多久宿たく(旧:肥前国佐賀藩領 現:佐賀県多久市北多久町)

概要

牛津追分(長崎街道は直進、唐津街道は右折)
牛津追分(長崎街道は直進、唐津街道は右折) 
笹原峠(わずかに街道と思われる山道) - 厳木宿に向かって撮影
笹原峠(わずかに街道と思われる山道) - 厳木宿に向かって撮影 

多久宿は実際に宿場があったかどうかはわからない。また実際街道沿いのどの場所が「宿場」であったのかも不明。 当サイトでは中尾神社-昌福寺あたりがその中心であったと仮定する。

長崎街道牛津宿の追分から多久宿を経由して厳木宿の手前までのルートについて記載する。

経路

沖神社 標高: 3.5m MAP 4km以内の寺社検索

街道はここで左にカーブ。沖神社は右手の矢印の位置 - 多久宿に向かって撮影
街道はここで左にカーブ。沖神社は右手の矢印の位置 - 多久宿に向かって撮影 
鳥居
鳥居 
石塔・石祠群
石塔・石祠群 
「弁財天」と彫られた石塔(写真中央)
「弁財天」と彫られた石塔(写真中央) 

長崎街道の牛津追分から分岐してきた街道はここで県道332号線と合流する。

沖神社は㈱牛津蒲鉾の工場の南側にひっそりと鎮座している。 社殿は無く、石塔・石祠が横一例に並んでたっている。

牛津追分から国道207号線の高架下の前後までの道幅は当時のままのようだ。

円長寺の西 標高: 4.6m MAP 4km以内の寺社検索

円長寺全景
円長寺全景 
円長寺井樋跡(牛津川)
円長寺井樋跡(牛津川) 

街道沿いの参道口より100mほど東進すると円長寺が伽藍を構えている。円長寺は久昌山と号し臨済宗南禅寺派の寺院である。

第9世木隠値和尚は、円長寺井樋の創設者として知られている。

円長寺の西隣には大戸ヶ里大日堂[天満宮] がある。天満宮境内には高さ1m程の「南無弁才■■」(「元禄4年辛未(1691) 正月吉祥日」銘) の石碑がある。

街道はここで左にカーブする。

門前観音堂 標高: 6.4m MAP 4km以内の寺社検索

門前公民館と観音堂(右端) - 多久宿に向かって撮影
門前公民館と観音堂(右端) - 多久宿に向かって撮影 
門前観音堂脇の街道(観音堂は右端の矢印の位置)
門前観音堂脇の街道(観音堂は右端の矢印の位置) 

街道はここで門前観音堂脇の旧道を通る。

当ルートは大部分『唐津街道 肥前長崎路から時津街道へ』を参考にしているが、 地図の印刷精度では街道がこの旧道を迂回して通っているのか、直進しているのか判別ができない。 経験的には旧道が正解と思われる為当ページではそうしている。

三岳寺橋 標高: 8.0m MAP 4km以内の寺社検索

三岳寺橋東側の街道(写真左手が三岳寺橋。前方の山は天山) - 多久宿に向かって撮影
三岳寺橋東側の街道(写真左手が三岳寺橋。前方の山は天山) - 多久宿に向かって撮影 
晴気川(川の向こう側の白いガードレールに沿って街道は多久宿に向かって進む) - 三岳寺橋を渡った所より撮影
晴気川(川の向こう側の白いガードレールに沿って街道は多久宿に向かって進む) - 三岳寺橋を渡った所より撮影 

街道は晴気川に沿って北上する。この付近は晴気川の堤防の上を進む。前方には天山などの山々を拝むこことができる。 なかなかの景色である。

三岳寺は医王山と号し臨済宗南禅寺派の寺院である。

街道はここで左にカーブする。

地蔵菩薩と青面金剛 標高: 8.3m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 
街道 - 多久宿に向かって撮影
街道 - 多久宿に向かって撮影 
地蔵菩薩
地蔵菩薩 
青面金剛
青面金剛 
板碑
板碑 

街道脇に地蔵菩薩・板碑・青面金剛が立っている。

『唐津街道 肥前長崎路から時津街道へ』によれば、地蔵菩薩は天保15年(1844)、青面金剛は天保13年(1842)の銘があるという。

清浄院参道口 標高: 7.3m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 
参道途中にある大黒天と石祠
参道途中にある大黒天と石祠 

清浄院は宝樹山と号し臨済宗南禅寺派の寺院である。

金泉寺参道口 標高: 6.9m MAP 4km以内の寺社検索

門前の唐津街道(右手が参道口) - 多久宿に向かって撮影
門前の唐津街道(右手が参道口) - 多久宿に向かって撮影 
参道口に鎮座する大黒天像
参道口に鎮座する大黒天像 
金泉寺本堂
金泉寺本堂 

金泉寺の宗旨は不詳である。 寺の本堂と思しき建物は小山のほぼ頂上にある。

伊藤氏メモ元々は住職のいたお寺であり、戦時中には弾除(たまよけ)け観音として多くの人が訪れていたという。現在は住職はおらず地元地区で管理している。寺院創設は少なくとも江戸期以前のようらしいという(この項は、近在の方の話による)。()

参道口の山門脇に大黒天像が立っている。丸っこいお姿、ここより南方に直線距離で3kmほどの所を拠点にしていた砥川石工(とがわいしく)の技の流れを組む石工の手によるものかもしれない。(牛津宿周辺のスポット参照のこと。)

本堂と思しき建物の尾根伝いに東側には丹坂峠(にさかとうげ)古戦場の道標がある。龍造寺隆信 - Wikipediaによれば、永禄6年(1563)、龍造寺隆信・千葉胤連の同盟軍が有馬氏・大村氏の連合軍を破った場所とある。

大黒像・猿田彦 標高: 6.6m MAP 4km以内の寺社検索

大黒天(左)と猿田彦大神(「明治13年辰2月吉日」建立銘)
大黒天(左)と猿田彦大神(「明治13年辰2月吉日」建立銘) 
大黒天と猿田彦大神の街道 - 厳木宿に向って撮影
大黒天と猿田彦大神の街道 - 厳木宿に向って撮影 
大黒天(台座の俵には「明治」文字が刻まれているのが読み取れる)
大黒天(台座の俵には「明治」文字が刻まれているのが読み取れる) 

大黒天(台座の俵には「明治」文字が刻まれているのが読み取れる。 猿田彦大神は「明治13年(1880)辰2月吉日」建立銘あり。

この前後の街道は県道332号線となっている。 車がかなりのスピードで往来する。ご用心。

旧道口(下右原バス停) 標高: 4.8m MAP 4km以内の寺社検索

旧道口 - 厳木宿に向って撮影
旧道口 - 厳木宿に向って撮影 

ここで県道332号線から離れて、旧道に入る。

分岐点に小城町巡回バス、「下右原(しもみぎわら)バス停」がある。

ここより、400mほどの街道(大黒像まで)は、右手が山の道である。 大正・昭和の風情が残る町並みが散見される。 道幅も狭い。

街道沿いの神仏は以下に掲示しているが、民家の庭先・裏手の崖下にも、 小堂・石塔・石祠など神仏に関わるものと思われるものが多数みられる。

大石と石祠 標高: 9.2m MAP 4km以内の寺社検索

大石(写真中央。高さ1mほどか?)
大石(写真中央。高さ1mほどか?) 
小堂(弘法大師、尊名不詳の石仏、石祠2基) - 大石の真裏
小堂(弘法大師、尊名不詳の石仏、石祠2基) - 大石の真裏 
大石前の街道 - 厳木宿に向って撮影
大石前の街道 - 厳木宿に向って撮影 

街道脇に台座に乗った大石があり、その真裏に小堂がある。

小堂内には弘法大師、尊名不詳の石仏、石祠2基が祀られている。

弘法大師 標高: 8.7m MAP 4km以内の寺社検索

弘法大師(台座に「明治」という文字が彫られている)
弘法大師(台座に「明治」という文字が彫られている) 
弘法大師脇の街道(弘法大師は石垣の上)
弘法大師脇の街道(弘法大師は石垣の上) 

弘法大師像は石垣の上に鎮座。石垣の上は更地となっているがここには、 建物があったようだ。

尊像の台座に「明治」という文字が彫られている。

下右原観音堂 標高: 10.2m MAP 4km以内の寺社検索

観音堂前の街道(参道口)は右手の茅葺き屋根の先
観音堂前の街道(参道口)は右手の茅葺き屋根の先 
参道口に鎮座する恵比寿像
参道口に鎮座する恵比寿像 
下右原観音堂
下右原観音堂 
参道口の向側の民家脇の石塔と恵比寿像
参道口の向側の民家脇の石塔と恵比寿像 

観音堂は街道右手坂の上にある。

下右原観音堂の詳細は下右原観音堂参照のこと。小城新四国霊場第6番札所となっている。

参道口脇には茅葺き屋根の古民家がある。 参道口には、恵比寿像が鎮座。その向側の民家にも石塔と恵比寿像が祀られている。

恵比寿像他 標高: 10.0m MAP 4km以内の寺社検索

小堂前の街道 - 小堂を背にして撮影
小堂前の街道 - 小堂を背にして撮影 
小堂(内部には恵比寿像と「土荒神」と記された御神体が祀られている。向って右手にも3基の石塔がみられる)
小堂(内部には恵比寿像と「土荒神」と記された御神体が祀られている。向って右手にも3基の石塔がみられる) 
小堂(遠景) - 街道より撮影
小堂(遠景) - 街道より撮影 
恵比寿像 - 小堂の向いの民家前
恵比寿像 - 小堂の向いの民家前 
牛像 - 小堂の向いの空き地
牛像 - 小堂の向いの空き地 
尊名不詳の石仏
尊名不詳の石仏 

恵比寿像が祀られた小堂は街道右手の空き地の奥にある。 内部には恵比寿像と「土荒神」と記された御神体が祀られている。向って右手にも3基の石塔がみられる。

この空き地には建物が建っていたと思われる。

小堂の向い側の民家・空き地にも多くの神仏が祀られている。皆、石体である。

2mの大板碑 標高: 9.5m MAP 4km以内の寺社検索

大板碑
大板碑 
大板碑(拡大)
大板碑(拡大) 
大板碑前の街道(右手が大板碑。街道はここで左に曲がる)
大板碑前の街道(右手が大板碑。街道はここで左に曲がる) 

大板碑は街道右手にある。 巨大なものだ。 文字が読めそうで読めない。 中央の文字列は日蓮宗の寺院でよく見かけるお題目「南無妙法蓮華経」と思われるが定かではない。 建立銘なども彫り込まれていると思われるが不詳。

街道はここで左に曲がる。 この辺りは右原(みぎばる)と呼ばれていた。

大黒像 標高: 8.5m MAP 4km以内の寺社検索

大黒像全景
大黒像全景 
大構造(遠景)
大構造(遠景) 
大黒像前の風景(大豆畑のようだ) - 大黒像を背にして撮影
大黒像前の風景(大豆畑のようだ) - 大黒像を背にして撮影 
大黒像前の街道(右手に大黒像) - 厳木宿に向って撮影
大黒像前の街道(右手に大黒像) - 厳木宿に向って撮影 
裏手の池で遊ぶカモ
裏手の池で遊ぶカモ 

大黒像は礎石と蓮華座の3ヶの部分にバラバラになって置かれている。 地震・地盤の傾きなどで倒れたのだろう。

礎石には「享保庚子五年(1720)正月十八」銘が確認できる。

尊像がある所の後は溜池となっており、カモが遊んでいた。

鏡神社 標高: 6.1m MAP 4km以内の寺社検索

ニの鳥居(肥前鳥居)
ニの鳥居(肥前鳥居) 
全景(左右方向の道(県道332号線)は唐津街道)
全景(左右方向の道(県道332号線)は唐津街道) 

鏡神社は奈良時代中期(聖武天皇の御代)廷臣の武家藤原字合(うまかい)の長子、藤原広嗣をまつる。

天平12年(740)反乱をおこしたが敗れ、肥前松浦郡疊崎で自尽。 時に霊威鏡の如く光輝空中に懸り、その光がこの地を射した。 由ってその霊を祀った。

天平17年(745)勅使 真吉備朝臣(吉備真備)が社殿2宇を建立。 同19年勅符により心霊を祀る。

肥前型鳥居あり。このあたりは上右原と呼ばれていた。

赤岩窟 標高: 12.3m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 
赤岩窟
赤岩窟 
左手の小さな龕と小堂
左手の小さな龕と小堂 
赤岩窟前の街道(右手に赤岩窟) - 厳木宿に向って撮影
赤岩窟前の街道(右手に赤岩窟) - 厳木宿に向って撮影 

当岩窟は街道の右手にある。 赤岩窟境内には巨大な自然の岩をくり抜いた岩窟(地蔵・観音・2体の如来型石仏を祀る)・石祠(観音像を祀る)・小さめの自然石をくり抜いた石龕(尊名不詳の石仏を祀る)がある。

由緒などは不詳。

2基の石塔 標高: 7.5m MAP 4km以内の寺社検索

石塔
石塔 
石塔前の街道(県道332号線、石塔は写真の右端) - 厳木宿に向って撮影
石塔前の街道(県道332号線、石塔は写真の右端) - 厳木宿に向って撮影 

石塔は木の根本に隠れて注意していないと見逃してしまう。

2基共、何かの神を表すもののようだ。

大黒と石祠と題目塔 標高: 5.6m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 
大黒天・石祠
大黒天・石祠 
題目塔
題目塔 
大黒と石祠と題目塔前の街道(右手に大黒と石祠と題目塔) - 厳木宿に向って撮影
大黒と石祠と題目塔前の街道(右手に大黒と石祠と題目塔) - 厳木宿に向って撮影 

大黒と石祠と題目塔は街道の右手にある。

石祠内には僧形の石仏が刻まれている。

古賀宿-大黒像・三神像・三神神社石塔(天保14年) 標高: 7.4m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

八幡神社 標高: 21.8m MAP 4km以内の寺社検索

八幡神社の社殿は南に向いている。 社殿の先、2基の鳥居がありその先の細い道が唐津街道と交差している。 その交差点が参道口と思われる。

大平庵 標高: 19.9m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。こだわりの逸品。日本酒と生そば。大平庵参照のこと。

菩薩堂(文化13年他3体) 標高: 25.3m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

中尾神社 標高: 64.7m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

昌福寺 標高: 69.9m MAP 4km以内の寺社検索

本堂
本堂 

昌福寺は寿福山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。

寛永15年(1639)、多久邑主茂辰が小侍村にあった昌福寺前に番所を置き、その翌年、番所に移したという。

山犬原の恵比寿像 標高: 88.6m MAP 4km以内の寺社検索

街道の右側に鎮座しているようだ。

山犬原の六地蔵堂 標高: 42.8m MAP 4km以内の寺社検索

六地蔵塔は木造のお堂の中。

少貳神社 標高: 42.6m MAP 4km以内の寺社検索

ここより東方200mほどの所に鎮座。場所はこちら

番所 標高: 85.5m MAP 4km以内の寺社検索

「関所跡の石碑」(左右方向が唐津街道) - 番所天満宮の一の鳥居前
「関所跡の石碑」(左右方向が唐津街道) - 番所天満宮の一の鳥居前 
門前の唐津街道(右手に石碑)
門前の唐津街道(右手に石碑) 
番所天満宮一の鳥居と唐津街道(赤線)
番所天満宮一の鳥居と唐津街道(赤線) 
番所天満宮社殿
番所天満宮社殿 

「関所跡」の石碑脇の案内板の内容を下に記す。

番所跡

島原の乱平定後、第2代多久邑主茂辰は寛永15年(1638)初め小侍に関所を設け、この地に足軽10人を配置して通行人別を改め、また米等の藩外流出を取り締まった。

関所の長司を番頭と称し、平士1人をこれにあて、その下に昇り組、石組を置いた。

この番所は小侍の昌福寺前に設けられていたが、その翌年、現在地に関所を移し篠原の鉄砲町の剛組とともに番所を固く守った。

長司の番頭は塾をおいて地方教育にも当たっていたが、明治8年関所を廃した。この番所が現在の字名となっている。

多久市

番所跡の石碑とここから北方に厳木多久有料道路を跨いだ所に番所天満宮が鎮座。

参考:<多久物語>小侍番所 佐賀藩と唐津藩の境目守る|まちの話題|佐賀新聞ニュース|佐賀新聞LiVE

笹原峠 標高:120.7m MAP 4km以内の寺社検索

峠道道(左手が厳木宿側) - 笹原観音境内より撮影
峠道道(左手が厳木宿側) - 笹原観音境内より撮影 
峠(倒木でほとんど街道は識別できない)
峠(倒木でほとんど街道は識別できない) 
石組みがある(近年のものかどうかはわからない)
石組みがある(近年のものかどうかはわからない) 
わずかに街道と思われる - 厳木宿に向かって撮影
わずかに街道と思われる - 厳木宿に向かって撮影 
笹は少ないがあるにはある
笹は少ないがあるにはある 

峠には過去の遺物は石垣があるがそれ以外は何も確認できない。 「道」と思えば思えなくもない所が散見されるだけである。 石垣の構築年代もわからない。

作者が「峠」と思って写真撮影をした場所は『唐津街道 肥前長崎路から時津街道へ (九州文化図録撰書)』に掲載されている地点をgoogle map上にプロットして、スマホを片手に現在地を確認しながら到達した場所である。GPSの精度・作者の勘違いなどで、ひょっとしたら間違っているかも知れない。

笹原峠西 標高:110.5m MAP 4km以内の寺社検索

街道 - 厳木宿に向かって撮影
街道 - 厳木宿に向かって撮影 
街道 - 厳木宿を背にして撮影
街道 - 厳木宿を背にして撮影 
石垣跡
石垣跡 
石垣跡(木の根元に食い込んでいる)
石垣跡(木の根元に食い込んでいる) 

峠から下って来てここで、やっとこさ視界が開ける。 ここから先の街道の両側に民家が見られる。

ここにも石垣跡があるが年代等は不詳。

街道はここから更に下り、厳木宿に向かう。

ここから南西側の丘の中腹には笹原観音がある。

脚注