宰府参詣道_梶原峠越

概要

見返り灯籠 - 梶原峠の手前
見返り灯籠 - 梶原峠の手前 
一の井手から裂田神社までの鳥瞰図(①馬瀬・②なまず瀬・③伏見宮・④一の井手・⑤地蔵堂(現裂田神社)・⑥裂田溝・⑦亀島・⑧安徳台) - 『筑前國続風土記附録』巻之7 那珂郡より抜粋
一の井手から裂田神社までの鳥瞰図(①馬瀬・②なまず瀬・③伏見宮・④一の井手・⑤地蔵堂(現裂田神社)・⑥裂田溝・⑦亀島・⑧安徳台) - 『筑前國続風土記附録』巻之7 那珂郡より抜粋 

元々、古代・中世・近世と、糸島・早良から山田村を通り、裂田の溝(さくたのうなで)沿の「さいふみち」を歩き、 梶原峠を越え牛頸(うしくび)を経て太宰府に通じる最短距離の要路であった。 肥前神埼からは肥前街道上の山田村から本街道に合流する交通もあったようだ。

平家の全盛時代以降は、多くの将兵が歩いたり・騎馬で通ったであろう「兵共の道(つわものどものみち)」でもあった。 江戸期以降は、太宰府の四季の祭りの時は善男善女で賑わった。(以上 『那珂川町の歴史探訪』より)

当参詣道は西畑の三辻より梶原峠までについて記す。 梶原峠から先は、ゴルフ場の建設・宅地開発などによって昔の経路を確定するには作者には荷が重い。 この先は他の書籍などに譲ることとする。

全ルートは『那珂川町の歴史探訪』に記されている路線図と、今昔マップを参考にしている。

尚、当参詣道の起点を西畑の三辻とする。(『那珂川町の歴史探訪』にはさらにそこから福岡市西区・福岡市南区へ向かうルートも記されている。)

右画像「一の井手から裂田神社までの鳥瞰図」は一の井手から裂田神社までのルートの南東側上空から眺めた鳥瞰図である。一の井手からはじまる裂田溝(さくたのうてな)の様子がよく分かる。クリックして拡大してご覧ください。

地図

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経路

西畑の三辻 標高: 94.6m MAP 4km以内の寺社検索

三叉路(①小笠木峠を越、②萩の原峠を越)
三叉路(①小笠木峠を越、②萩の原峠を越) 

街道はここで3筋に分かれる。宰府に向かう逆のルートは、小笠木峠を越え福岡市早良区に至る経路と萩の原峠を越えて福岡市南区に至る経路となる。

ここには金吟山 教徳寺が伽藍を構えている。

筑前國続風土記拾遺』巻之13 那珂郡 貞 西畑村の項に下記の記事がある。

宰府参詣道_梶原峠越

(前略)

此村より早良郡小笠木にゆく道あり。坂なり。小笠木峠と云。 また村の西北より山を越て同郡柏原村に越るを荻ノ原越と云。 福岡に行くにはこの山路近し。

道標「右さいふ」「左はかた」 標高: 40.8m MAP 4km以内の寺社検索

道標と案内板(写真右端の赤いパイロンの右手)
道標と案内板(写真右端の赤いパイロンの右手) 
道標「左はかた」面
道標「左はかた」面 
道標「右さいふ」面
道標「右さいふ」面 
道標と案内板(写真中央の赤いパイロンの右手)
道標と案内板(写真中央の赤いパイロンの右手) 
「京の隈」バス停
「京の隈」バス停 

那珂川市バスかわせみ「京の隈」バス停の脇に「右さいふ」「左はかた」の道標がる。 道標脇の案内板によれば、この地は糸島・早良方面から太宰府天満宮への参拝コースであったという。

案内板の内容を下に記す。

別所の「さいふ(みち)道標(みちしるべ)について

糸島・早良方面から小笠木峠(おかさぎとうげ)を越えて、西畑別所安徳そして梶原峠(かじわらとうげ)を越えて「さいふまいり」の街道が太宰府へ通じていました。 明治の初期までは、別所の中心地「三本柿(さんぼんがき)」が太宰府と博多の分岐点であり、橋本橋のたもとに 「さいふみち()」と刻まれた道標(みちしるべ)があったそうです。

岩戸村別所の三本柿には、八木堂病院(やぎどうびょういん)があり、秘伝の「やけど薬」はとても効いたそうです。 また、橋本橋の道筋には、酒屋、呉服屋、豆腐屋、床屋、下駄屋、ほうき屋などがあり、当時は大変(にぎわ)っていました。

別所の「さいふ(みち)」の石碑には「右さいふ」「左はかた」と標識が刻まれていたが、道路の拡張工事の際 「右さい」「左はか」と下方の文字が欠けて無くなっている。 約20年近く行方不明でしたが、地元の人たちの協力で発見され、元の近辺に設置されました。 この小さな石碑に刻まれた歴史の道標(みちしるべ)として、当時のロマンを感じながら後世に継いでゆきたいものです。

平成27年10月吉日 別所区有志一同

一の井堰 標高: 36.6m MAP 4km以内の寺社検索

街道はこの少し先で肥前街道と交差する。 詳しくは一の井手|肥前街道をご覧ください。

裂田の溝 標高: 33.1m MAP 4km以内の寺社検索

裂田の溝(左手の道は宰府参詣道) - 梶原峠に向って撮影
裂田の溝(左手の道は宰府参詣道) - 梶原峠に向って撮影 
御立石が埋まっていた水田 - 現御立石を背にして撮影
御立石が埋まっていた水田 - 現御立石を背にして撮影 
神功皇后御立石
神功皇后御立石 
神功皇后御立石(拡大)
神功皇后御立石(拡大) 
神功皇后像 - 案内板より抜粋
神功皇后像 - 案内板より抜粋 

裂田の溝(さくたのうなで)は、この上流の一の井手で那珂川より取水し、ご当地の田畑を潤すために作られた用水路である。 古代より現代まで利用されているものである。

当用水路は神功皇后が開いたという伝説が残る。 一の井手より順次掘り進み、次の裂田神社の所で大岩に突き当たった。 神功皇后は武内宿禰祈願を命じ、その結果、雷電が発生してその岩を砕いた。 そのため、その先に掘り進むことができたという。

この場所に置かれている「神功皇后御立石」は、建設当時この石の上に立って工事の指揮をとったという。この石はこの場所より離れた水田の中に埋まっていたものをこの地に 移設されたものという。(案内板より)

『筑前國続風土記附録』巻之7 那珂郡 上 安徳村の項に下記の記事が見える。

○裂田の溝

(前略)又地蔵堂(作田神社)より西の方1町(ばかり)田の中に楠1株植り。 里民のいへるは裂田溝を掘せらるゝ時、皇后の御座を(もうけ)し所也といふ。今も藝ママラす穢さすといへり。

この記事は御立石の場所を示したものと思われる。

裂田神社 標高: 33.3m MAP 4km以内の寺社検索

作田神社社殿
作田神社社殿 
作田神社の鳥居
作田神社の鳥居 
作田神社社殿内
作田神社社殿内 
作田神社遠景
作田神社遠景 
作田神社西側の作田の溝
作田神社西側の作田の溝 
作田神社西側に作田の溝岸の花崗岩の岩盤(調査後、保護の為コンクリートで覆われている)
作田神社西側に作田の溝岸の花崗岩の岩盤(調査後、保護の為コンクリートで覆われている) 
一の井手から裂田神社までの鳥瞰図(部分) - 『筑前國続風土記附録』巻之7 那珂郡より抜粋
一の井手から裂田神社までの鳥瞰図(部分) - 『筑前國続風土記附録』巻之7 那珂郡より抜粋 

当社の西側の作田の溝の流れを遮るように、花崗岩の堅い岩盤があることがわかった。 この場所が大岩が裂けた場所と伝わる。 一の井手から水路を掘り進めてちょうどこの場所でこの場所で突き当り、ここを通すのに難工事となったと推定される。調査の結果(案内板より)

「裂田の溝」の「裂田」とはこのことに由来するものだろう。

『筑前國続風土記』巻之6 那珂郡 下に下記の記事が見える。

○裂田の溝

(前略)日本紀神功皇后紀に(いわく)、皇后神教(かみのおしえ)の験ある事をしろしめして、更に神祇をいのりまつりて、みずから西をうち給はんとおぼしめし、(ここ)に神田を定て(つくら)せらる時に、儺河(なかがわ)の水を引て神田につけんとおぼして溝をほらせらる。迹驚岡(とどろきのおか)に及で大盤石ふさがりてとをすことを得ず。 皇后武内宿禰をしめして、剣鏡を(ささげ)て神祇に祈りて溝を通す事を求む。 則時に雷電霹靂(らいでんへきれき)して、其岩を蹴裂きて水を通ぜしむ。 故に時の人其溝を裂田溝(さくたのうなで)といふと、日本紀に見えたり。(後略)

当社の縁起などは不詳。 『筑前國続風土記附録』巻之7 那珂郡 上 安徳村の裂田溝の項に下記の記事がみられる。

(前略)里民のいへる御所の原の地蔵堂の後より東の方にめくり流る。(後略)

この「御所の原の地蔵堂」を現在の裂田神社と考えれば、位置関係は矛盾が無い。 また、右に掲示した『筑前國続風土記附録』の挿絵の図はこの裂田神社近辺を描いたものと思われ、ちょうど裂田神社の位置には地蔵堂と記されている。

『筑前國続風土記附録』が編まれた江戸後期にはこの地には地蔵堂があったと思われる。 もっとも、江戸期は神仏混淆の時代。神も一緒に祀られていたものと思われる。

毘沙門堂 標高: 47.6m MAP 4km以内の寺社検索

遠景(左右方向の道は宰府参詣道と思われる)
遠景(左右方向の道は宰府参詣道と思われる) 
毘沙門天
毘沙門天 

毘沙門堂那珂川八十八ヶ所霊場第17番札所となっている。

御堂前後の街道のルートは作者は解明できていない。

梶原峠登り口 標高: 50.1m MAP 4km以内の寺社検索

道標
道標 
①登り口 - 梶原峠に向って撮影
①登り口 - 梶原峠に向って撮影 
② - 梶原峠に向って撮影
② - 梶原峠に向って撮影 
③ - 梶原峠に向って撮影
③ - 梶原峠に向って撮影 
登り口前にある大行事(「天保十四年八月八日」)
登り口前にある大行事(「天保十四年八月八日」) 

登り口には真新しい道標がたっているので助かる。

ここから、見返り灯籠のすぐ先までは、古いコンクリート道となっている。 新幹線の足場の工事にこの道は使われたのだろう。 途中、所々山水が滲み出てぬかるんでいる。

右写真に登り口から見返り灯籠の手前までの写真に順番に番号を振っている。

登り口の前には大きな大行事の石塔がが立っている。注連縄で覆われいて銘などは判読不可。

この大行事は「天保十四年(1843)八月八日」銘。当大行事は以前はこの後の小高い山の上にあった。夏7月頃になると、近辺から牛を引いてお参りがあり、その前の広場では奉納相撲が模様されていた。(『ふるさと那珂川町の歴史を学ぶ~さいふまいりの道~より)

見返り灯籠 標高: 79.5m MAP 4km以内の寺社検索

見返り灯籠前の街道(左手に見返り灯籠) - 梶原峠に向って撮影
見返り灯籠前の街道(左手に見返り灯籠) - 梶原峠に向って撮影 
見返り灯籠(左手)と案内板
見返り灯籠(左手)と案内板 
梅鉢の紋 - 火袋の側面
梅鉢の紋 - 火袋の側面 
前進断念地点(見返り灯籠の20mほど先) - 梶原峠に向って撮影
前進断念地点(見返り灯籠の20mほど先) - 梶原峠に向って撮影 
九州新幹線の高架橋 - 見返り灯籠の10mほど先
九州新幹線の高架橋 - 見返り灯籠の10mほど先 
見返り灯籠の火袋(「享和三年癸亥ニ月吉日 かじハら村」銘があるという) - 梶原峠に向って撮影
見返り灯籠の火袋(「享和三年癸亥ニ月吉日 かじハら村」銘があるという) - 梶原峠に向って撮影 

見返り灯籠は、「()とぼし」とも呼ばれ、高さは約2m。火袋の側面に梅鉢の紋があしらわれ、その反対面には「享和三年癸亥(1803)ニ月吉日 かじハら村」銘があるという。那珂川市の有形民俗文化財。 (案内板より)

太宰府天満宮のお祭りの日などには茶店も出て賑わったという。(『那珂川町の歴史探訪』より)

この地点のすぐ先の上空には九州新幹線の高架橋が通っている。 作者はその高架橋を少し越えた所で前進を断念。そのすぐ先はゴルフ場になっているはずである。

梶原峠登り口から続いていた古いコンクリート道もその地点で途切れている。

梶原峠 標高:135.1m MAP 4km以内の寺社検索

この地点はゴルフ場の中となっている。

街道はこの先大野城市牛頸経由で太宰府へ向っている。

天狗の鞍掛けの松 標高: 48.3m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

幡立石 標高: 31.5m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

追分石 標高: 39.8m MAP 4km以内の寺社検索

遠景(追分石は写真中央)
遠景(追分石は写真中央) 
追分石 - 北西面
追分石 - 北西面 
追分石 - 北東面
追分石 - 北東面 
追分石 - 南東面
追分石 - 南東面 

上の構口跡から20mほど南下した商店の前に追分石がある。 すごい存在感のあるものである。 北西面に「従是 右天拝山 二日市 榎寺、左針摺 松崎 久留米 熊本 甘木 日田 佐賀 長崎」、 北東面に「梅大道」、南東面に「明治28年8月」。

天満宮から来た道はここで4本に分かれるが、 ここで言う左右はどうやら、県道35号線の両脇の道を指すようである。 県道35号線は明治35年(1902)に設立された太宰府馬車鉄道(西鉄太宰府線の前身)を通す為に新たに開拓された道と思われ、 当時は存在しなかったのではなかろうか?

五条構口跡 標高: 39.4m MAP 4km以内の寺社検索

構口跡(橋の向こうの茶色の建物付近)
構口跡(橋の向こうの茶色の建物付近) 
庚申塔・板碑遠景
庚申塔・板碑遠景 
庚申塔・板碑
庚申塔・板碑 

構口跡の道端に梵字板碑と庚申塔がある。 そこの案内板によれば、 古い写真・発掘調査によって構口の規模は、南北約3.3m、東西約2m、幅約70cm前後ということが推測されるという。 3-4段の石垣の基礎の上に土壁が造られ、土壁上部には瓦を塗り込み、最上部に瓦を葺いていたとのこと。 (と、言われても作者は形状がイメージできないが。。。) 昭和40年頃に解体されたという。

この梵字板碑(文明18年(1486)銘)と庚申塔(天明元年(1781)銘)は当時からこの付近にあったものという。