小田宿おだ(旧:肥前国小田 現:佐賀県杵島郡江北町)

概要

小田宿内の商家に掲げられた幟
小田宿内の商家に掲げられた幟 
大庄屋中島家に伝わる杉材一枚ものの板戸(殿様の部屋の入口付近に設置されてあったという。裏面は龍の彫刻があるが残念ながら痛みが激しく確認しづらい)
大庄屋中島家に伝わる杉材一枚ものの板戸(殿様の部屋の入口付近に設置されてあったという。裏面は龍の彫刻があるが残念ながら痛みが激しく確認しづらい) 
天子社境内から眺める小田宿の全景 - 正面の山は御岳山
天子社境内から眺める小田宿の全景 - 正面の山は御岳山 

小田宿には残念ながら、江戸期を思わせる建物などは少ない。

伊能忠敬の『測量日記』第4巻(九州第2次の1)の内容を抜粋する。 忠敬は、作者とは逆方向。すなわち北方宿から小田宿へ向かって歩いている。 当時の街道の様子がよくわかる。(ポイントとなる固有名詞は太字体に、数字は英数字にしています。)

文中の"伝右衛門"は大庄屋中島(嶋)伝衛門のことという。

文化9年(1812)9月17日。朝小雨。段々晴、四ツ後又小雨又晴。六ツ後北方町出立。 同所より初、長崎街道測る。

北方村字大添、志久村、左に鎮守稲至社あり。旧跡13塚、故事不知、字中尾、字辺田、字追分、字武雄、字塩田道碑に繋ぐ。 24町49間。

但武雄道本街道、塩田は近道両道嬉野にて出会、焼米村、左に鎮守正一位竜王社、 左に竜王池周囲27,8町(≒3km)、六角川上、土橋7間、此川汐入海辺迄7里という。 真直ならば4里程にて海辺、字赤坂、野陣子休、福母村字出茶屋、 左に禅宗西福寺あり。

又左1町斗引込鎮守八幡社あり。 字大谷口、下大町村、左に鎮守八幡社あり。 上大町村、下上大町共人家164軒、字畑田、上小田村枝樽原、上小田宿本町、 人家入口、左に樟大木丸10囲斗り。根元に馬頭観音を刻、行基の作という。

又左20間斗上に若宮八幡宮あり。 左制札前問屋場追分より1里21町23間、止宿入口迄3町10間、街道合2里11町22間、 測所打上45間惣測2里12町7間。

9ツ後に着、止宿本陣伝右衛門、別宿利七、大庄屋篠原分右衛門。此夜晴天測。

ここでは、小田宿から焼米追分の前までのルートについて記載する。

経路

道標 標高: 2.4m MAP 4km以内の寺社検索

道標
道標  

ここより小田宿へは一直線に西に向かう。

小田宿入口 標高: 2.3m MAP 4km以内の寺社検索

入口
入口  

街道はこの分かれ道を直進し、小田宿に入る。 写真の背景の山は聖岳である。

大庄屋中島家 標高: 8.1m MAP 4km以内の寺社検索

中島家の全景
中島家の全景 
建て替える前の間取図(写真手前が街道)
建て替える前の間取図(写真手前が街道) 
中島家に伝わる家紋入の笠
中島家に伝わる家紋入の笠 
中島家に伝わる家紋入の手鏡
中島家に伝わる家紋入の手鏡 
中島家に伝わる将棋盤(鍋島藩の家紋入)
中島家に伝わる将棋盤(鍋島藩の家紋入) 
一枚板の欄間
一枚板の欄間 

小田宿入口より200mほど宿場内を進んだところに大庄屋中島家はある。

長崎街道 (肥前佐賀路) (九州文化図録撰書 (2))』によれば、中島家は代々大庄屋を世襲し。郡代、代官の下知に従い、庄屋を統率し郷内の諸法度の取締りなどを行ったという。

上の『測量日記』によれば、伊能忠敬も中島家に止宿し、天体観測をしている。

写真の間取り図によれば、かなり広い屋敷であったことがわかる。 中島家には、多数の欄間・手鏡・藩主の部屋にあった板戸などが大切に保管されている。

特に目を引くのが、鍋島(家)藩の家紋の入った将棋盤である。痛みが激しいが、中島家に止宿あるいは休憩した藩主が、 将棋を楽しんだのであろう。(ご主人のお話によれば、碁盤もあったとのことであるが、どなたかにあげたとのこと。) 平成元年ころまではほぼ当時のままの建物があったが、痛みがはげしくやむなく建て替えたという。

謝辞:に中島家17代ご主人を訪問。奥様とともに貴重な資料の閲覧やお話をお聞きすることができた。感謝。

中島商店 標高: 9.7m MAP 4km以内の寺社検索

中島商店手前の街道(中島商店は写真中央) - 街道は突き当たりを左に曲がる
中島商店手前の街道(中島商店は写真中央) - 街道は突き当たりを左に曲がる  

ここまで西に一直線に来ていた街道はここで90度左に曲がり、南に向かう。

伊藤氏メモ「小田宿歴史探訪マップ」によれば、道標「ながさき美ち/古くらみち」は、もとはこの中島商店の先にあったが、戦後、移設され、現在、近くの関川家住宅敷地内にあるとのことです。()

古い民家 標高: 7.4m MAP 4km以内の寺社検索

恵比寿像
恵比寿像  
古い民家 - 北方宿に向かって撮影
古い民家 - 北方宿に向かって撮影  
石仏
石仏  

宿場内は、写真のように色のついた道路となっている。

正栄寺前 標高: 9.1m MAP 4km以内の寺社検索

恵比寿・大黒天像
恵比寿・大黒天像 
正栄寺前の街道- 北方宿に向かって撮影
正栄寺前の街道- 北方宿に向かって撮影  

正栄寺は園熊山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。

門前の街道を挟んだ民家の前には恵比寿・大黒天が並んで造られた石像がある。 この組み合わせは肥前では珍しい。 左右逆であるが、小田宿の所々に掲げられた(のぼり)にあしらわれた図とよく似ている。

一行寺前 標高: 9.9m MAP 4km以内の寺社検索

一行寺は本誓山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。

天子社参道口 標高: 9.8m MAP 4km以内の寺社検索

参道入口の石橋
参道入口の石橋  
天子社
天子社  

天子社(てんししゃ)はここより500mほどゆるやかな坂を西に登ったところに鎮座している。

関川家住宅 標高: 9.6m MAP 4km以内の寺社検索

佐賀県遺産データベース / 佐賀県遺産 / 佐賀県によれば、 明治中期に建築されたと推定される。農商銀行株式会社として活用されていた事務所兼住宅で、当時の景観を残すたいへん貴重な建造物であるという。

岩見屋の池園 標高: 8.3m MAP 4km以内の寺社検索

長崎街道 (肥前佐賀路) (九州文化図録撰書 (2))』によれば、この庭は長崎街道開通当時のもので、 江戸初期につくられたものという。 『庭園の美―九州・山口・沖縄』によれば、 池泉鑑賞式の庭という。

に見学させていただいて写真を掲載していたが、「岩見屋の池園」の住人の方 から連絡を受け、そのお宅は間違いで、その東隣のお宅であるとの連絡を頂いた。(感謝感謝) とりあえず、掲載していた写真は削除。 再度取材に伺おうと思う。(記)

観音下追分 標高: 7.8m MAP 4km以内の寺社検索

追分 北方宿に向かって撮影
追分 北方宿に向かって撮影 
道標
道標  

写真でまっすぐ行けば北方宿。左(白いガードレールのところ)に曲がれば浜道(鹿島宿方向)である。

ここには馬頭観音堂がある。案内板によれば、藩政時代よりここに鎮座しているようである。 詳しくは馬頭観音堂のページをご覧ください。

古民家 標高: 6.3m MAP 4km以内の寺社検索

商家 - 北方宿方向に少し進んだところにある。(北方宿に向かって撮影)
商家 - 北方宿方向に少し進んだところにある。(北方宿に向かって撮影) 

街道は聖岳の山裾をJR佐世保線に沿って西に進む。

このあたりは古民家が点在している。

正善寺 標高: 5.6m MAP 4km以内の寺社検索

正善寺は正治山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。。

横辺田代官所跡 標高: 6.6m MAP 4km以内の寺社検索

敷地内の石碑
敷地内の石碑 
代官所跡前の街道 - 北方宿に向かって撮影
代官所跡前の街道 - 北方宿に向かって撮影 
敷地内のムクの木
敷地内のムクの木 

代官所跡には、樹齢300年,樹高14m,幹回り3m,枝張り12mと言われるムクノキの大木が根元に岩を 抱えこんだ形で立っているだけである。 礎石と思われる石も点在するが、それが礎石かどうかは作者は判断できない。 案内板の内容を下記に記載する。

横辺田代官所跡

文明15年(1483)肥前の国主、藤原朝臣家兼公が現在の砥川町、江北町、 大町町、北方町の六角川北岸地域を総称して、横辺田と称し領有したことにはじまる。

享和元年(1801)に佐嘉本藩の直轄地として藩主鍋島治重公(第8代)が 7代官所のひとつに入れ、明治9年(1876)に廃止されるまで172年の間、 横辺田,東郷、白石中郷、南郷、六角郷、橋下郷、成瀬郷、北方郷、塩田郷、吉田郷、 嬉野郷、能古見郷、七浦郷、須古郷など15の郷を、嘉永2年(1849)には諫早代官所の所轄地域も 横辺田代官所に合併されて民政の安定と課役を司どり、行政所轄の中心所在地であった。

大町町教育委員会

土井家 標高: 8.2m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 
拡大
拡大 
前の街道 - 北方宿に向かって撮影
前の街道 - 北方宿に向かって撮影 

巨大な町家造りの住宅である。あいにく内部は見学できなかったが、表から見た細かな窓枠などの細工は ずいぶん凝ったものになっている。 写真が逆光でうまく撮影できませんでした。次回通った時に撮影しなおします。 案内板の内容を抜粋して記載する。

重要文化財土井家住宅(国指定重要文化財)

(前略)

この民家の建築年代は、構造、手法、絵模様等から19世紀前半と推定される、

間口6間半、奥行き7間、背後に2間の下屋を付け、 屋根は本瓦葺、切妻造り、妻入形式を取り、二段の(ひさし)を付け、二階造りに見せている。

明治時代と大正時代の頃にも一部修理が加えられているが、昭和51年から工期14ヶ月を要して全解体、 根本的大改修により、おおむね建設当初の姿に復旧整備された。

この住宅は街道筋に面した町家であるが土間が広く、農家風なところもあり、地方民家の一形態を示す価値ある住宅である。 以前は造り酒屋であったものを明治初期、土井家初代の所有となり農家としても使用されている。

大町町教育委員会

松本寺 標高: 7.8m MAP 4km以内の寺社検索

松本寺(しょうほんじ)は浄林山と号し、天台宗の寺院である。

大町町福母の街並 標高: 7.2m MAP 4km以内の寺社検索

街並 - 北方宿に向かって撮影
街並 - 北方宿に向かって撮影 
街並 - 北方宿に向かって撮影
街並 - 北方宿に向かって撮影 

このあたりは、街道は綺麗に舗装され商店街となっている。

正安寺 標高: 9.0m MAP 4km以内の寺社検索

正安寺は慈光山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。

福母八幡宮 標高: 6.6m MAP 4km以内の寺社検索

福母八幡宮は貞観8年(866)創建。 主な祭神は神功皇后・應神天皇・仲哀天皇。

西福禅寺 標高: 6.4m MAP 4km以内の寺社検索

参道口前の街道 - 北方宿に向かって撮影
参道口前の街道 - 北方宿に向かって撮影 
参道口
参道口 

西福禅寺は慈雲山と号し、曹洞宗の寺院である。開山は元禄初期という。

古八幡宮(福母地蔵板碑) 標高: 8.2m MAP 4km以内の寺社検索

古八幡宮の石段
古八幡宮の石段 
板碑
板碑 
古八幡宮前の街道 - 北方宿に向かって撮影
古八幡宮前の街道 - 北方宿に向かって撮影 

古八幡宮は、小高い丘の中腹に鎮座している。本殿などの建物は確認できなかった。 その石段脇には福母地蔵板碑がある。 案内板によれば、応安6年(1373)3月8日製でもとは旧家の畑の中にあったものがここに移されたものという。

板碑には、何やら線画のようなものが刻まれているが作者は描かれているものが何なのかは確認できていない。

石切場跡 標高: 5.9m MAP 4km以内の寺社検索

石切場跡の風景(横穴が掘ってある)
石切場跡の風景(横穴が掘ってある) 
石切場跡の風景 - 石段
石切場跡の風景 - 石段 
石切場跡の風景
石切場跡の風景 
石切場前の街道(街道はR34から別れ右側の道を進む) - 北方宿に向かって撮影
石切場前の街道(街道はR34から別れ右側の道を進む) - 北方宿に向かって撮影 

石切場跡は夏草が繁茂し、蛇きらいな作者は奥まで入って行けなかった。 蛇のいない時期にまた行ってみようと思う。

案内板の内容を下記に記載する。

ここ赤坂には、江戸時代に白石平野干拓の用水建設のために切り出された石切場跡があります。

赤坂の山は、芳ノ谷層(よしのたにそう)という地層で石を切り出して砥石(といし)や 建築用材として広く利用されていました。

焼米津(やくごめつ)から六角川(ろっかくがわ)に水運の便もあり、 舟を使って石材を積み出していたことが江戸時代の記録に書かれています。

享保10年(1725)10月24日の記録には、佐賀城普請(ふしん)に焼米の石材が使われていたことが記されています。 他にも、古代の防御施設である赤坂砦(あかさかとりで)や地蔵信仰により造られた六地蔵塔、 長崎街道を往来する大名が野立(野点?)をした場所もあります。

近くには、赤坂炭鉱跡もあり鉄道や舟を使って石炭を積み出していました。

この周辺には武内宿禰(たけうちすくね)にまつわるものなど、いくつかの伝説も残っており古代ロマンを感じられるところでもあります。

案内板には炭鉱跡・赤坂砦の場所も記載されている。冬場にもう一度行ってみよう。

JR北方駅 標高: 7.6m MAP 4km以内の寺社検索

駅舎
駅舎 
ホーム - 高橋駅に向かって撮影
ホーム - 高橋駅に向かって撮影 

JR北方駅は無人駅で、平日昼間には人影はあまり見られない。

焼米追分 標高: 5.6m MAP 4km以内の寺社検索

追分
追分 

この追分は長崎街道の南西方向の塩田宿方面(塩田通り)と北方宿塚崎宿方面(塚崎通り)の分岐点である。

右の写真の右側を進むと塚崎通り。左のガソリンスタンド方面が塩田道である。 塩田道側の街道はガソリンスタンド・JRの線路がありしばらくの間道は消失している。

追分より塚崎道を20mほど西に進むと石段があり、そこを登ると追分観音堂がある。 石段脇に設置されている案内板の内容を下に記す。

ここは、旧長崎街道

追分とは、本街道からの分岐点のことを言い、そこで発達した集落名によく使われる。 北方町の追分は、長崎街道の塩田道と伊万里・平戸道との分岐点にあたり、 伊能忠敬の『測量日記』には文化9年(1812)9月17日の記事に丁石(ちょうせき)があったことが記されている。(後略)