嬉野宿(旧:蓮池藩領本村 現:佐賀県嬉野市嬉野町)
概要
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嬉野宿は、「嬉野湯宿」「湯町」あるいは「嬉野駅」と呼ばれていたという。 宿場内には旅籠30軒、その他商家・農家など併せて100軒ほどの規模。
元々嬉野宿は長崎奉行や諸大名は通過するか、小休止する程度がほとんどであり、稀に宿泊地として定められると上使屋(御茶屋)は手狭で不便なため瑞光寺が本陣として使われていた。
寛政9年(1791)、牛津宿で火災が発生し宿場中心部が焼失、宿泊ができなくなる。 それを契機として嬉野宿での宿泊が増えるようになり、寛政9年(1797)には正式に長崎奉行の宿泊地として決定された。
江戸期は佐賀藩の支藩蓮池藩の領地であったという。 (『長崎街道 (肥前佐賀路) (九州文化図録撰書 (2))』などより)
ここでは、嬉野宿手前の下宿の追分(塚崎ルートと塩田からのルートの合流点)から、次の彼杵宿の前までのルートについて記載する。
経路
賢楽寺 標高: 57.9m MAP 4km以内の寺社検索
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賢楽寺は三忍山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。 延徳3年(1491)創建の歴史ある寺院である。
明元寺 標高: 59.7m MAP 4km以内の寺社検索
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明元寺は美城山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。 延徳3年(1491)創建。山門は宿場内の本陣として使われていた上使屋にあった門という。
ここからは緩やかな上り坂となる。
大定寺坂地蔵堂 標高: 66.9m MAP 4km以内の寺社検索
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明元寺からの坂道はこのあたりが峠となる。 ここからは下り坂。 明治12年までにはこのあたりに大定寺が伽藍を構えており、その寺号にちなんでこの坂は「大定寺坂」と呼ばれていたという。
ヨウメイ堂薬局前の石碑 標高: 57.5m MAP 4km以内の寺社検索
どうやらこの地点付近から次の和多屋別荘北側通路までは街道は消失しているようである。
和多屋別荘北側通路入口 標高: 60.1m MAP 4km以内の寺社検索
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ここより次の出口までは道幅ほぼ1間。昔の道幅のままのようである。
和多屋別荘北側通路出口 標高: 62.6m MAP 4km以内の寺社検索
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ここで1間幅の道は終わり、広い道幅となる。 ここから先、東構口までは鍵型の道のようである。
東構口 標高: 62.7m MAP 4km以内の寺社検索
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東構口には番所跡など当時の遺構は確認できない。 ここから宿場内である。
番号石(百十九) 標高: 65.0m MAP 4km以内の寺社検索
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ここより西200mほどにある「百四十六」と記された番号石脇の案内板の内容を下に記す。
江戸時代の嬉野地区は、佐賀本藩と蓮池支藩によって治められていましたが、 天明元年(1781)に両藩の間に境界紛争が起り、4年の歳月を経て本藩の完全勝利のうちに決着し、 新しい境界線上に20メートル間隔で全長40キロメートルにわたり番号石が設置されました。
番号石は、嬉野地区の全12村に設置されたものであり、村ごとに隣村に接するところまで、一番からの一連番号で設置されていました。
119番から200mほど先に146番。上の説明(「20m毎の連番」)からすると200m先の番号は(200m÷20m)+119番=129番辺りではなかろうか? 計算が合わない???
番号石のすぐ先には「新湯入口」と記された立派な門柱が建っている(湯の効能らしい文言が記されている)。 この道の先に何かがあるのかもしれないが、「新湯」とは何かは作者は知らない。
豊玉姫神社跡 標高: 65.5m MAP 4km以内の寺社検索
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案内板の内容を下に記す。
江戸時代の豊玉姫神社は嬉野宿中心部、現在のハッピータウンからこの場所まで広い地域に高さ3尺(約1メートル)ほどの石垣を築いて鎮座していた。
寛永18年(1641)に蓮池鍋島家の祈願所になったといわれる。 瑞光寺が長崎奉行の本陣となった時には宿場で一番の良建築であった社務所は奉行所幹部の宿とされた。
天保3年(1832)の大火で焼失しその焼け残った蓮池領内一の巨楠は藩主御用の船材として弘化4年(1847)に伐採された。
平成13年12月 嬉野町
『長崎街道 (肥前佐賀路) (九州文化図録撰書 (2))』によれば、明治に入り現在の地(大正屋の北側=西構口脇)に移転したという。 ここには、高札場・人馬継所があったという。
上使屋跡 標高: 65.8m MAP 4km以内の寺社検索
上使屋跡の石碑は、現在のシーボルトの湯の裏手に案内板と共にひっそりと立っている。 その脇には薬師堂がある。
上使屋の門は、明治になって明元寺に移設されている。
番号石(百四十六) 標高: 68.6m MAP 4km以内の寺社検索
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番号石(百十九)参照のこと。
西構口 標高: 68.8m MAP 4km以内の寺社検索
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ここには、旅館大正屋の前に石碑と案内板があるのみで、構口に遺構は確認できない。
大正屋の街道を挟んで反対側には豊玉姫神社の参道口がある。 下に豊玉姫神社境内の案内板の内容を記す。
「美肌の神様」豊玉姫神社 縁起
豊玉姫神社の歴史は古く、天正年間(1573-1592)兵火のために焼失してしまいましたが、 元和年間(1615-1624)には社殿を再建し、藩主鍋島直澄の祈願所となりました。 以来、歴代藩主をはじめ、地元住民の尊崇を集めています。
豊玉姫様は海神の娘で、竜宮城の乙姫様としても有名であり、古来より水の神、海の神として広く崇敬を集めています。
豊玉姫神社のお遣いは「なまず」です。 嬉野川を支配し、郷の守りについていて、国に大難あるときには六尺の大なまずが現れて、神託を告げると語り伝えられています。 この「なまず様」は古来より「肌の病」にご利益があるといわれています。 豊玉姫様は乙姫様であり、その肌は美しく、嬉野の温泉の効能と相まって「美肌の神様」として、広く親しまれています。
街道消滅地点 標高: 69.1m MAP 4km以内の寺社検索
この場所から暫くの間、街道は現在の建物の下に埋もれているようである。
平野丹生神社 標高: 98.3m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為、未稿。
平野水神様 標高: 99.1m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為、未稿。
十一面観世音菩薩堂 標高:100.6m MAP 4km以内の寺社検索
十一面観世音菩薩堂前には六地蔵塔が祀られている。
平野川の渡し跡 標高:100.4m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為、未稿。
俵坂口留番所跡 標高:161.6m MAP 4km以内の寺社検索
戦国時代にすでに関所としての機能があったと伝わるが、創設の時期は不明。 江戸期に入り、佐賀・大村両藩の要地となり、特にキリシタンの取締が厳しかったと伝わる。
敷地面積200余坪、建物は間口4間(7.2m)奥行き7間(12.6m)の構えで、侍1名、足軽9名が監視にあたり、通路には門札が建てられ、その両脇には竹の柵が巡らされていた。
明治の廃藩置県によって廃止された。(以上、現地、嬉野市教育委員会の案内板より)
地図上での場所は多少前後方向にずれているかもしれません。
大村藩御駕籠立場 標高:195.5m MAP 4km以内の寺社検索
ここには、「俵坂御駕籠立場跡」と記された石碑が立っている。
坂本釈迦堂 標高:193.7m MAP 4km以内の寺社検索
坂本釈迦堂の縁起などは不詳。分かり次第追記します。
坂本千部塔 標高:154.3m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為、未稿。
菅牟田千部塔 標高:113.0m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為、未稿。
鳥越の一里塚跡 標高: 78.8m MAP 4km以内の寺社検索
場所は少しずれているかもしれない。
大楠跡 標高: 63.1m MAP 4km以内の寺社検索
ここに立っていた大楠は、江戸期、オランダ商館の医師シーボルトが江戸に上る途中、 この木を測り、「周囲16.88m・直径5.347m・中は空洞で面積14.577㎡、畳8畳敷きの広さで15人が座れる」と記録している。
昔、弘法大師が田の畦に突き刺した杖から芽が出て枝を伸ばし、大木になったという伝説があれる。
明治20年代の後半、樟脳の原料にする為、切り倒された。
その脇に一本の苗を植えたところ、その脇からもう一本の芽が出て今ある姿になった。 大楠の生まれ変わりと言われている。町指定史跡。(以上 現地案内板(東彼杵町教育委員会)より)
ニの瀬橋 標高: 39.7m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為、未稿。
鞘原大明神 標高: 38.5m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為、未稿。
愛宕神社の鳥居 標高: 30.9m MAP 4km以内の寺社検索
この鳥居の場所は遥拝所と思われるが、肝心の愛宕神社の所在が確認できない。
地楽天神 標高: 22.6m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為、未稿。
一ノ瀬橋 標高: 7.8m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為、未稿。
次は彼杵宿である。