田代宿たじろ(旧:肥前国基肄郡(対馬藩領) 現:佐賀県鳥栖市田代)

概要

新町の八坂神社(左右方向が長崎街道)
新町の八坂神社(左右方向が長崎街道) 
新町の八坂神社前の宿内の案内図
新町の八坂神社前の宿内の案内図 

八坂神社の鳥居の脇の案内板の内容をそのまま記載する。

長崎街道・田代宿

田代(たじろ)は対馬藩基肄父(きやぶ)領の代官所が置かれていたまちであると同時に、 長崎街道25宿・57里のうちに数えられる宿場町でもありました。 また、ここから久留米道日田道が分岐する交通の要衝(ようしょう)でもありました。 江戸時代後期の記録によれば「人家500軒(ばかり)、町5丁計につづけり、 茶屋、宿屋多し」となっています。

長崎街道を往来する大名・長崎奉行・幕府役人などが宿泊する「上使(じょうし)屋」は田代町(しも)町に、一般旅行者は田代外町の荒木屋・肥前屋などの旅籠(はたご)に宿泊しています。

外町へ曲がる下町角に一里塚・高札場(こうさつば)があり、 その対面が問屋場(といやば)で人足・馬の継ぎ場となり、外町・昌町の街道分岐点にはそれぞれ追分石が建てられています。

鳥栖市教育委員会

田代は「たじろ」と濁るよみだったようである。 ちなみに、現代では濁らず「たしろ」と読む。

経路

田代昌町追分石 標高: 25.3m MAP 4km以内の寺社検索

追分石(西面「左こくら・はかた道」)
追分石(西面「左こくら・はかた道」) 
追分石(南面「右ひこ山道」)
追分石(南面「右ひこ山道」) 
追分石前の街道(石は左手) - 田代宿内に向かって撮影
追分石前の街道(石は左手) - 田代宿内に向かって撮影 
追分石(遠景・写真中央)
追分石(遠景・写真中央) 

追分石の脇に設置された案内板の内容を下に記す。(鳥栖市重要有形文化財(昭和49年(1974)5月13日指定))

田代宿(昌町)の追分石

この追分石には「右ひこ山道、左こくら・はかた道」の文字が刻まれています。 江戸時代ここは長崎街道と日田・英彦山道の分岐点で田代宿の東口(田代宿昌町)でした。

「右ひこ山道」の道は日田・英彦山道と呼ばれ、追分石から東へ姫方村、幡崎村などを経て秋月街道薩摩街道が交差する筑前国松崎宿(現小郡市松崎)[1]へと通じていました。

追分石には自然石が使われており、記録によれば享和2年(1802)にはこの地にあったようです。

「左こくら・はかた道」の方へ坂を下ると足洗川があります。 田代宿に入る旅人がここで足を洗ったようです。

平成25年(2013)3月15日 鳥栖市教育委員会

ここが宿場の入口とすれば、宿場の出入りをチェックする番所などもあったと思われるが、そのような遺構は確認できない。

恵比寿像 標高: 27.2m MAP 4km以内の寺社検索

全景(中央上段の石祠の中に恵比寿像が安置されている)
全景(中央上段の石祠の中に恵比寿像が安置されている) 
恵比寿像
恵比寿像 
恵比寿像前の街道 - 田代宿内に向かって撮影
恵比寿像前の街道 - 田代宿内に向かって撮影 

恵比寿像は石祠に納められている。左右・前には5基の石塔を従えている。 この5基の石塔の表面には文字・絵などは確認できない。

街道はこの先を左にカーブする。

新町の八坂神社 標高: 27.6m MAP 4km以内の寺社検索

八坂神社の本殿
八坂神社の本殿 
八坂神社前の街道-轟木宿に向かって撮影
八坂神社前の街道-轟木宿に向かって撮影 

八坂神社の前は片側一車線で交通量が激しい道である。 八坂神社の本殿右脇にはクスノキの大木(樹齢推定600年)ほか、境内にはイヌマキなどの巨木が見られる。

神社左手には光林山 昌元寺も伽藍を構えている。広い境内である。天台宗寺院である。 初回の取材でじっくり拝見することはできなかったが、かなりの古刹である。

宿内の街道はこの前を北に向かって進む。

上町3ケ寺 標高: 29.1m MAP 4km以内の寺社検索

紫友山 西清寺の本堂門前の長崎街道(左手に西清寺、右手手前に昌元寺、その先に浄覚寺) - 轟木宿に向かって撮影
紫友山 西清寺の本堂門前の長崎街道(左手に西清寺、右手手前に昌元寺、その先に浄覚寺) - 轟木宿に向かって撮影 
光林山 昌元寺の山門
光林山 昌元寺の山門 
紫友山 西清寺の大イチョウと本堂
紫友山 西清寺の大イチョウと本堂 
帰命山 浄覚寺の本堂
帰命山 浄覚寺の本堂 

轟木宿に向かって右手に、光林山 昌元寺(天台宗)・ 帰命山 浄覚寺(浄土真宗本願寺派)、左手に紫友山 西清寺(浄土宗)が伽藍を構えている。

昌元寺は往事は昌元寺町にあったが、寛文4年(1664)現地に移した。藩政時代に藩主宗氏の位牌所で、境内は除地。当寺は、領内最高の寺格を有したと云う。

浄覚寺は500数十年ほどの歴史を持つ。

西清寺は対馬藩主が当寺を建立した経緯から、現在でも本堂内には対馬藩主の位牌が祀られている。

太田山観世音道道標 標高: 30.7m MAP 4km以内の寺社検索

道標(表面「太田山観世音道」)
道標(表面「太田山観世音道」) 
道標(側面「是より北へ八丁」)
道標(側面「是より北へ八丁」) 
道標遠景(左右方向が長崎街道)
道標遠景(左右方向が長崎街道) 
安生寺本堂
安生寺本堂 

道標は街道の脇にひっそりと立っている。 表面に「太田山観世音道」、側面に「是より北へ八丁」とそれぞれ記されている。 「太田山観世音」とは太田山 安生寺のこと。 「八丁」は109m×8丁=872m。 Google Mapでの経路計算では850m。 ほぼ計算が合う。

、長崎街道踏査中偶然に当道標を発見。道標に従った所に安生寺があることがわかった。 急遽の参拝となった。当寺は養老6年(722)行基が一刀三礼にて聖観世音菩薩を制作。小堂を建てて安置したことに始まる古刹である。

当道標が、安生寺を示している事は住職のお話により確認済。

代官所跡 標高: 32.1m MAP 4km以内の寺社検索

恵比寿像(台座に「文化14年(1817)丁丑8月吉日」銘)
恵比寿像(台座に「文化14年(1817)丁丑8月吉日」銘) 

代官所跡には当時の面影を残すものは写真の恵比寿像以外はなにもない。 そこは田代小学校の敷地となっている。

代官所跡にある案内板の内容をそのまま記載する。

江戸時代、鳥栖市の東半分は対馬藩領でした。 対馬藩は田代領を治めるために代官所を設置し役人を派遣しました。 田代上町(たしろかんまち)に所在する西清寺の記録によると元和年間(1615-1624)に建築されたと思われます。

御勘定所田代代覚書(おかんじょうしょたしろおぼえがき)」には代官所の建物は田代上町(たしろかんまち)にあり「御屋敷(おやしき)」と呼ばれていたことが書かれています。 また、長崎街道に沿って南面し、表間口が48間、奥行きは東82間、西77間、裏は68間の広さであったことがわかっています。

田代代官所は嘉永4年(1851)に改築されたことが記録に残っています。 この指図はその時の設計図にあたるものと思われ、弘化4年(1847)の作成と考えられています。 また、建物の一部は2階建てになっていたようです。

指図の本家は代官が公務を行った建物で、中庭の奥は住まいとして使われていました。

この他に、享保9年(1724)の指図も現存してあり、これらの指図は平成11年に鳥栖市重要文化財(歴史資料)に指定されました。

鳥栖市教育委員会

対馬藩田代領広及舎跡 標高: 33.8m MAP 4km以内の寺社検索

民家の庭に案内板が設置されている。その内容を下に記す。

広及舎跡(こうきゅうしゃあと)

江戸時代、現在の鳥栖市の東半分と基山町は、対馬藩主・宗氏の領する飛び地領で、田代代官所(たじろだいかんしょ)が統治していました。

明治4年(1871)の廃藩置県で代官所は廃止されますが、その後も宗家は旧田代領内に多くの耕地を所有する大地主として、広及舎という組織に経営を任せていました。 広及舎の運営には、かつて田代代官所に出仕していた人たちが主として関わっており、明治14年(1881)頃までは東京在住の宗家からの送金で新たな土地を購入するなど、経営を拡大させていました。

やがて大正時代になり、宗家は土地を整理・売却しますが、広及舎もこの頃解散しました。

鳥栖市教育委員会

高札場・問屋場跡 標高: 34.1m MAP 4km以内の寺社検索

カーブ①(曲がる直前)
カーブ①(曲がる直前) 
カーブ②(曲がった所)
カーブ②(曲がった所) 
曲がり角の小堂
曲がり角の小堂 
曲がり角の小堂内(向かって左手より弘法大師・地蔵菩薩・文殊菩薩(?))
曲がり角の小堂内(向かって左手より弘法大師・地蔵菩薩・文殊菩薩(?)) 

高札場・問屋場跡があったというがそれらの遺構は確認できない、 小堂が一宇あるのみである。

街道はここで、左に直角に曲がる。 ここから、あの「サロンパス」の心地よい香りが漂ってくる。 両サイドは「久光製薬」の建物である。

同社のホームページによれば、弘化4年(1847)、久光仁平の創業。2019年で創業170年になる老舗である。 本社は東京だが、本店はこの地のままだという。

外町大師堂 標高: 31.3m MAP 4km以内の寺社検索

大師堂前の街道 - 轟木宿に向かって撮影
大師堂前の街道 - 轟木宿に向かって撮影 
大師堂内(向かって左手より、未確認の仏像、弘法大師・文殊菩薩(?))
大師堂内(向かって左手より、未確認の仏像、弘法大師・文殊菩薩(?)) 
大師堂
大師堂 

御堂内には3体の石仏が安置されている。 向かって左手の石仏(立像)の尊名を確認するのを失念していました。すみません。

外町天満宮 標高: 31.4m MAP 4km以内の寺社検索

鳥居
鳥居 
二の鳥居
二の鳥居 
天満宮前の街道-轟木宿に向かって撮影
天満宮前の街道-轟木宿に向かって撮影 
久光製薬鳥栖工場
久光製薬鳥栖工場 

天満宮は久光製薬鳥栖工場の脇にひっそりと鎮座している。二の鳥居はかなりの年代物である。

当然のことではあるが、この付近は「サロンパス」の香りが漂っている。

本陣跡 標高: 30.9m MAP 4km以内の寺社検索

Google Street Viewで確認すると、「長崎街道・田代宿町本陣 鳥栖市教育委員会」と書かれた柱が立っているのみ。 作者は気づかず素通りしてしまった。「本陣」の遺構などは残されていないと思われる。

外町恵比寿堂 標高: 28.3m MAP 4km以内の寺社検索

恵比寿堂
恵比寿堂 
恵比寿堂前の街道(右手にえびす堂) - 轟木宿に向かって撮影
恵比寿堂前の街道(右手にえびす堂) - 轟木宿に向かって撮影 

恵比寿様は、街道に向かってではなく、轟木宿に向かって安置されている。 お見逃しなきよう。

外町追分石 標高: 26.7m MAP 4km以内の寺社検索

追分石(向かって右手が長崎街道、左手が久留米方面への街道)
追分石(向かって右手が長崎街道、左手が久留米方面への街道) 
追分石(向かって右手が長崎街道、左手が久留米方面への街道)-遠景
追分石(向かって右手が長崎街道、左手が久留米方面への街道)-遠景 
手水鉢(「文化三■寅十二月吉■」銘)
手水鉢(「文化三■寅十二月吉■」銘) 
手水鉢(手前)と追分石
手水鉢(手前)と追分石 
昔懐かしい病院の広告板 - 追分より少し手前の民家の壁に貼られていた
昔懐かしい病院の広告板 - 追分より少し手前の民家の壁に貼られていた 

ここも狭い街道で車の往来が頻繁にある。追分石は鉄製のガードがされていて車も気になりじっくり見ることができなかった。 案内板の内容をそのまま記載する。

東口にも追分石があるとのことであるが、には発見できなかった。 今後の楽しみにとっておこう。

(鳥栖市重要有形民俗文化財)田代宿の追分石(おいわけいし)(昭和49年5月13日指定)

追分石とは、街道が左右に分かれる所に道しるべとして建っている石(標柱)のことです。

長崎街道の重要な宿場であり、田代代官所があった田代宿のものには「右ーさか、左ーくるめ道」と彫られており、 東口(田代昌町)のものには「右ーひこ山、左ーこくら・はかた道」と彫られています。 両追分石には記年銘がありませんが、少なくとも享和(きょうわ)2年(1802)以前に建立されたものと推定されます。

昭和60年11月吉日 鳥栖市教育委員会

追分石の後の手水鉢には「文化三■寅十二月吉■」銘あり。

追分石の後には外町追分地蔵堂が立っている。 街道は、この追分を右側に轟木宿に向かって進む。

古野町交差点 標高: 24.2m MAP 4km以内の寺社検索

道標
道標 
道標-遠景
道標-遠景 

ここも狭い街道で車の往来が頻繁にある。 街道はこの交差点を直角に左にカーブする。

交差点の手前に道標が設置されている。

本町の八坂神社 標高: 22.6m MAP 4km以内の寺社検索

八坂神社一の鳥居
八坂神社一の鳥居 
八坂神社前の街道-轟木宿に向かって撮影
八坂神社前の街道-轟木宿に向かって撮影 
八坂神社内の巨大な猿田彦
八坂神社内の巨大な猿田彦 

鳥居脇の案内板の内容を下記に記載する。

長崎街道・瓜生野町

瓜生野(うりゅうの)町は田代(たじろ)宿・轟木宿のほぼ中間にあたり、 農具などを売る街並みが続いていました。 江戸時代後期の文献によれば、街並みは本町・今町から成り、3・6・9の付く日には「市」がたてられていました。 "町5丁(ばかり)続きたり、人家の数、轟木より多し。商家・酒屋あり、茶屋はなし"との記録(菱屋平七『筑紫紀行』)もみられます。

瓜生野町八坂神社は縁起によれば「正安元年(1219)山城八坂神社の分霊(ぶんれい)勧請(かんじょう)」とされ、神輿(みこし)が出て、流鏑馬(やぶさめ)などの祇園会(ぎおんえ)がにぎやかに()り行われていました。

町の成立について、まだ定説はありませんが、江戸時代初期、宿村を通っていた街道がここに移り町立てがされた可能性もあります。

鳥栖市教育委員会

本照寺 標高: 19.6m MAP 4km以内の寺社検索

本照寺は瑞雲山来迎院と号し、浄土真宗東本願寺派の寺院である。

当初真言宗で天仁年間(1108-1109)の開山。 真言宗から浄土真宗への転派となる寛永8年(1631)の開基は来迎院釈理善法師。

恵比寿天・大黒天 標高: 18.5m MAP 4km以内の寺社検索

正面
正面 
街道-轟木宿に向かって撮影
街道-轟木宿に向かって撮影 
うしろ姿
うしろ姿 

民家の前に鎮座されている。よいお顔をされている。地元の方々の信仰心の深さであろうか綺麗に清掃されている。

秋葉神社 標高: 18.3m MAP 4km以内の寺社検索

秋葉神社
秋葉神社 
鳥居横の道標
鳥居横の道標 
秋葉神社より少し手前の商家-田代宿に向かって撮影
秋葉神社より少し手前の商家-田代宿に向かって撮影 
秋葉神社より少し手前の商家-田代宿に向かって撮影
秋葉神社より少し手前の商家-田代宿に向かって撮影 
秋葉神社より少し手前の商家-田代宿に向かって撮影
秋葉神社より少し手前の商家-田代宿に向かって撮影 
街道(秋葉神社は左手先)-田代宿に向かって撮影
街道(秋葉神社は左手先)-田代宿に向かって撮影 

街道はここを左に直角にカーブする。

秋葉神社の手前には古い白壁造りの商家が数軒のきを連ねている。

道標 標高: 16.3m MAP 4km以内の寺社検索

道標
道標 
道標前の街道-轟木宿に向かって撮影
道標前の街道-轟木宿に向かって撮影 

民家の前に設置されている。この周辺にはこのタイプの道標が要所要所に設置されている。 自分の歩く街道のコースに誤りがないか確認するのに助かる。感謝。

次の宿場は轟木宿である。

脚注