街道脇に建てられている。まだ真新しいものである。 銘は正面:「特別社 豊田神社 奥の院参道」、側面「奥の院まで九百二十米」。

石碑脇から10数mほど参道沿いに登ると鳥居があり束額「塔寺大権現」の文字が記されている。 鳥居から山中へは草木に覆われた参道が続いているようである。 ヘビ嫌いの作者は前進を断念。

JR石見横田駅前 標高: 22.3m MAP 4km以内の寺社検索

JR石見横田駅
JR石見横田駅 
駅前の街道 - 津和野に向って撮影
駅前の街道 - 津和野に向って撮影 
駅前の高津川漁業協同組合
駅前の高津川漁業協同組合 
駅構内 - 津和野に向って撮影
駅構内 - 津和野に向って撮影 

石見横田駅(いわみよこたえき)は無人駅である。 駅前には高津川の鮎漁を管理する高津川漁業協同組合がある。

永沢寺 標高: 25.3m MAP 4km以内の寺社検索

門前の街道(右手が永沢寺) - 津和野に向って撮影
門前の街道(右手が永沢寺) - 津和野に向って撮影 

永沢寺は曹洞宗の寺院である。

このあたりの街道は少し上り坂である。

壇踏切 標高: 27.8m MAP 4km以内の寺社検索

踏切 - 津和野に向って撮影
踏切 - 津和野に向って撮影 
踏切(拡大) - 津和野に向って撮影
踏切(拡大) - 津和野に向って撮影 

街道はここで国道9号線とJR山口線を横切る。

高木神社 標高: 38.4m MAP 4km以内の寺社検索

門前の街道 - 津和野に向って撮影
門前の街道 - 津和野に向って撮影 

由緒などは不詳。 街道左手に鳥居があり、境内へは長い石段を登って参拝する。

鏡の釣り井 標高: 36.6m MAP 4km以内の寺社検索

鏡の釣り井
鏡の釣り井 
鏡の釣り井前の街道 - 津和野に向って撮影
鏡の釣り井前の街道 - 津和野に向って撮影 

ここに訪れたのは8月の初旬であった。 この井戸は単なる水たまりのように見えた。井戸周辺は草が繁茂しており全体像は確認出来なかった。 街道沿いに掲げられた案内板の内容を下に記す。

鏡の釣り井(神清水)について

平安時代の女流歌人、和泉式部が山陰道を下る途中、この井戸に立寄り化粧をして、そして旅を続けたと言われています。

石見八重葎(いわみやえむぐら)」には、むかしの寺垣内(神田町)に護法寺という大寺があり、境内に形見池があったという文献が残っています。

また、後世の人の話では、この池の水で墨をすり字を書けば字が上手になるとの言い伝えもあります。

飛鳥時代の発掘と思われるこの井戸には、このように数々の言い伝えがあります。(以下略)

道は民家の中で消失 標高: 33.8m MAP 4km以内の寺社検索

突き当りの民家 - 津和野に向って撮影
突き当りの民家 - 津和野に向って撮影 
突き当り手前の池 - 津和野に向って撮影
突き当り手前の池 - 津和野に向って撮影 

道はここで二手に分かれているようであるが、いずれも民家の中に向っているようである。 勝手に入るわけにもゆかず前進を断念。

土間の観音岩 標高: 44.7m MAP 4km以内の寺社検索

道標
道標 
道標脇の山に向かう細い道
道標脇の山に向かう細い道 
道標前の街道 - 津和野城下に向って撮影
道標前の街道 - 津和野城下に向って撮影 

街道に右手に木製の道標が建っている。 その脇から細い道が山の中に向って伸びている。 草木が生い茂っており作者は前進を断念。

道標に記載されている内容を下に記す。

土間の観音岩

工岩の中程(高さ3m余、ハシゴで登る)に洞穴がありその中に、観世音菩薩が安置されている。

平成元年春 青原公民館郷土史研究部

津和野~樫実峠~鬼ケ峠~徳城峠~青原~石見横田によれば、街道はこの先、山の中を通るように記されている。現場に行ってみたが、山道への入口を発見することができなかった。()

商人自治会館 標高:183.4m MAP 4km以内の寺社検索

道標
道標 
津和野城下に向って撮影
津和野城下に向って撮影 

未稿。

商人の祠 標高:179.9m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 
祠
祠 
祠前の街道 - 津和野城下に向って撮影
祠前の街道 - 津和野城下に向って撮影 

祠の扉を閉ざされており、内部に祀られているものは未確認。

稲荷神社 標高:153.1m MAP 4km以内の寺社検索

鳥居
鳥居 
稲荷神社前の鳥居 - 津和野城下に向って撮影
稲荷神社前の鳥居 - 津和野城下に向って撮影 

由緒など不詳。

ねむり地蔵・沈流軒弘法大師 標高:154.1m MAP 4km以内の寺社検索

全景(左手の厨子が沈流軒弘法大師と思われる)
全景(左手の厨子が沈流軒弘法大師と思われる) 
ねむり地蔵
ねむり地蔵 
ねむり地蔵・沈流軒弘法大師前の街道 - 津和野に向って撮影
ねむり地蔵・沈流軒弘法大師前の街道 - 津和野に向って撮影 

ねむり地蔵様は前掛けでよく確認できないが首を横に曲げておられる様子。 弘法大師様は厨子に納められているようである。 案内板の内容を下に記す。(文意が今一理解できない部分があるが原文そのままに記す。)

ねむり地蔵由来

文政7年(甲)(申)(1834)

このお地蔵様は、赤子の夜泣を治す父・母さまのねむれない方は、お願いすると、ねむらせて下さるお地蔵様です(えと、男、女数年)

お礼に花と線香を上げてお参りする。

沈流軒弘法大師由来

このお地蔵さまは、慶應3季年(1865)[1]、札所42番で、上寺田村に興徳寺があり明治の中期に、廃寺になり現地に移転する。

衆生の病を救い心の安らぎを与えられる、お地蔵様です。

平成10年4月1日 保存会

興源寺門前 標高:154.1m MAP 4km以内の寺社検索

参道口前の街道(写真右手が参道口) - 山内宿に向って撮影
参道口前の街道(写真右手が参道口) - 山内宿に向って撮影 

興源寺は曹洞宗の寺院であり、 初代津和野藩主吉見頼行の菩提寺である。

程なくすると、津和野城下へと入る。

脚注