日見宿ひみ(旧:天領日見村 現:長崎市宿町)

概要

「日見」の語源は、かつて旧暦の8月1日、八朔(はっさく)の日に峠に登り朝日を拝む習慣があったからとも、中世期、長崎に攻め入る豪族が峠の麓で火を焚き大軍勢に見せかけたからともいわれる。

島原の乱(1638)以前は島原領。乱の終結後に天領となり、長崎代官の支配下となる。

永禄11年(1568)日見峠越えの街道が開通した。それまで長崎から江戸へは、長崎港から海路向かっていた。 慶安年(1648-1652)頃より日見街道「長崎街道」が整備されはじめると、この日見峠を越えて多くの人々がこの道を往来。シーボルトや勝海舟、象やラクダまでもが、この峠を越え江戸へ向かった。(以上 ナガジン!|シャッターチャンス@長崎 今も昔も長崎の重要な交通路、日見の地 より)

ここでは、日見宿から、次の長崎の前までのルートについて記載する。

経路

日見の宿跡石碑 標高: 14.6m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

界町阿弥陀堂 標高: 27.9m MAP 4km以内の寺社検索

界町阿弥陀堂は長崎四国八十八ヶ所霊場第53番となっている。

岩這薬師堂 標高: 38.5m MAP 4km以内の寺社検索

岩這薬師堂は「歯痛観音」とも呼ばれている。長崎四国八十八ヶ所霊場第6番。

石段上り口 標高:138.4m MAP 4km以内の寺社検索

上り口には長崎街道の道標あり。

芒塚句碑 標高:178.7m MAP 4km以内の寺社検索

向井去来(1651-1704)の句碑が立っている。

表面「君か手もましるなるへし花薄(はなすすき) 去来」。 裏面「天明4甲辰年(1784)3月吉旦 発企玉渕 崎陽蕉門末流某等謹建 石工正廣」。

長崎の後興善町(現・長崎市立図書館敷地内)に生まれた。 8歳の時に父とともに京都へ移住、30歳代半ばにして芭蕉の門人となる。元禄2年(1689)に一時帰郷。長崎に蕉風俳諧を伝えた。この句碑は、去来が長崎を離れるに際し、 この地で見送りの人達に対して詠じたものを、天明4年(1784)長崎の門人達が建立したものである。

高速道の建設により日見峠側に移設された。(案内板より)

長崎街道道標 標高:225.2m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

日見峠(明治新道) 標高:237.2m MAP 4km以内の寺社検索

Google Mapではこの場所は「日見峠(明治新道)」と表示されている。

日見峠番所跡 標高:250.9m MAP 4km以内の寺社検索

この位置は不正確かもしれない。

長崎街道道標1 標高:233.6m MAP 4km以内の寺社検索

この位置は不正確かもしれない。

石橋 標高:140.3m MAP 4km以内の寺社検索

御手水地蔵堂 標高:111.8m MAP 4km以内の寺社検索

御手水地蔵堂は 長崎四国八十八ヶ所霊場第8番となっている。

出来屋敷観音堂 標高: 85.1m MAP 4km以内の寺社検索

出来屋敷観音堂は 長崎四国八十八ヶ所霊場第81番となっている。

足引観音堂 標高: 80.8m MAP 4km以内の寺社検索

足引観音堂は 長崎四国八十八ヶ所霊場第10番となっている。

本立軒 標高: 77.4m MAP 4km以内の寺社検索

本立軒は壽珖山白道院と号し、浄土宗の寺院である。長崎四国八十八ヶ所霊場第68番となっている。

本河内低部ダム 標高: 74.7m MAP 4km以内の寺社検索

本河内低部ダムは上流の本河内高部ダムと合わせて、下流の治水対策の為に造られたもの。 低部ダムは明治36年(1903)に完成、高部ダムは明治24年(1891)完成のものであったが、長崎大水害を契機に再開発されることになり、それぞれ平成25年(2013)、平成17年(2005)に完成した。(長崎県の文化財 より)

旧街道はこの地点で水没しているが、水没は低部ダムが最初に建設された明治36年頃の事と思われる。

水没した街道沿いにも諸堂があったと考えられる。 ここと、街道が復活する水神神社の間を結んだ線の南側には多数の御堂が存在する。 その中の一部は、水没時に移転されたものも含まれているのかも知れない。 下に列挙する。

山の神堂小森観音堂五島大師堂子安大師堂一ノ瀬大師堂馬頭観音堂

水神神社 標高: 44.5m MAP 4km以内の寺社検索

祭神は彌都波能賣大神(みずはのめのおおかみ)、相殿は多数。 寛永年中(1624-1644)の渋江刑部公師とその子文太夫公師により市内出来大工町に創建された。 以後、明暦年間(1655-1658)・享保4年(1719)・元文4年(1739)と3度遷座。最後に大正9年(1920)この地に遷座した。(境内の由緒書より)

拝殿の裏手に「河童石(どんく石)」がある。河童と神官との伝説である。 詳しくはNagasaki-ken's Kappa Densetuをご覧ください。

一の瀬口(蛍茶屋跡) 標高: 36.7m MAP 4km以内の寺社検索

中島川に架けられた一瀬橋(いちのせばし)を渡ると、蛍茶屋跡がある。蛍茶屋は所謂「町茶屋」で大名が泊まるあるいは休憩する場所ではなく庶民向けのものだったようだ。

一瀬橋脇の案内板の内容を下に記す。

一の瀬口は、一の瀬橋を中心とする旧日見街道の一部をいう。一の瀬橋は承応2年(1653)唐大通事陳道隆(ちんどうりゅう)(日本名 穎川藤左衛門(えがわとうざえもん)が私財を投じて架設したアーチ構造の石橋である。

橋名にローマ字で「ICHINOSEBASHI」とあるが、これは明治20年(1887)ごろ刻まれたものである。

昔は、この付近は樹林が茂り、夏は螢の名所であり、料亭があったので、いつのころからか螢茶屋と呼ばれた。

長崎を旅立つ人と、見送りの人たちとが別れを惜しんで酒を酌み交わしたのも、この地であるが、当時をしのぶ遺構は、今では、この一の瀬橋と付近の街道の一部だけとなっている。

長崎市教育委員会(平成16年10月設置)

文化文政(1804-1829)頃、甲斐田市左衛門によってこの地に旅人歓送迎の茶屋が始められたものという。(案内板より)

中川八幡神社 標高: 37.7m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

中川町地蔵堂 標高: 34.4m MAP 4km以内の寺社検索

中川町地蔵堂長崎四国八十八ヶ所霊場第77番となっている。