苅田宿(旧: 現:福岡県京都郡苅田町)
概要
未稿。
ここでは、苅田宿から大橋宿までのルートを記載する予定である。
経路
浄厳寺 標高: 5.2m MAP 4km以内の寺社検索
浄厳寺は横尾山と号し真宗大谷派の寺院である。
東伝寺 標高: 5.2m MAP 4km以内の寺社検索
東伝寺は龍松山と号し西山浄土宗の寺院である。
木実原神社 標高: 5.3m MAP 4km以内の寺社検索
境内には町区公民館がある。
善立寺 標高: 3.7m MAP 4km以内の寺社検索
善立寺は西山浄土宗の寺院である。
近衛橋 標高: 3.0m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為、未稿。
覚法寺 標高: 5.9m MAP 4km以内の寺社検索
覚法寺は真宗大谷派の寺院である。
塩釜神社 標高: 7.1m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為、未稿。
明増寺 標高: 8.4m MAP 4km以内の寺社検索
明増寺は真宗大谷派の寺院である。
旧飴屋門東 標高: 4.2m MAP 4km以内の寺社検索
伊藤氏メモ以下は、門前の案内板による。
行事と大橋は江戸時代、城下町小倉に次ぐ商人の町として栄えた。なかでも、行事の飴屋は玉江家の3代目宗利が宝永6年(1709)に飴の製造販売を始めて以来、綿や酒、蝋などの品で、船を用いての上り商いと呼ばれた大阪方面との商売を行うなど次々と事業を拡大し全国に知られる豪商にまで成長した。
この門は飴屋の屋敷の門であった。裏に控え柱がある薬医門という形式で、総欅造り・本瓦葺きの豪壮な造りである。小倉藩主が領内を視察する際には、飴屋の屋敷を宿泊所としたため、藩主を迎えるための門「御成門」とも呼ばれていた。7代目蓬洲の天保12年(1841)頃の建築と伝わっている。
部分的な改修はあるものの、創建当時の姿をよく残している。飴屋と行事・大橋の繁栄の歴史を物語る貴重な建築物である。(行橋市指定文化財)
また、これより南側、万年橋袂の長峡川沿いに立つ[中津街道]と題された案内板には、以下のような記載がある。万年橋は、飴屋が架けたため飴屋橋とも呼ばれた。長峡川河口は[樋々の口]と呼ばれた船着場で、飴屋もここを拠点に国内貿易を行った。
旧飴屋門の写真は、行橋市HP / 旧飴屋門で、飴屋にまつわる歴史については、西日本シティ銀行 /ふるさと歴史シリーズ / 北九州に強くなろう / No16 飴屋物語 小倉藩十五万石を支えた 裏方の豪商をご覧ください。()