黒崎宿くろさき(旧:筑前国遠賀郡黒崎村 現:北九州市八幡西区藤田)

概要

商店街の店先の提灯
商店街の店先の提灯 
黒崎宿の案内図 - 宿場内に掲示されている
黒崎宿の案内図 - 宿場内に掲示されている 
黒崎驛 図(巻之7遠賀郡)
黒崎驛 図(巻之7遠賀郡)
『筑前名所図会』
洞海四方全図(左中央に黒崎宿が描かれている) - 『筑前國続風土記附録』(中)挿絵
洞海四方全図(左中央に黒崎宿が描かれている) - 『筑前國続風土記附録』(中)挿絵 

黒崎宿は長崎街道の大里・小倉に続く宿場町であった。 また、洞海湾の入江を利用しここより海路で本州に交通する拠点でもあった。

宿場内の案内板の内容を記載する。

黒崎宿跡

黒崎はかつて長崎街道東端の宿駅として、江戸時代には福岡と小倉両藩の境界にあり、 福岡藩では唯一の上方(かみがた)への渡航船(乗合貨客船)が発着する港をもつ 宿場町でした。九州ののど元にあるために、対馬と五島を除く九州西半の全大名や、 多くの旅人がこの宿場を利用しました。江戸時代後半には、これら諸藩の御用達や 定宿(じょうやど)も設けられました。

宿内には、藩主の別館としての御茶屋(本陣)や町茶屋(まちちゃや)(脇本陣)が 設けられていました。 また、宿駅の機関である人馬継所(ひとうまつぎしょ)、行政上の施設である 制札場(せいさつば)関番所(せきばんしょ)郡家(ぐんや)、 代官所などが完備され、一般の旅籠屋(はたご)(旅館)や商店も軒を並べていました。

このほか非常事態に備えて、御立退所(おたちのきしょ)(火災時の避難所)や 御除道(おのよけみち)(伝染病の発生時に宿内の迂回をする道)が設けられて いました。

右の『筑前名所図会』には当時の黒崎宿の様子が洞海湾側から良く描かれている。東構口、西構口も 現在とほぼ同じ位置に描かれている。

黒崎宿の北側の道伯山にはその昔、黒崎城があったが、一国一城令により廃却された。

ここでは黒崎宿より次の木屋瀬宿までのポイントを順を追って記述する。

経路

東構口 標高: 2.7m MAP 4km以内の寺社検索

東構口の石碑 - 後は海蔵庵
東構口の石碑 - 後は海蔵庵 
東構口(右の赤い販売機あたり) - 宿場内に向かって撮影
東構口(右の赤い販売機あたり) - 宿場内に向かって撮影 

天和元年(1615)に黒崎城が廃されたときにその南側の堀を埋め立てて、この構口が開かれた。 西構口と同様に、当時ここには、3~4人の役人が昼夜交代で通行人のチェックをしていた。

街道は、ここより100m足らず西に進んだところで左に急カーブする。 ここには当時から神蹟山海蔵庵があった。 海蔵庵の街道を挟んだ北側には福寿山自在院がある。 こちらは、平成9年(1997)創建の新しい寺院である。

御茶屋跡 標高: 2.7m MAP 4km以内の寺社検索

ここの西側には、御茶屋・町茶屋があったとされるが、現在はJRの敷地内となって何の痕跡も確認できない。 御茶屋は、藩主が泊まる場所であった。

歌碑 標高: 3.4m MAP 4km以内の寺社検索

歌碑 - 写真左右方向は国道3号
歌碑 - 写真左右方向は国道3号 

歌碑の脇には案内板が設置されている。それによれば、向って右手の石碑(大正4年建立)には、「さかまほし大内山の鶯の こころつくしにもらす初音を」(正顕=古海東四郎正顕=櫻屋の主人)、 「九重のはるにもれらるうくひすは 世のことをのみなさけきこそなれ」(実美=三条実美())

向って左手の石碑(大正7年建立)には「さすらひし昔の跡のしるしとて 植し小松の千代にさかえよ」(通禧=東久世正顕(ひがしくりみちとみ))

桜屋跡 標高: 2.3m MAP 4km以内の寺社検索

街道 - 写真左右方向は国道3号
街道 - 写真左右方向は国道3号 
歌碑 - 写真右手に石碑
歌碑 - 写真右手に石碑 

宿場内の街道は、ここで国道3号線を横断する。 跡地には、近代的なマンションが建てられており、その前に「櫻屋跡」の石碑がみられる。

先ほどの案内板によれば、櫻屋は文化5年(1808)頃の創業と伝えられ、古くは薩摩藩の定宿となったことから「薩摩屋」と称していたが後に「櫻屋」に改められたという。 幕末期には長州藩、土佐藩などの勤王の志士が多く投宿したという。 また、当主は攘夷派の五卿を支援したとも云われているという。

人馬継所跡 標高: 2.2m MAP 4km以内の寺社検索

石碑
石碑 
春日神社の参道口
春日神社の参道口 
春日神社
春日神社 
一の鳥居 - 春日神社
一の鳥居 - 春日神社 
本殿と拝殿 - 春日神社
本殿と拝殿 - 春日神社 
拝殿の扁額 - 春日神社
拝殿の扁額 - 春日神社 
拝殿の扁額 - 春日神社
拝殿の扁額 - 春日神社 
石段 - 春日神社
石段 - 春日神社 

人馬継所は春日神社の参道口付近にあったという。 現在は商店(写真「TAKANO」の看板)があり、その前には石碑がある。 街道はこの商店の手前に右に急カーブする。

筑前國続風土記拾遺』巻之34 遠賀郡 利 藤田村の項によると、 春日神社は花尾城主であった麻生氏が代々崇拝していた神社で元は花尾山の麓にあったという。 花尾城が落城後はしばらくは仮殿状態であり、黒田二十四騎の一人井上周防之房が黒崎城主の時に、黒田藩藩祖(黒田如水) の霊を勧請して現在の地に遷した。 周防が亡くなるとしばらくは祭礼は途絶えたが、天明3年(1783)黒田藩主の命により祭礼が復活。 黒田藩主が参勤交代の時には必ずこの神社に参拝したという。

拝殿正面には「國祖黒田大明神」「二十四騎霊神」等の扁額か掲げられている。 境内には文久2年(1862)銘の狛犬一対も安置されている。

代官所・郡屋跡 標高: 2.2m MAP 4km以内の寺社検索

黒崎宿跡(藤田銀天町のすぐそば)
黒崎宿跡(藤田銀天町のすぐそば) 
代官所跡の石碑(黒崎宿場跡のすぐ脇にある)
代官所跡の石碑(黒崎宿場跡のすぐ脇にある) 

今はわずかに石碑・案内板があるだけで、当時のものはこの少し手前の対西山 正覚寺以外は見られない。

くまで通り入口 標高: 7.7m MAP 4km以内の寺社検索

なかばし川の橋のレプリカ
なかばし川の橋のレプリカ 
くまで通り入口
くまで通り入口 
くまで通り入口付近
くまで通り入口付近 

くまで通りは現在は商店街のアーケードとなっている。 入口には長崎街道の大きな看板が設置されている。 少し手前には「なかばし川」の銘のある橋のレプリカがある。 このあたりは昔は川が流れていたのであろう。

この商店街は、左右に枝分かれしておりその先にも商店が建ち並んでいる。 (枝分かれした商店街を参照のこと。)

この商店街から北側(JR黒崎駅側)は商店街が迷路のようにある。 作者が子供の頃は、この商店街を含め、黒崎駅前の商店街は賑やかな町であったが、 近年は貸し店舗・空き店舗が増え寂しいかぎりである。

興玉神 標高: 5.8m MAP 4km以内の寺社検索

興玉神
興玉神 
興玉神前の風景 - 西構口に向って撮影
興玉神前の風景 - 西構口に向って撮影 
全景
全景 

興玉神は商店街の通りに面して鎮座されている。地元の人々の手でよく手入れが行き届いている。

善定寺 標高: 5.0m MAP 4km以内の寺社検索

善定寺は華光山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。

岡田宮参道口 標高: 2.8m MAP 4km以内の寺社検索

岡田宮はここより左に曲がってお参りする。

町家 標高: 2.3m MAP 4km以内の寺社検索

町家(日没後の撮影) - 西構口に向って撮影
町家(日没後の撮影) - 西構口に向って撮影 

現在では黒崎宿内では数少ない町家である。

西構口跡 標高: 2.8m MAP 4km以内の寺社検索

西構口跡 - 黒崎宿内から乱橋側に向かって撮影
西構口跡 - 黒崎宿内から乱橋側に向かって撮影 
西構口跡 - 乱橋側より撮影 - 写真右隅に石碑と模型
西構口跡 - 乱橋側より撮影 - 写真右隅に石碑と模型 

西構口には石碑と構口の模型が立っている。 それ以外は何の痕跡も残っていない。

乱橋 標高: 3.6m MAP 4km以内の寺社検索

乱橋
乱橋 
乱橋
乱橋 
橋のたもとの柱
橋のたもとの柱 
撥川 - 乱橋上より上流に向かって撮影
撥川 - 乱橋上より上流に向かって撮影 
撥川 - 乱橋上より下流に向かって撮影
撥川 - 乱橋上より下流に向かって撮影 
乱橋 - 乱橋西より西構口に向かって撮影
乱橋 - 乱橋西より西構口に向かって撮影 
乱橋脇にあった石碑(2020-06-29現在所在不明)
乱橋脇にあった石碑(2020-06-29現在所在不明) 

街道は乱橋を渡って木屋瀬宿に向って左にカーブする。ほどなくすると、曲里の松並木がはじまる。 橋の下の流れる川は撥川(ばちがわ)

ちなみに「撥」とは、三味線・琵琶などのイチョウの葉の形をした道具。西洋風にいえばギターのピックにあたるもの。

西方へ向う旅人はここで黒崎宿に別れを告げ、次の休憩所である立場茶屋銀杏屋、あるいは木屋瀬宿へと向った。ここから立場茶屋銀杏屋までは徐々に上り坂である。

2020-06-29、久しぶりにこの場に立ち寄った。この周辺の撥川がきれいに整備され、乱橋も朱色が基調のものに建て替えられていた。

曲里の松並木入口 標高: 8.6m MAP 4km以内の寺社検索

筑前六宿の石碑
筑前六宿の石碑 
入口付近 - 木屋瀬宿に向かって撮影
入口付近 - 木屋瀬宿に向かって撮影 
入口より少し先 - 木屋瀬宿に向かって撮影
入口より少し先 - 木屋瀬宿に向かって撮影 
入口より少し先 - 木屋瀬宿に向かって撮影
入口より少し先 - 木屋瀬宿に向かって撮影 

近年、北九州市が公園として整備した。ここから約300m松並木が緩やかな上り坂として続く。

松並木入り口の脇に北九州市の設置した案内板がある。以下に原文そのままを記す。

曲里の松並木(昭和46・2・21指定)

徳川家康による天下統一がなると、幕府は道中奉行の直轄下におく重要道路として 東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道の五街道を設けた。

五街道に準じる街道は脇街道または脇往環と呼んだが北九州市内を通っていた 長崎街道もその脇街道の一つであった。

この長崎街道は小倉を起点とし、鎖国時代ただ一つ外国に向かって開いていた日本の窓、 長崎に通じる重要な道路として五街道同様に重要視されていた。 街道筋の黒崎(くろさき)木屋瀬(こやのせ)(八幡西区)・ 飯塚(いいづか)内野(うちの)(飯塚市)・ 山家(やまえ)原田(はるだ)(筑紫野市(ちくしのし))の六宿は筑前六宿(ちくぜんむしゅく)と呼ばれ、宿場町として栄えた歴史をもっている。

江戸時代の狂歌師大田南畝(おおたなんぽ)は「坂を降るに赤土の(がけ)あり。松の並木の中をゆくゆく坂を上り下りて又坂を下りゆけば、左に黒崎の内海(洞海湾)を見ゆ。」 とその紀行文「小春紀行(こはるきこう)」に、このあたりを描写している。 この松並木は幕府が全国の街道に松や杉を植樹させた名残りで、黒崎から木屋瀬にかけて昭和20年(1945)ころまでは多くの松を残していたが、今はわずかにこのあたりが昔日の長崎街道の面影をとどめているのみである。

なお、指定範囲は旧街道緑地の一部(幅20~30m,長さ310m,面積8,000平方m)である。(北九州市)

曲里の松並木(石碑) 標高: 21.0m MAP 4km以内の寺社検索

石碑
石碑 

表面(北側)に「史蹟 古街道」。 西側の面に「八幡教■■會・黒崎史蹟保■会」。 裏面(西側)に「旧藩時代小倉 黒崎を経て肥前筑後方面を通りし街道なり」。 東側面に「昭和九年■■」。

曲里の松並木(休憩所) 標高: 19.7m MAP 4km以内の寺社検索

休憩所(左手奥に巨大な石碑が小さく写っている)
休憩所(左手奥に巨大な石碑が小さく写っている) 
「街道松」
「街道松」 
休憩所付近の街道 - 木屋瀬に向かって撮影
休憩所付近の街道 - 木屋瀬に向かって撮影 
街道から垣間見える皿倉山
街道から垣間見える皿倉山 

街道脇には屋根付きの休憩所がある。街道歩きにはありがたい。 向かって左手には巨大な石碑もある。

休憩所より街道を挟んだ所には「街道松」がある。 案内板の内容を下に記す。

江戸時代から残る「街道松」

曲里の松並木に江戸時代から残る松は、「街道松」と呼ばれ、昭和30年代に57本残っていましたが、 現在、この松を含め2本だけとなりました。

この松が、その1本で江戸時代より5つの時代を生き抜いています。

八幡西区役所

案内板に書かれているもう1本の「街道松」は未確認。

この付近には、作者が子供のころには三菱化成の社宅が多くあった。 ここに程近いところに作者が2年生まで通った、熊西(くまにし)小学校がある。

曲里の松並木(出口) 標高: 34.0m MAP 4km以内の寺社検索

平成11年、台風にて倒れ、枯死した松の根本
平成11年、台風にて倒れ、枯死した松の根本 
街道 - 松並木出口より木屋瀬宿に向かって撮影
街道 - 松並木出口より木屋瀬宿に向かって撮影 
出口 - 黒崎宿に向かって撮影
出口 - 黒崎宿に向かって撮影 

松並木の出口付近に枯死した松の根がガラス板で保護されて保存されている。

案内板によれば、平成11年(1999)9月24日の台風18号にて倒れ、枯死したものという。

幸神 標高: 40.5m MAP 4km以内の寺社検索

幸神大明神
幸神大明神 

"幸神"。おめでたい地名である。 名前の由来は分からない。 幸神大明神の中に由緒を書いた木製の板があったが、墨でかかれており 判読不能な箇所があったり、作者の国語力の無さの為、解読を断念した。

幸神大明神の道路をはさんで反対側には作者が子供の頃には相撲場があり、 たしか、夏に少年相撲大会が毎年開催されていた。 今は相撲場の跡らしき広場が残るのみである。

一里塚(幸神) 標高: 44.1m MAP 4km以内の寺社検索

一里塚跡
一里塚跡 

案内板によれば、この一里塚の小倉側の一里塚は前田村、長崎側は小嶺村にあったとある。 小嶺の一里塚跡は下で確認している。 また、長崎街道開通以前の古道(尾倉(おぐら)→平野→川頭→鳴水(なるみず)→椿山荘→ここ) と合流していたという。

この一里塚の前の通りは、作者の小学生(黒畑小学校)時代の通学路であった。

古街道碑 標高: 43.7m MAP 4km以内の寺社検索

古街道碑
古街道碑 

街道はこの坂を登り国道200号線と合流する。

割子川橋 標高: 59.2m MAP 4km以内の寺社検索

割子川橋
割子川橋 
割子川橋 - 黒崎宿に向かって撮影
割子川橋 - 黒崎宿に向かって撮影 
道路に埋め込まれた目印
道路に埋め込まれた目印 
目印前の街道 - 木屋瀬宿に向って撮影
目印前の街道 - 木屋瀬宿に向って撮影 

割子川の町は、作者が子供のころ(1960年ころ)は黒崎につぐ賑わいであった。

自転車屋・豆腐屋・酒屋・牛乳屋・薬屋・写真屋などがあった。

所用でこの道を通りかかったら右のような街道の目印がこの手前のR211よりはずれる所から 次の涼天満宮前までほぼ100mおきに設置されていた。 散策の目印にされたし。

壽量寺 標高: 65.0m MAP 4km以内の寺社検索

寺の西側の長崎街道 - 木屋瀬宿に向かって撮影
寺の西側の長崎街道 - 木屋瀬宿に向かって撮影 

壽量寺は、顯本山と号し、日蓮宗の寺院である。

上津役小学校前 標高: 69.9m MAP 4km以内の寺社検索

右手が小学校 - 黒崎宿に向かって撮影
右手が小学校 - 黒崎宿に向かって撮影 

この地点は手前の割子川から少し上り坂となり、次の涼天満宮に向かう。

蛭子神社 標高: 68.9m MAP 4km以内の寺社検索

蛭子神社前の街道 - 木屋瀬宿に向かって撮影
蛭子神社前の街道 - 木屋瀬宿に向かって撮影 

境内には観音堂がある。

涼天満宮 標高: 69.2m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 
かね掛けの松址
かね掛けの松址 
天満宮前の街道 - 木屋瀬宿に向かって撮影
天満宮前の街道 - 木屋瀬宿に向かって撮影 

黒崎宿から下ってくる長崎街道はこの先あたりで 中間(なかま)→ 遠賀川渡河→ 底井野猿田峠赤間宿に至る底井野往還赤間道と分岐する。

現代の凉天満宮前は国道R211となっており、乗用車・トラックなどの車の往来が激しい。

案内板(北九州市教育委員会)の内容を抜粋する。

神社前の道路が、旧長崎街道である。境内にあった大松の下で旅人が休憩 したので「夢想の松」、「凉み松」と呼ばれている。 今では、その松は枯れてなくなっている。 つぎのような言い伝えが残っている。

正徳年間(1711-1716)のある年、長崎の熊部新治郎という人が所用で京都に上る途中、ここで休憩し、松の枝にお金の入った荷物を掛けたことを忘れ立ち去ってしまった。 翌年新治郎が帰郷の時、再び立ち寄ったところ、荷物がそのまま残っていた。新治郎は神のおかげと感謝し、石鳥居を寄進した。 このことからこの松の木を「かね掛けの松」ともいうようになった。

地蔵菩薩下 標高: 38.8m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵堂
地蔵堂 

地蔵堂は街道の木屋瀬に向かって左側の石段を少し登ったところにある。 よく見ていないと見逃してしまう。

ここには、西法寺の住職で寺子屋を開き、子弟の育成にあたった9世道遠の墓がその子弟達によって建てられたという。 詳しくは西法寺のページを参照のこと。

蛭子神社前 標高: 35.6m MAP 4km以内の寺社検索

蛭子神社前
蛭子神社前 
蛭子神社前の街道 - 木屋瀬に向かって撮影
蛭子神社前の街道 - 木屋瀬に向かって撮影 

当神社の縁起等は不詳。分かり次第追記します。

西法寺 標高: 32.6m MAP 4km以内の寺社検索

門前の長崎街道 - 木屋瀬宿に向かって撮影
門前の長崎街道 - 木屋瀬宿に向かって撮影 

西法寺は無量山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。。 門前の案内板には元禄10年(1697)創建とある。

案内板によれば、門前には当時早馬の中継所があったという。 以下西法寺の案内板の抜粋を引用する。

ここは黒崎と木屋瀬の宿場の途中に位置し、宿屋も数軒あったようだ。 「江戸は大雪、諸国は薄雪・・・」と桜田門外の変(1860)についての住職の記録がある。 寺の向かいには早馬の中継所があったらしく、田舎の住職にもいち早く情報が届いたか。

八児地蔵 標高: 28.6m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵堂前の長崎街道 - 左手が地蔵堂
地蔵堂前の長崎街道 - 左手が地蔵堂 
地蔵堂
地蔵堂 

地蔵堂前の案内板によれば、享和2年(1802)の遠賀川往還図には、すでに、この位置に地蔵が描かれているという。

御堂内には地蔵尊が6-7体安置されている。 その中で大きな3体は素朴なお顔をされている。

町上津役橋 標高: 29.1m MAP 4km以内の寺社検索

町上津役橋(旧称お地蔵橋。左右方向の道が長崎街道。左端に地蔵堂の藤棚が見える。)
町上津役橋(旧称お地蔵橋。左右方向の道が長崎街道。左端に地蔵堂の藤棚が見える。) 

上の地蔵堂前の案内板によれば、文化元年(1804)奉幣使通行の際にはじめて架けられた。それ以前は飛び石わたりであったという。当橋の旧称は「お地蔵橋」だという。

現在架けられている橋は近代に入って架け替えられたもの。

小嶺 - 一里塚 標高: 30.5m MAP 4km以内の寺社検索

小嶺一里塚跡
小嶺一里塚跡 

国道200号線西鉄バスの小嶺バス停すぐ。黒崎側から右側。 よく探さないと見逃します。

案内板によれば、この次の一里塚は茶屋の原とある。 また、この先に石坂という急坂があったため、 両者の距離は一里より短く設定されていたという。

石坂阿弥陀如来 標高: 57.9m MAP 4km以内の寺社検索

門前の街道 - 木屋瀬宿に向って撮影
門前の街道 - 木屋瀬宿に向って撮影 

境内には寛延3年(1750)銘の興玉神のお堂がある。石坂阿弥陀如来参照のこと。

立場茶屋銀杏屋 標高: 55.9m MAP 4km以内の寺社検索

立場茶屋銀杏屋表
立場茶屋銀杏屋表 
上段の間 - 記念写真用の殿様が居る
上段の間 - 記念写真用の殿様が居る 
トイレ(小)
トイレ(小) 
トイレ(大) - 休憩した殿様がここで用をたしたという
トイレ(大) - 休憩した殿様がここで用をたしたという 
茶屋前の街道 - この先に石坂がある
茶屋前の街道 - この先に石坂がある 

国道200号線を北に進み、ここで国道から右にそれる。 銀杏屋は国道より坂道を200mほど登ったところにある。

案内板によればここは、江戸時代に参勤交代の諸大名をはじめ、長崎奉行、巡見使などが休憩 していたところという。天保7年(1836年)10月2日の火災で消失後に再度建築されたものという。

現在は、記念館として北九州市の職員と思われる人が管理し、 丁寧に説明などしてくれる。(問合せ先:093-618-1836) 作者が訪問した時にも、建物内を丁寧に案内してくれた。

案内員の話では宿泊施設はなく、単にここに上がってお茶など一服のみしたとの事。 上がれるのは殿様だけで、家来たちは表で休憩が終わるまで待っていたという。 写真のトイレはもちろん木製で現在は使用されていない。案内員に聞きそびれたが、 休憩した姫様はじめご婦人方もこのトイレを使ったのだろうか? もちろん、現代のように男子・女子用区別はなかった。

石坂 標高: 36.3m MAP 4km以内の寺社検索

石坂(途中) - 銀杏屋側より撮影
石坂(途中) - 銀杏屋側より撮影 
石坂入り口 - 銀杏屋側より撮影
石坂入り口 - 銀杏屋側より撮影 
石坂上り口 - 木屋瀬側より撮影
石坂上り口 - 木屋瀬側より撮影 

案内板(北九州師教育委員会)によれば、黒崎方面の地形は現在と異なり、小嶺インターチェンジ付近から、 山を上り、頂上から「アケ坂」という急坂を下り、さらには「中の谷」の谷底から上石坂 の急坂を登るという難所であった。このため、大名でさえも駕篭(かご)を降りて 歩いたという。

石坂波切不動明王 標高: 31.4m MAP 4km以内の寺社検索

門前の街道 - 木屋瀬宿に向って撮影
門前の街道 - 木屋瀬宿に向って撮影 

石坂波切不動明王のページを参照の事。 境内に1989年再建銘の再建碑がある。

ここより10mほど街道沿いに南下すると、石坂仏堂がある。

香徳寺 標高: 38.7m MAP 4km以内の寺社検索

香徳寺は馬場山と号し浄土宗の寺院である。

大日堂 標高: 28.9m MAP 4km以内の寺社検索

本堂
本堂 
不動明王像
不動明王像 
境内の石仏様達
境内の石仏様達 
大日堂前の街道 - 木屋瀬宿に向かって街道撮影
大日堂前の街道 - 木屋瀬宿に向かって街道撮影 

この大日堂は文禄・慶長の役の際、家康が立ち寄った所である。 詳しくはここより北東300mほどの香徳寺のページをご覧ください。

一里塚跡-茶屋の原二丁目 標高: 27.0m MAP 4km以内の寺社検索

一里塚跡
一里塚跡 
一里塚跡前の街道
一里塚跡前の街道 

以下は案内板からの抜粋である。

小嶺と茶屋の原の間は距離が1里に満たず、 六合道(ろくごうみち)と呼ばれていました。 これは、アケ坂、石坂などの険しい坂道があったことを配慮したものと思われます。 古老の話では、ここの一里塚には、松と椎の木が植えられていたと言われています。

この一里塚跡の石碑は、昭和57年に地元の郷士会によって建てられたものです。

北九州市教育委員会

『筑前國続風土記』巻之14 遠賀郡上 ○茶屋原 に茶屋の原の名の由来が記載されている。引用する。

馬場山の境内なり。 秀吉公朝鮮征伐の時、通り給ひしより立し町也。 此時秀吉公の休み玉ひし茶屋址あり。 其所は30間四方許土手を築廻せり。 是よりして町の名を茶屋の原と云。 此茶屋の跡に寛文年中(1661-1672)、村浦に在し天神の社をうつせり。

『太閤道伝説を歩く』によれば、秀吉が休んだ茶屋跡はこの地点より約400mほど東の熊野神社の鎮座する場所という。

明稲荷大明神 標高: 25.2m MAP 4km以内の寺社検索

明稲荷大明神
明稲荷大明神 
明稲荷大明神前の通り - 木屋瀬宿に向かって撮影
明稲荷大明神前の通り - 木屋瀬宿に向かって撮影 

明稲荷大明神は真名子公民館の敷地中にある。街道はゆるい下り坂を木屋瀬宿に向かって進む。

筑前國続風土記』巻之4 遠賀郡 下の記載内容

○黒崎

此地は本州の東北の端に在て、豊前小倉に近き往来の宿驛なれば、 関所を置て非常をいましめ、婦女は券契(けんけい)なくして他国へ通る事を許さず。

黒崎の古城は藤田にあり。 此城は長政公入国の後、豊前境の守御のため、築せられ、家臣井上周防之房[1]に二万石の 采地[2]を賜り。 當郡のことを司らしめて、此城を置る。

此時までは此町を黒崎とは称せず。 其比此城山の南の下に、農人の宅一区あり。 其所を黒崎と云。 是によりて城の名を黒崎と名付けるとかや。 周防此所に在城し、其家人等多く此所に宅をしめ、商売も集りて藤田、田町の南町たてり。 是よりして此所の町の號も、城の名によりて黒崎と云。

熊手町には、むかし毎月市たつける故、町の西を(しも)市と云。 東を(かみ)[3]と云。 延喜式、筑前國驛程(えきてい)の部に、浪崎と云所あり。 いにしへより此邉の町を熊手と號す。

隈崎は即此所なるが、此城元和元年(1615)に台命有りて、一國一城に成りし時破却せらる。

またむかしは大阪往来の渡海船、豊前小倉のみに在て、當國他國より上京の人、 皆小倉に行て船をかりてのれり。 近年[4]は黒崎にも亦渡海船あまた出来、此所より船にのりて上下する者多し。 其舟入は黒崎の城あとの西にあり。

くまで商店街内の枝分かれした商店街

枝分かれした商店街入口
枝分かれした商店街入口 
枝分かれした商店街入口
枝分かれした商店街入口 
枝分かれした商店街入口
枝分かれした商店街入口 
枝分かれした商店街入口
枝分かれした商店街入口 
枝分かれした商店街入口
枝分かれした商店街入口 
枝分かれした商店街入口
枝分かれした商店街入口 
枝分かれした商店街入口
枝分かれした商店街入口 
枝分かれした商店街入口
枝分かれした商店街入口 
枝分かれした商店街入口
枝分かれした商店街入口 
枝分かれした商店街入口
枝分かれした商店街入口 

くまで商店街の中の枝別れした商店街の写真。 東構口側から西構口の順に写真を掲示します。 (日没後の撮影です。)

脚注