宰府参詣道_長崎街道内野口[スダワラ越]さいふさんけいどう

概要

えびす碑と太宰府天満宮米山越道の石碑
えびす碑と太宰府天満宮米山越道の石碑 
道標「右さいふみち」
道標「右さいふみち」 

長崎街道内野宿内のえびす碑から街道から分岐して西側に入るコースである。『街道と宿場町 』によれば、このコースは「スダワラ越え」と云われていたという。

分岐点には道標「太宰府天満宮米山越道」(嘉永2年(1849)正月銘)が立っている。

『筑前の街道』によれば、江戸時代の長崎奉行や参勤往来の大名たちは、その途中、太宰府天満宮に参詣してゆくのが常。 その道は長尾からよりも、この内野からのほうが多かった。

文化8年(1811)人吉藩主が帰国のおり内野からお忍びで少人数をつれて参詣したという。 馬・駕籠は使わず徒歩だったようだ。驚きである。 人吉藩士が「先年御帰城の節、御歩行にて太宰府御参詣あそばされお忍び故、余りの御供は山家まで参居り候事、 尤も御先4人、御駕籠脇より3人、御近習3人、御家老1人、内野より道案内1人御雇(以下略)」とある。

『長崎街道 世界とつながった道』によれば、天明8年(1788)絵画の勉強の為、長崎に向かった司馬江漢も、 途中、内野宿より山道を通って太宰府天満宮を参拝。その後観世音寺・戒壇院・都府楼跡・水城を廻ったという。

『筑前國続風土記附録』巻之23 穂波郡上 内野村の項に下記の記事あり。

すだわら越え 内野より御笠郡柚須原に越ゆる路を云。難所也。路傍に先公の狩場有り。ふしぬきといふ。

地図

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経路

えびす碑付近 標高: 83.5m MAP 4km以内の寺社検索

えびす像に向かって右手の石塔の側面には「太宰府天満宮米山越道」と記されている。

ここが参詣口である。長崎街道内野宿参照のこと。

宗賢寺参道口 標高: 86.6m MAP 4km以内の寺社検索

宗賢寺参道口 - 峠に向かって撮影
宗賢寺参道口 - 峠に向かって撮影 

宗賢寺は宮谷山と号し曹洞宗の寺院である。境内には内野太郎左衛門の墓がある。

道標「右さいふ道」 標高: 97.4m MAP 4km以内の寺社検索

道標(赤矢印の先)前の参詣道 - 峠に向かって撮影
道標(赤矢印の先)前の参詣道 - 峠に向かって撮影 

道の右橋の電柱の前に立っている。目立たないので注意。

内野宿御茶屋跡 標高:101.3m MAP 4km以内の寺社検索

御茶屋跡前の参詣道
御茶屋跡前の参詣道 
御茶屋跡
御茶屋跡 
お茶屋(本陣)跡
お茶屋(本陣)跡 
内野大イチョウ - 樹齢400年、幹まわり7.6m、高さ34.1m
内野大イチョウ - 樹齢400年、幹まわり7.6m、高さ34.1m 
内野大イチョウの根元
内野大イチョウの根元 

ここには内野宿の御茶屋(本陣)があった。道の向かいには代官所があった。

長崎奉行、日田郡代等幕府役人、参勤交代の諸大名が宿泊した。文化8年(1800)によれば、南北約63m、東西約60mを有していた。明治期に入り役割を終え建物の一部は天女山白馬院 西光寺(馬敷)の庫裡として移築された。(案内板より)

概要で述べた人吉藩主もここに宿泊あるいは休憩して宰府参りに出かけたのだろう。

お茶屋跡は現在田んぼになっており、休耕田であろうか雑草が生えている。 建物の痕跡は無く、ただ案内板がポツンと設置されているのみである。

大イチョウは福岡県の文化財に指定されていて作者が今まで見たイチョウの内で最大級である。 このイチョウもお茶屋の敷地内にあたると言う。

歴代藩主はこの近辺で猪などの狩をしたという。

内野鹿喰の道標 標高:151.5m MAP 4km以内の寺社検索

峠に向かう道の分岐点に内野宿内にみられるおなじみのパターンの「内野鹿喰」の道標が立っている。

この分岐の左右どちらかがスダワラ峠に向かう道と思われるが、この先の経路は不明。

『筑前國続風土記附録』巻之10 御笠郡上 油須原村の項に下記の記事がある。 作者が保持している情報は概要で述べた「内野より御笠郡柚須原に越ゆる路を云。難所也。路傍に先公の狩場有り。ふしぬきといふ。」、この『附録』の記事、それと下の内野宿の鳥瞰図のみである。

米山古城

(前略)此山を越え行けハ穂波郡山口村に出つ。 又米山越を左に見、高山を越へ内野宿に出る道あり。油須原越[1]と云う難所也。

推定スダワラ峠 標高:338.0m MAP 4km以内の寺社検索

無題(宗賢寺参道口の民家前に掲示されている)
無題(宗賢寺参道口の民家前に掲示されている) 
内野宿全景図(宗賢寺参道口の民家前に掲示されている)
内野宿全景図(宗賢寺参道口の民家前に掲示されている) 

参詣口よりJR筑豊本線の踏切を渡った所にある宗賢寺参道口の民家の壁に2つの鳥瞰図が掲示されている。

ほぼ同一地点から見た宿場内の絵図。どなたの作かは不明だが両者共大作である。ほぼ西が上となった図である。 絵図にはアクリル板かガラス板で保護されているので写真が不鮮明なものとなっている。

この絵図では「スダワラ峠」は「数俵峠」と表記されている。 峠の位置は図で左側(南側)の高塚山と右側(東側)の高石山のピークから数えて3つ目のピークの間のようだ。 作者はこの図を元に峠の位置を推定したが、正確な位置は不詳である。

右図が掲示されている民家の壁には「数俵峠」の歌が1番から3番まで掲示されている。

  • 昔を偲び数俵の/峠越えれば太宰府博多/幾多の人の声がする
  • 時代が変われば山彩がある/朝日輝て山々は/五月中場は花ざかり
  • 夏が来てかわらぬ夕陽/数俵峠に陽は落ちて/空は明し輝けリ

歌の掲示の脇に「作詞作曲」という文字が記入されているが肝心の作詞作曲者の名は記されていない。 この歌には曲が付いていたのだろう。

ご当地の人々が「宰府まいり」に行く喜びを歌ったものと思われるが定かではない。

想定合流地点 標高:202.4m MAP 4km以内の寺社検索

推定合流地点|長崎街道長尾口参照のこと。

脚注