鳴瀬宿なるせ(旧:肥前蓮池藩領杵島郡成瀬村 現:佐賀県武雄市橘町)

概要

阿弥陀堂前の街並
阿弥陀堂前の街並 

宿場内にある案内板の内容を下記に記す。

長崎街道と鳴瀬宿について

ここは江戸時代、長崎街道の鳴瀬宿のあった所です。 当時は駅舎・倉庫・馬つなぎ場などがあり、役人(参勤)は、歩いたり、駅馬に乗ったりして旅をしていました。

荷物は駅馬で運ぶことができました。(中略)

◎鳴瀬駅〜塩田駅間[2里1丁(8.4km)](中略)

◎鳴瀬駅〜小田駅間[2里11丁(9.1km)](中略)

また駅の西方には六角川湊[1]があり、舟で肥料・日用品等を移入し、農産物や特産のカメ[2]・薪を移出していました。 そのため鳴瀬宿には、宿屋・魚屋・人力車屋その他いろいろな商店問屋が建ち並び繁昌していました。 しかし、ここには大名や上級武士の泊まる本陣がなかったので、西岸寺が代用されました。

[付記]「なるせ」の地名は、昔潮の満ち引きの時に瀬が鳴くと言うところから「鳴瀬」とつけられたが、江戸時代には「成瀬」と書いてある。 字画の少ない漢字を当てる風習のためであろう。 現在は「鳴瀬」と書く。

平成22年度 橘町まちづくり推進協議会

ここでは、焼米追分から鳴瀬宿を通り、塩田宿の手前までのルートについて記載する。

経路

案内板「志久津と新橋」 標高: 3.2m MAP 4km以内の寺社検索

案内板前の街道 - 塩田宿に向って撮影
案内板前の街道 - 塩田宿に向って撮影 
案内板
案内板 
案内板の地図 - 案内板より抜粋引用
案内板の地図 - 案内板より抜粋引用 

ここに案内板(平成13年11月銘)がある。 作者はこの辺りの地理歴史に疎く、今一理解できていない。 案内板に記載されている内容をそのまま記す。

志久津と新橋

この地に津が出来たのは古く、地名を「佛の津(ほとけのつ)」と呼んでいた。 多久領主の支配となってからは志久津と呼び、御船屋(おふなや)には二艘(にそう)の領主の舟があった。 新橋架橋の記録は「御屋形(みやかた)日記」の延享3年(1746)4月24日の条に 「今から100年前、新しく橋を架け道の横に井樋(いび)を設けた」とある。 この年、医王寺(いおうじ)[3]不動崎(ふどうさき)から追分に向って新道が建設され長崎街道が完成した。 このことが追分地名の始まりとなった。 元禄年間(1688-1704)に来たケンペルの日記にも新しい橋を渡ったとある。 文化10年(1813)9月24日には幕府測量天文方、伊能忠敬一行が新橋芦原領分(あしはらりょうぶん)の本陣、 勝三郎(かつさぶろう)方に泊まって測量をし、星測(せいそく)33度12分半と『地勢要覧』に記録されている。

明治維新となり郷蔵(ごうくら)は廃止されその御蔵(おぐら)を利用して明治11年(1878)12月、 志久村・芦原村組合立錦江尋常小学校(きんこうじんじょうしょうがっっこう)が発足した。 明治14年(1881)には二階建の新校舎が完成した。 その後、尋常科は明治31年(1898)橋下・北方両村内の学校統合により移転し高等科が明治41年(1908)まで続いた。 校庭はこの後、掛橋白菜(かけはしはくさい)研究圃場(けんきゅうほじょう)となった。

芸能としては室町時代の起源という大黒舞(だいこくまい)の節で踊る豊年三助踊り(ほうねんさんすけおどり)が伝承され、 この地を起源として大町、須古(すこ)等近隣の村に伝わった。 稲主神社に奉納された絵馬には志久御蔵(しくおくら)の様子が描かれている。

一里松(推定地) 標高: 3.2m MAP 4km以内の寺社検索

上の案内板によれば、この辺りに一里松があったという。(未確認)

鳴瀬宿案内板 標高: 9.2m MAP 4km以内の寺社検索

「史跡 長崎街道鳴瀬宿跡」の石碑
「史跡 長崎街道鳴瀬宿跡」の石碑 
阿弥陀堂
阿弥陀堂 
阿弥陀堂脇の石仏
阿弥陀堂脇の石仏 
観音像と阿弥陀像(阿弥陀堂内)
観音像と阿弥陀像(阿弥陀堂内) 
なるせ味噌
なるせ味噌 
六地蔵塔
六地蔵塔 

ここより、鳴瀬神社あたりまでが、宿場の中心であったのではなかろうか?

今ではここには、わずかに阿弥陀堂とその脇に六地蔵塔他の石仏があるのみで宿場の遺構などは確認できなかった。 少し塩田側には「なるせ味噌」の工場がある。

案内板によれば、ここと現在の六角川との間の地点には佐賀本藩と蓮池藩の倉庫があったという。

ここより先しばらくは左手に勇猛山を見る山裾の道となる。平坦な街道である。

西岸寺 標高: 7.8m MAP 4km以内の寺社検索

門前の長崎街道 - 塩田宿に向って撮影
門前の長崎街道 - 塩田宿に向って撮影 

西岸寺は金峰山と号し、浄土真宗本願寺派のお寺である。

藩主の本陣として使用されていた。本堂脇の玄関には鍋島の紋があしらわれているという。

鳴瀬神社 標高: 8.6m MAP 4km以内の寺社検索

参道口の一の鳥居(手前は長崎街道)
参道口の一の鳥居(手前は長崎街道) 
二の鳥居(見事な肥前型鳥居)
二の鳥居(見事な肥前型鳥居) 
門前の長崎街道 - 塩田宿に向って撮影
門前の長崎街道 - 塩田宿に向って撮影 

鳴瀬神社の参道口の一の鳥居脇には4体の石塔。 存在感たっぷりである。 そこから、石段を登ると二の鳥居。 これは肥前型鳥居。保存状態は良好。

そこからさらに石段が続き、その先に本殿域があると思われるが、季節柄長いものが怖くて前進を断念。 二の鳥居からの参拝となった。

六地蔵 標高: 7.1m MAP 4km以内の寺社検索

六地蔵
六地蔵 
六地蔵(遠景)
六地蔵(遠景) 
石段(手前の道は県道498号線)
石段(手前の道は県道498号線) 

街道(県道498号線)の脇に石段があり、そこを登ると六地蔵が立っている。 真新しい前掛けをされておられる。

長崎街道道標 標高: 5.4m MAP 4km以内の寺社検索

街道(手前の道路は県道498号線) - 塩田宿に向かって撮影
街道(手前の道路は県道498号線) - 塩田宿に向かって撮影 
道標(正面)
道標(正面) 
道標(側面「小倉まで133.1キロメートル」)
道標(側面「小倉まで133.1キロメートル」) 
道標(側面「長崎まで94.9キロメートル」)
道標(側面「長崎まで94.9キロメートル」) 

街道はここで、県道498号線に別れを告げる。

カーブには真新しい「長崎街道」の道標が建てられている。

興隆寺・梅宮神社 標高: 6.7m MAP 4km以内の寺社検索

興隆寺は金城山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。

旧道との分岐点 標高: 8.3m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査。 鳴瀬宿 佐賀国道事務所に記された地図によれば、 ここより東寄りに、街道と並行して古い道があったようである。 この古い道沿いには「ドウサマ墓地」「六地蔵」などがあるという。 (詳細は地図を参照のこと。)

旧道との合流点(長崎街道道標) 標高: 9.2m MAP 4km以内の寺社検索

旧道との合流点(右手に道標)
旧道との合流点(右手に道標) 
遠景
遠景 
道標(「長崎まで91.6キロメートル」)
道標(「長崎まで91.6キロメートル」) 
道標「平成17年8月 田中内科医院 院長 田中俊彦」銘
道標「平成17年8月 田中内科医院 院長 田中俊彦」銘 

ここで旧道と合流。 街道右手には道標がある。 「平成17年8月 田中内科医院 院長 田中俊彦」銘。

あいにく、ここは工事中。 工事されている方々は手を休めて撮影に協力して下さった。 感謝感謝である。

街道は、この先左手に山、右手に田園風景をみながら進む。

群境石 標高: 10.3m MAP 4km以内の寺社検索

郡境石(「平成17年8月 (有)浦田勤石材」銘)
郡境石(「平成17年8月 (有)浦田勤石材」銘) 
郡境石(写真上部)
郡境石(写真上部) 
道標(「長崎まで92.1km」)
道標(「長崎まで92.1km」) 
道標(「小倉まで135.9km)」
道標(「小倉まで135.9km)」 
郡境石前の街道(赤矢印の先に郡境石) - 塩田宿に向かって撮影
郡境石前の街道(赤矢印の先に郡境石) - 塩田宿に向かって撮影 

郡境石はコンクリートの塀の上にある。 台座部分は草に覆われて見えない。高さは台座を含め50cmほどか? 「従是(これより)」の文字のみ確認できる。

鳴瀬宿の地点が、杵島郡(きしまぐん)。次の塩田宿の地点が藤津郡(ふじつぐん)。 ここが両郡の境であったのであろう。

GoogleMap上では、この地点の前後は道が無いように表示されるが、 しっかりとしたコンクリート敷の道はある。 車は路肩が無いので危険。(現在)

圓福寺 標高: 7.3m MAP 4km以内の寺社検索

圓福寺全景(左右方向の道は長崎街道)
圓福寺全景(左右方向の道は長崎街道) 

圓福寺は熊谷山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。

田崎製茶本舗 標高: 9.6m MAP 4km以内の寺社検索

田崎製茶本舗
田崎製茶本舗 
門前の長崎街道 - 塩田宿に向かって撮影
門前の長崎街道 - 塩田宿に向かって撮影 

白壁造りの存在感のある建物である。

ここを過ぎるとほどなくして塩田宿に入る。

脚注