轟木宿(旧:肥前国養父郡(佐賀藩領) 現:佐賀県鳥栖市轟木町)
概要
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今回()は初回の取材で、田代宿の取材の後に行ったため、じっくり観て回れなかった。 あまり詳しく記載できない。 次回はじっくり取材をしてこよう。
日子神社前の案内板の内容をそのまま記載する。
長崎街道・轟木宿
轟木宿は肥前鍋島藩の東端に位置する国境の宿場町で、 轟木川(別名番所川)を対馬藩との境界とし、 番所がもうけられきびしい検問を行っていました。
宿場町は上町・中町・下町・新町の4町から成り、 番所は上町に、幕府の布告・人馬の公定賃金などを書く制札は中町との角に、 人足・馬を用立てる人馬置床は下町に設けられていました。 旅籠・商店は中町・下町に多く、長崎屋・角屋・泉屋・柳屋など 13軒の旅籠が並んでいました。また、藩境であったため、藩主の宿泊する御茶屋も中町の東側に建てられていました。 新町には細工師・大工などが多く住み、職人町となっていました。
鳥栖市教育委員会
宿場内では右図のような標識が道路に貼り付けられている。 初めて行く人には極めて親切である。作者も助かった。
経路
轟木日子神社 標高: 13.1m MAP 4km以内の寺社検索
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宿場内の街道は轟木日子神社の門前で直角にカーブする。
ここには制札場があったというが、面影は残っていない。
本殿前の狛犬は嘉永6年の銘(1853)がある。
安良の道標 標高: 13.2m MAP 4km以内の寺社検索
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ここは小さな三叉路になっており、街道は右側を中原宿に向かって進む。 この周辺は工場などが建て込んでおり当時の面影などは何も残っていない。
道標の脇の案内板の内容をそのまま引用する。
長崎街道・安良
安良は朝日山の南山麓にひろがる古くからある集落です。 朝日山は建武元年(1334)朝日一族によって山城が築かれています。 以来250年間城主は変わっても山城として機能していました。 また、古代においてもここに烽が置かれ、いつの時代にも幹道が通り、戦略的拠点として位置付けられていました。
安良は江戸時代も、長崎街道沿にあたり、"人家40軒ばかり茶屋多し"となります。 旅籠はなかったものの、鍋島藩主の参勤交代などで轟木宿に宿泊客が多い場合、 安良に分宿していたことが記録として残されています。
鳥栖市教育委員会
安良公民館 標高: 20.2m MAP 4km以内の寺社検索
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ここから先は、街道がゴルフ場(ブリヂストンCC)の中を進む。街道がボールよけのネットで被われており、その道を通ると妙な気持ちになる。 写真を撮影したかったが、車の通りが激しく、停止して撮影することができなかった。
村田の六地蔵 標高: 12.8m MAP 4km以内の寺社検索
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街道はこの少し前で国道34号線の鳥栖市一本松交差点をまたぎ、少し進んだところに六地蔵が鎮座している。 文化5年(1808)に造られたという。
村田町案内板 標高: 14.5m MAP 4km以内の寺社検索
中原宿に向かって街道右手の建物の脇に案内板がある。 その内容を下に記す。
長崎街道 村田町
村田は「村田村、人家40軒ばかり茶屋、酒屋あり」と記録にみえるように長崎街道沿いの町並であると同時に、村田鍋島家の城下町でもありました。 村田鍋島家は貞享元年(1684)に創設され、村田・江島・儀徳村6000石を治めていました。 村田八幡宮は村田鍋島家の惣社として祀られ、その神幸祭は現在でも、村田浮流として盛んに執り行われています。
村田八幡宮との交差点付近には恵比寿様2体(うち1体は西へ移転)がみられ、商業の町としても栄えていたことを示しています。
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村田八幡神社参道口(恵比寿像) 標高: 15.3m MAP 4km以内の寺社検索
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街道を横切る県道145号線との交差点(鳥栖市村田町信号)は村田八幡神社の参道口である。 同八幡宮には肥前型鳥居がある。
恵比寿像は、風雪にさらされて元の形がわからない。綺麗な花が手向けられていた。地元の方々の深い信仰心が感じられる。
ここからしばらくすると街道は国道34号線と合流し、その先をしばらく行くと、いよいよ次の中原宿に到着する。