六角宿ろっかく(旧: 現:佐賀県杵島郡白石町)

概要

六角神社・肥前型鳥居
六角神社・肥前型鳥居 
六角神社・社殿
六角神社・社殿 

宿の北側の入口はわからない。 南側の入口は現在の六角郵便局のあたりという。

六角郵便局の東側にある六角小学校にはお茶屋があったという(校庭に石碑あり)。 安永6年(1777)(佐賀8代藩主治茂代)、六角町の大庄屋 黒木権兵衛が献上している。 詳しくは「延命寺墓地の項」を参照のこと。

佐賀藩主が杵島山での鷹狩りの際のお立ち寄り所となっていた。 また、文化3年(1806)、藩主斉直が、長崎警固見回りに当宿に宿泊した。 (『長崎街道―肥前長崎路と浜道・多良海道 (九州文化図録撰書)』などより)

ここでは、朝鍋追分→六角宿から、次の高町宿の前までのルートについて記載する。

経路

薬師堂 標高: 3.6m MAP 4km以内の寺社検索

薬師堂
薬師堂 
薬師如来
薬師如来 
庚申塔
庚申塔 
薬師堂脇の長崎街道 - 六角宿に向かって撮影
薬師堂脇の長崎街道 - 六角宿に向かって撮影 

薬師堂は、街道の東側にある。

堂内には、石造りの薬師如来が安置されている。 御堂に向かって左手には庚申塔が立っている。

西分 標高: 1.2m MAP 4km以内の寺社検索

西分(左右方向の道の右手が六角宿、手前方向が観音下追分への街道)
西分(左右方向の道の右手が六角宿、手前方向が観音下追分への街道) 
西分(矢印方向が六角宿、右方向が観音下追分への街道)
西分(矢印方向が六角宿、右方向が観音下追分への街道) 

朝鍋追分より六角宿方面に行く街道と、小田宿の観音下追分に向う道との分岐点である。

分岐点を示す遺構は確認できない。

この付近の街道は現在、県道207号線となっている。 多数の車で混雑しており、かなりの速度で往来している。

仏の津 標高: 3.4m MAP 4km以内の寺社検索

街道を通っていた人たちは、ここで六角川を渡河した。 『長崎街道―肥前長崎路と浜道・多良海道 (九州文化図録撰書)』によれば、ここは「仏の津」と呼ばれていたという。 六角川は現在の川幅は50m程。 旅人達は渡河するのに難儀したのではなかろうか?

ここには大師堂がある。

仏の津対岸(渡し場跡) 標高: 5.6m MAP 4km以内の寺社検索

渡し場跡(丸印付近か?) - 六角川南側対岸より撮影
渡し場跡(丸印付近か?) - 六角川南側対岸より撮影 
渡し場脇の街道(写真右手が渡し場跡) - 六角宿に向かって撮影
渡し場脇の街道(写真右手が渡し場跡) - 六角宿に向かって撮影 
渡し場脇の街道(写真右手の建物の裏手が渡し場跡) - 六角橋脇より撮影
渡し場脇の街道(写真右手の建物の裏手が渡し場跡) - 六角橋脇より撮影 

渡し場跡には当時の遺構のようなものは確認できない。

渡し場跡の脇に建てられている建物は、「金毘羅排水管樋管」である。 堤防より渡し場のあったと思しき川面までは石段が設置されている。

六角橋南側(馬頭観音・恵比寿) 標高: 5.8m MAP 4km以内の寺社検索

御堂脇の街道(御堂は写真左手) - 六角宿に向かって撮影
御堂脇の街道(御堂は写真左手) - 六角宿に向かって撮影 
馬頭観音像
馬頭観音像 
恵比寿像
恵比寿像 
六角川土手に咲く菜の花
六角川土手に咲く菜の花 
六角川の土手の道に書かれた巨大な「六角橋」の文字
六角川の土手の道に書かれた巨大な「六角橋」の文字 

街道の左手には馬頭観音像と恵比寿像が安置されている御堂がある。

土手には多数の菜の花が咲いていた。

街道を挟んで東側は六角川の土手である。 土手の上の道路には「六角橋」の巨大な文字が描かれている。 道路標識と思われるが、一体これは何のためのものであろうか?

不動明王 標高: 2.9m MAP 4km以内の寺社検索

不動明王像
不動明王像 
不動明王像(拡大)
不動明王像(拡大) 
不動明王像(拡大)
不動明王像(拡大) 
街道(不動明王は写真右手の矢印の先。写真左右方向はJR長崎本線)
街道(不動明王は写真右手の矢印の先。写真左右方向はJR長崎本線) 
不動明王前の街道(不動明王像は写真の右下隅)
不動明王前の街道(不動明王像は写真の右下隅) 
踏切そばを疾走するJR長崎本線の列車
踏切そばを疾走するJR長崎本線の列車 

不動明王像は石造り。 宝剣は欠落しているが、かなり繊細な像である。

街道は、ここで左に90°曲がる。 六角宿北側の入口は不詳であるが、拙サイトではここを北側の入口と仮定しよう。

新光寺 標高: 3.8m MAP 4km以内の寺社検索

門柱
門柱 
門前の長崎街道 - 高町宿に向かって撮影
門前の長崎街道 - 高町宿に向かって撮影 

新光寺は明福山と号し、曹洞宗の寺院である。

延命寺墓地 標高: 4.0m MAP 4km以内の寺社検索

墓地
墓地 
墓地入口(左右方向の道は長崎街道。笠の欠落した六地蔵塔と地蔵菩薩像がみられる)
墓地入口(左右方向の道は長崎街道。笠の欠落した六地蔵塔と地蔵菩薩像がみられる) 
地蔵菩薩像
地蔵菩薩像 
六地蔵塔(笠が欠落している)
六地蔵塔(笠が欠落している) 

延命寺墓地は街道より20mほど西側に進んだ所にある。 街道沿いには笠部が欠落した六地蔵塔と地蔵菩薩像が立っている。

墓地前にある御影石製の石碑の内容を下に記す。

延命寺墓地の石碑

此の地は、戦国時代の六角判官屋敷跡といわれ、周囲は堀で囲まれていた。 墓地中央の宝篋印塔形式の墓石は、六角判官の墓と伝えられ台座には周防守と刻まれている。

黒木氏は、江戸初期六角町南に住し、田地耕作並びに酒造業を営み、代々藤兵衛の名を継ぎ後に六角郷の大庄屋も勤めた。 氏は判官屋敷跡の一部を墓所として享保初年(1716)に、法泉寺[1]8世覚山大和尚を開山とし、 福聚山延命寺を営む。 佐賀藩主第4代鍋島吉茂公の時代から長崎往来或は西目筋御狩等の折に六角町に逗留し黒木家を使用される。 第8代治茂公の安永6年(1777)に至り黒木氏は屋敷裏東に御茶屋を建立し献上する。 以降第10代閑叟(かんそう)[2]に至るまでここが逗留所となる。

明治に至り黒木氏は御茶屋を学校としての払下げに努力する。 これが六角小学校の前身錦浦小学校最初の校舎となる。

この墓所は此れ等、功績ある黒木一族の眠る墓である。

当所に碑を建立し墓所と周辺の由来を記し後人の資料とする。

昭和63年4月吉日 識文並建立者 黒木教善

六角神社西側 標高: 3.9m MAP 4km以内の寺社検索

本殿
本殿 
大楠(樹齢400年、佐賀の名木古木)と観音堂
大楠(樹齢400年、佐賀の名木古木)と観音堂 

六角神社は街道より100mほど東側に鎮座している。 境内には、樹齢400年の大楠・観音堂・梵字が刻まれている板碑などがみられる。

表参道口は長崎本線のすぐ脇である。この場所は六角小学校の東北隅裏手にあたる。 ここでは肥前型鳥居がみられる。

恵比寿像 標高: 4.2m MAP 4km以内の寺社検索

恵比寿像
恵比寿像 
恵比寿像前の長崎街道 - 高町宿に向かって撮影
恵比寿像前の長崎街道 - 高町宿に向かって撮影 

恵比寿像は民家の塀の脇にある。 よく見ていないと見逃すかもしれません。

願成寺 標高: 4.4m MAP 4km以内の寺社検索

門前の長崎街道 - 高町宿に向かって撮影
門前の長崎街道 - 高町宿に向かって撮影 
門柱手前の石橋
門柱手前の石橋 

願成寺は圓通山と号し、曹洞宗の寺院である。

六角郵便局(宿の南の入口) 標高: 3.6m MAP 4km以内の寺社検索

六角郵便局
六角郵便局 
看板脇の恵比寿像
看板脇の恵比寿像 
六角郵便局前の街道 - 高町宿に向かって撮影
六角郵便局前の街道 - 高町宿に向かって撮影 

ここが、六角宿の南の出入り口であったという。 裏手(東側)の六角小学校は近世では佐賀藩主の御茶屋があったという。

この付近では番所など当時の遺構は確認できない。 郵便局の大きな看板の脇に恵比寿像が鎮座しているのみである。

妙音寺 標高: 3.8m MAP 4km以内の寺社検索

門前の長崎街道(右手が妙音寺) - 高町宿に向かって撮影
門前の長崎街道(右手が妙音寺) - 高町宿に向かって撮影 
本堂
本堂 

妙音寺は金剛山と号し曹洞宗の寺院である。

自然石梵字板碑 標高: 1.0m MAP 4km以内の寺社検索

梵字石
梵字石 
梵字石前の街道(梵字石写真の左手方向にある。)
梵字石前の街道(梵字石写真の左手方向にある。) 

梵字石は民家の庭先にある。 普通に歩いていると見逃してしまいそうである。

街道はここで、右に90°曲がる。

地照院 標高: 1.0m MAP 4km以内の寺社検索

本堂
本堂 
六地蔵塔
六地蔵塔 

この地点のすぐ西側には地照院がある。 境内には、六地蔵塔・地蔵堂などがみられる。

この先1kmほど南下すれば、高町宿である。

脚注