内野宿(旧:穂波郡内野村 現:飯塚市内野)
概要
内野宿は、東西山に挟まれた南北にのびる狭い平地にある。JR日豊本線と国道200号線に挟まれている。 ここでは、内野宿東構口から次の宿駅である山家宿までのルートについて記載する。
右の『筑前名所図会』の配置とほぼ同じ街並みの配置が残っている。 宿場内はそれぞれの建物の前には案内板がこまめに設置されており訪れる人には親切である。
下に『筑前國続風土記』巻之12 穂波郡の内容を引用する。
○内野村
山谷の中にある村にして、飯塚より山家に通る驛家也。 民屋多し。
是より西、山をこえて、御笠郡山家の宿へ行く。 其間の坂を冷水越と云。
内野村むかしはなし。 慶長17年(1612)、長政公其家臣毛利但馬をして、此地を見そなはしめ、初て、町を立させらる。
是より飯塚へ三里七町、御笠郡山家へニ里廿一町、御笠郡へ越す所の冷水嶺迄一里十町あり。 根地嶽と云高山あり、竃門山につぎて高し。根地とは内野の社人のいへる號なり。 竃門山山伏の古傳には、根手嶽根手権現の云。 大根手権現とて、山上より少下に瓶一あり。 是を神體とす。昔は社あり。今はなし。 瓶のわたり一尺四五寸あり。
内野の谷の上に三箇山とて、山中に三の村あり。夜須郡に属す。 内野と同谷也。 内野より御笠郡山家に越る嶺より、 東の方下二町ばかり山間に、冷水出る所あり。其側に石佛あり。 是内野村の境内なり。 是冷水有によりて、其嶺を冷水越と云。
経路
JR筑前内野駅 標高: 80.3m MAP 4km以内の寺社検索
ログハウス風のお洒落な駅である。
東構口 標高: 81.8m MAP 4km以内の寺社検索
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東構口は内野小学校のすぐ脇にある。写真のとおり当時の面影はほとんど残っていない。 街道脇にわずかに石組が残っているのみである。 写真の正面が冷水峠である。
正円寺前 標高: 82.9m MAP 4km以内の寺社検索
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正円寺は高石山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。
この付近では、古い商家の家並みを観ることができる。
えびす碑付近 標高: 83.5m MAP 4km以内の寺社検索
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この付近が宿場の中心部で様々な遺構・建物が良く保存されている。
案内板によれば、道標「太宰府天満宮米山越道」は嘉永2年(1849)正月、 恵比寿碑は元禄13年(1700)創建、嘉永6年(1853)再建との事である。 内野宿の天満宮信仰の中、宿場の繁栄と旅人の安全を祈願したという。
ここの角を直角に冷水峠に向って右に曲り、日豊本線の踏切を渡り少し坂道を進むと、 この宿場建設に貢献した内野太郎左衛門の墓所である宮谷山 宗賢寺、さらに進むと大いちょうがある。
また、この道の先は太宰府天満宮への参詣道であった。 江戸期、長崎奉行や参勤往来の大名たちは、途中、太宰天満宮に参詣してゆくのが常であった。 飯塚の長尾からよりもこちらからのほうが多かった。(『筑前の街道 (西日本選書 (5))』より)
ここより100mばかり北側には御茶屋があった。またその裏手には内野の大銀杏がある。 宰府参詣道_長崎街道内野口[スダワラ越] 参照のこと。
西構口[内野宿] 標高: 82.7m MAP 4km以内の寺社検索
西構口は当時の面影は何も残っていない。いよいよ長崎街道の最大の難所である冷水峠越えである。 ここを出てすぐ右手の老松神社に手を合わせ、 旅人は気を引き締めたことであろう。
老松神社 標高: 85.6m MAP 4km以内の寺社検索
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案内板によれば、宝治2年(1248)当地が太宰府神領から菅原道真公の神霊を勧請して古宮山(宗賢寺山)に創建。 天正元年(1573)現在地(内野関屋)に遷る。
鳥居には天保2年(1831)の銘あり。
国道200号線との合流地点 標高: 90.6m MAP 4km以内の寺社検索
街道はこの先の国道200号線を横切りその先を右に曲がって進む。
荒田バス停 標高:136.1m MAP 4km以内の寺社検索
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バス停は国道200を号線を峠に向って右側にひっそりと設置されている。見逃しやすいので注意が必要。 バス停より道を挟んだ向かい側に鳥居があり、それをくぐって前進。(鳥居の脇には「長崎街道」の道標あり。)
ここより峠までの道が始まる。150mほど坂を登ると石畳が始まる。
首なし地蔵 標高:244.8m MAP 4km以内の寺社検索
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首無し地蔵の祠は前面は杉林・背面は竹林で囲まれひっそりと鎮座されている。 その前には小川が流れ一枚岩で造られた石橋がかかっている。この石橋を渡って オランダ商館医師シーボルトや伊能忠敬、坂本龍馬、大名たちが江戸へと向かって進んだという。
下に内野宿展示館で配布されているパンフレットの内容を引用する。
[民話 首無し地蔵]
昔悪者がこの峠で旅人を殺害した。 悪者は道端の地蔵に誰にも言うなという。 地蔵は「ワシは言わぬがわれ言うな」という。 悪者は驚いて地蔵の首を叩き落として行方をくらました。 その後何年かして二人の旅人がここを通りかかる。 谷川の水で喉をうるおし、地蔵様を拝すると首がないのに驚く、 もう一人の男は悪者であった。 「わしは言わぬがわれ言うな」のお地蔵様の言葉を忘れて、 その首のないわけについて、何年か前の仕業を自慢げに白状した。 話を聞いた男は、前にここで殺された長崎の人の血縁の者であった。 仇討が行われた。仏罰てきめんというが、仏は罰を与え給ねど身から出たさび、 自ら招いた報いというか、悪いことはできないものであると伝えられている。
祠の前の石橋はイギリスの初代駐日総領事オールコックがその著『大君の都』の中でここの景色を絶賛しているとの事である。 彼がここを長崎から品川への赴任の為通過したのは安政6年(1859)夏と思われる。
石畳 標高:342.0m MAP 4km以内の寺社検索
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このあたりはかなりの急坂である。当時の旅人はかなり苦労したことであろう。 また、この道の保守作業も村人の仕事でありかなりの苦労があったとしのばれる。 石畳はかなり良く保存されている。
大根地神社(冷水峠) 標高:332.3m MAP 4km以内の寺社検索
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ここが、冷水越えの最高地点である。 ここからしばらく続く下り坂は道もある程度整備されていて、乗用車も通行可能である。
大根地本殿はこの鳥居に向って左の林道を1kmほど登った山頂付近に鎮座している。 本殿脇には茶店も2軒あるが、平日に参拝したせいか神社も茶店も無人であった。 本殿脇に山頂に通じる山道があるが、無人の山頂で日暮れ近かった為、肝の小さい作者はその道を登る事ができなかった。 案内板によれば見晴らしの良い絶景の場所との事である。 この林道は乗用車も通行可能であるが、砂利道・コンクリート道などが続き路肩も危ないので 注意して参拝する必要がある。
『長崎街道 大里・小倉と筑前六宿』によれば、冷水越えのルートの着工は慶長8年(1603)。 その完成は慶長16年(1611)とのことである。 福岡藩が九州内の他の大名が福岡・博多を通過して本州と行き来することを嫌いこのルートの着工を開始した。 (黒田如水の案という)
内野宿・山家宿の両側から双方の分担で開発をしたとの事である。 ちなみに、内野宿は奉行:毛利但馬、代官:大野太郎左衛門。山家宿は奉行:桐山丹波、代官:志方彦太夫とのことである。
大根地神社の看板 標高:271.4m MAP 4km以内の寺社検索
峠を越えて街道はここで国道200号線と合流する。
梵字石 標高:237.7m MAP 4km以内の寺社検索
上西山の集落に鎮座している。
猿田彦 標高:228.2m MAP 4km以内の寺社検索
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ここを降ると再び国道200号線と交差する。
国道200号線より分岐 標高:207.5m MAP 4km以内の寺社検索
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ここで国道200号線と別れて山道となる。
砂釜橋 標高:194.8m MAP 4km以内の寺社検索
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ここよりしばらくの下り坂は、道がある程度整備されている。
国道200号線 標高:180.9m MAP 4km以内の寺社検索
ここより街道は国道200号線からそれて山道となる。道がある程度整備されている。
街道 標高:162.8m MAP 4km以内の寺社検索
ここより街道は舗装道路に入る。
次の宿場は山家宿である。