小倉城下(旧:豊前國企救郡 現:北九州市小倉北区)
概要
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小倉は長崎街道、 唐津街道、 秋月街道、 中津街道の分岐点。 海路を除き、ほとんどの旅人たちは、ここを通って本州-九州間を行き来した。
ここより本州へは、小倉・大里・黒崎より海路で渡った。
下に小倉城天守閣脇の案内板の内容をそのまま記す。
小倉城
細川忠興は、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の功により、豊前国全域と 豊後国二郡を領する30万石(検地高39万9千石)の大名として入国、 中津城に在城した。 居城を小倉に移すため慶長7年これまでの小倉の城を廃して新しく築城 をはじめ、その年の12月、小倉城に移った。
城の中心は、天守閣のある本丸と松ノ丸、北ノ丸でこれを囲むようにして 二ノ丸、三ノ丸を配した。
天守閣の外観は五重、内部は六層(現天守閣は、四重五層)である。 これは、五重目の内部が上下二段に分かれているためで、 五重目の下段までは、白壁が塗り込まれ、上段は黒塗りで張り出しに なっている。また天守閣の屋根には、破風がなく、当時 この天守閣は、唐造りとされていた。
城のすぐ東を流れる紫川を天然の濠とし、 この川をはさんで東部に曲輪を設け、 城下町をつくった。城郭の総構えは、約8kmにもおよび、 これを濠で囲み、街道に通じる8か所の門を設けた。
寛永9年(1632)細川氏は、肥後国に移り、替わって 播磨国明石城主であった譜代大名の 小笠原忠実が小倉城に入り、15万石を領した。
第2次長州征伐戦の慶応2年(1866)8月1日、小倉藩は、 田川郡に撤退する際、小倉城に火を放ち、 場内の建物はことごとく灰じんに帰した。なお、天守閣は、 天保8年(1837)の火災で消失、以降再建されなかった。
現在の天守閣は、昭和34年(1959)鉄筋コンクリートで、再建されたものである。
経路
門司口橋 標高: 5.9m MAP 4km以内の寺社検索
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案内板によれば、現在の門司口橋は昭和31年(1956)9月竣工だが、昔も現在の位置に橋があったという。 案内板の絵図を見ると石橋だったようだ。
橋は現在はJR九州の高架橋の真下である。 橋を渡るとJRの敷地の壁に突き当たる。その突き当り辺りが門司口だったようだ。
その脇に地蔵堂があるが、安置されている地蔵菩薩は新しいもののようだ。 当地蔵堂が当時からここにあったかどうかはわからない。
門司口 標高: 4.5m MAP 4km以内の寺社検索
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右の図会をみれば、ここには立派な櫓門があり、櫓門の前後で街道は鍵型に曲がった構造をしていたようだ。 案内板によれば、小倉では最も重要な道として昼夜開門されており、番所には数人が交代で務めていたという。
ここには昭和20年(1945)台頃までは、一向山 光清寺と白雲碧水山 徳蓮寺が道を挟んで建っていたという(一向山光清寺|小倉北区富野地区の史跡等より)。 いずれも真宗大谷派の寺院である。
街道復活地点 標高: 2.9m MAP 4km以内の寺社検索
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JR九州の敷地によって埋められた街道はこの地点で復活する。
街道はこの先、焼肉屋、大広苑の角を右に直角に曲がる。
生往寺 標高: 3.1m MAP 4km以内の寺社検索
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ここには生往寺と本末関係にあった峯高寺があったが、峯高寺は江戸末期に行橋市に移転。かわりに生往寺が移転してきた。
生往寺は宝蓮山と号し、浄土宗の寺院である。 境内には宝蔵院流高田派槍術の始祖、高田又兵衛の墓がある。
西顕寺 標高: 3.1m MAP 4km以内の寺社検索
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西顕寺は瑞光山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。本堂の規模は当地区屈指のものである。
京町中央商店街入口 標高: 2.9m MAP 4km以内の寺社検索
未稿。
常磐橋 標高: 1.8m MAP 4km以内の寺社検索
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常磐橋東の橋のたもとにある案内板の内容をそのまま記す。
常磐橋の由来
常磐橋は江戸時代初め頃、小倉の城下町の東曲輪(主として町人が生活していた地域) と西曲輪(主として武士が生活していた地域)を結ぶ、重要な橋として架けられ、 当時は大橋と呼ばれていました。
この橋の西勢溜が長崎への移動の起点となっていたため橋の周辺は幕府役人や 旅人の宿などが建ち並んでにぎわっていました。
参勤交代の大名や長崎奉行をはじめ、多くの人々がこの橋を渡っています。中でも有名なのが ドイツ人医師シーボルトで、この絵を銅版画で紹介しています。
このように海と陸の玄関口として、九州の各街道のすべてがこの大橋に連なり、九州における 日本橋となっていました。
この度、川幅を広げるため橋の架け替えが必要になったのを機会に、コンクリートと同じ強さの 木材を使い、江戸時代の姿の木の橋としてよみがえることとなりました。 - 北九州市
常磐橋の当時の橋脚が橋の西のたもとにある。(写真右参照) 橋脚の案内板の内容をそのまま記す。
常磐橋の橋脚
ここにある石柱は、江戸時代後期の常磐橋を支えていた橋脚の一部です。
小倉城主、細川忠興が慶長7年(1602)紫川の東に 東曲郭(城郭)を開いた後、紫川に橋を架けました。最初は「大橋」 と呼んでいましたが、元禄5年(1692)架け替えたときに「常磐橋」としました。
文化10年(1813)洪水に耐え、腐食も防げるからとし、試しに橋脚の下半分を二種類 の石材に替えてみました。一つは濃灰色の花崗岩で、柱の直径は約 30cm足らずの細いものでした。もう一つは「いのちたび博物館」 に保存されている 直径60cm(写真参照、ここのものと同型)のものでした。両方とも「文化十酉年 為試建之 三本之内」とあります。(どちらも平成5年の河川 改修で出土)。
ここにある橋脚は昭和初期に引上げられたものです。文政5年(1822)の銘が入っていて、直径60cm、 高さは約5.7mの巨大なものでした。民間に払い下げたとき幾つかに切断され、市内数箇所に現存 しています。
建立年月が文政5年、文政10年(1827)、天保(1832)のものが残っています。 - 小倉北区役所
大門 標高: 3.1m MAP 4km以内の寺社検索
ここに門があったわけではなく、この近辺は海岸で海藻が多数打ち揚げられていたため 「大藻」と呼ばれ、それが訛って「大門」とよばれるようになったという。
妙乗寺前 標高: 2.8m MAP 4km以内の寺社検索
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妙乗寺は海宝山と号し、日蓮宗の寺院である。 岡山県以西で2番目に古い歴史を持つと云う。
安国寺前 標高: 2.9m MAP 4km以内の寺社検索
安国寺は曹洞宗寺院である。 足利尊氏直義兄弟の発願で南北朝の戦死者の供養の為に全国に60余を建立した寺院の一つという。
心光寺前 標高: 4.5m MAP 4km以内の寺社検索
心光寺は浄土宗の寺院で、現在は山門とその脇の小堂がわずかに残るのみである。
『唐津街道を行く』によれば、 心光寺は浄土宗の寺院で戦国期の小倉城主、三河守鑑種の正室武姫の菩提寺という。 歴史のある寺院である。
街道は門前を一直線に南に進む。
浄教寺 標高: 8.0m MAP 4km以内の寺社検索
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浄教寺は西岸山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。
萬徳寺 標高: 6.5m MAP 4km以内の寺社検索
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萬徳寺は枎桒山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。
寺は到津門の内側にあったようだ。小倉城の西の防衛の役割も果たしていたのだろう。
到津口跡 標高: 5.5m MAP 4km以内の寺社検索
小倉城内の出入口で、門が設置されていた。門の内側には三角形の1000坪に及ぶ勢溜があった。番所には常時数名の者が勤めていた。勢溜には、萬徳寺・西應寺のほか、明治以降廃寺となった本立寺・明照寺・見徳寺が立ち並んでいた。これは外的が侵入してきた際の砦にするためであった。 明治の地図には「筑前口」と標記されていたという。(小倉北区役所の案内板より)
現在は門・番所・勢溜などの遺構は確認できない。
清水口跡 標高: 9.2m MAP 4km以内の寺社検索
この門はあまり利用されなかったようだ。外側に土塁を築いて通行できないようにされていた。 幕末の『龍吟成夢』の中にも「開けずの御門あり、今は門なし」とある。(小倉北区役所の案内板より)
この門は、どうやらこの北側の至津口に通じるものではなく、ここから直接場内に入れる門であったようだ。
現在は門・番所・勢溜などの遺構は確認できない。
善龍寺横 標高: 10.4m MAP 4km以内の寺社検索
善龍寺は浄土真宗本願寺派の寺院。 その名の由来は戦国期の大友宗麟・龍造寺氏との戦いに由来するという。
法輪寺 標高: 18.9m MAP 4km以内の寺社検索
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法輪寺は金龍山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。 門前の道幅はほぼ当時のままのようで狭い。
大満寺 標高: 20.4m MAP 4km以内の寺社検索
大満寺は興龍山と号し曹洞宗の寺院である。
水かけ地蔵堂 標高: 20.1m MAP 4km以内の寺社検索
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水かけ地蔵堂の前の街道は2間半ほど。当時の道幅のままのようである。
地蔵堂の後は大滿寺が伽藍を構えている。
茶屋川橋 標高: 23.0m MAP 4km以内の寺社検索
未稿
極楽寺 標高: 28.1m MAP 4km以内の寺社検索
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極楽寺は西法山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。
明専寺 標高: 29.9m MAP 4km以内の寺社検索
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明専寺は三光山と号し真宗大谷派の寺院である。
荒生田の一里塚 標高: 39.5m MAP 4km以内の寺社検索
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案内板によると、「正保年間豊前六郡図」(1644年〜1648年)に「一里山 より境目まで五十間」の書き入れがあることから国境(豊前-筑前)から約90m先にあったと思われる とある。
国境石より約200m西に、高見神社がある。歴史などはわからないが、 木製の大鳥居、大規模な本殿などお寺でいえば古刹である。 是非お参りください。すごいです。
三条の国境石 標高: 42.0m MAP 4km以内の寺社検索
ここより、1区画北側の道路沿いにある。「従是西筑前国」と刻印されている。
国境石 標高: 18.4m MAP 4km以内の寺社検索
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案内板をそのまま記す。
国境石
古くから北九州市地域は、そのほぼ中央から東西に豊前国と筑前国の二つに分かれていました。
その国境線には、小倉藩と福岡藩によって建てられた国境石が多数ありましたが。現在では 13基が残っています。
ここにある国境石は二基とも上下が欠けていますが、「(従是)東豊前国小(倉領)、 (従是)西筑前国」と解読することができます。(従是)は「これより」の意味です。
豊前国の国境石は以前、八幡東区三条にあったとされていますが、筑前国のものは置かれた 場所がはっきりしません。いずれも旧八幡市役所の内庭に保存されていたのを、 昭和39年(1964)にここに移設したものです。
銘文については、豊前国が木部市左衛門、筑前国が福岡藩の裕筆、 二川相近といわれています。(北九州市教育委員会)
真照寺 標高: 17.2m MAP 4km以内の寺社検索
ここは、黒崎宿に向かってゆるやかな下り坂である。
前田の一里塚跡 標高: 17.4m MAP 4km以内の寺社検索
前田三丁目南公園の北東側の隅に記念碑が残るのみ。 脇の案内板の一部を抜粋する。
遠賀郡往還古図に「前田川の西に小川ありて、その土橋を渡りたる所に第一の塚あり」とあります。(中略)
(前略)五街道の一里塚の起点は江戸日本橋ですが、長崎街道の起点は、「豊前大里(門司区大里)に始まり、赤坂・長浜(一里塚)を経て、金田・原町・荒生田(付近一里塚)から筑前黒崎へと至る」と企救郡誌にあります。
前田の一里塚|八幡東区前田地区の史跡等によれば、実際は若干東側にあったという。
田町1丁目の案内板 標高: 3.6m MAP 4km以内の寺社検索
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街道は、国道3号線を右折し、JRの踏切を渡る。 ここには、黒崎宿にまつわる、 構口の模型・黒崎湊の常夜灯・城石村開削成就の石碑がある。
ここを過ぎると、いよいよ次の黒崎宿の東構口である。