駒鳴峠(旧: 現:佐賀県伊万里市・唐津市の境)
概要
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駒鳴峠の登り口付近から徳須恵のルートについて記載する。
大川野側の麓の熊野権現社から駒鳴峠までの標高差が約145m(熊野権現社の標高≒16m・駒鳴峠の標高≒161m)。 沢沿いの道をほぼ直線的に登る街道のようだ。
麓→強盗岩→駒鳴峠の区間は舗装された間林が街道を縫うように走っている。 林道を通って峠まで登ると、林道脇の林の中に所々「街道」と思しきものが確認できる。 昔の人々は人馬でこの直線的な道を登った。相当きつい区間だったと思われる。
桃川宿の番所跡にある案内板には「駒鳴」は「小招」ともかくようだ。
経路
熊野神社 標高: 16.2m MAP 4km以内の寺社検索
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社殿の張り紙に下記の内容が記載されている。
天正17年(1589)岸嶽城主波多三河守社殿を再建し、崇敬特に厚かりし神社なりと云う。
明治5年(1872)村社に列せらる。 明治43年(1910)10月13日神饌幣帛料共進[1]指定となる。
広い境内である。社殿前の広場はゲートボール場となっているようだ。 広場の脇に社務所と思しき木造の建物がある。 昔懐かしい風情の建物。昭和30年(1955)代に作者が通った小学校の木造の校舎を思い出した。
ちやのもの橋 標高: 17.5m MAP 4km以内の寺社検索
街道はこの橋を渡り、左手に直角にカーブして駒鳴峠に向かう。
道標 標高: 17.0m MAP 4km以内の寺社検索
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真新しい御影石製の道標「唐津往還」が道端に立っている。
街道は松浦川の支流を左手に見ながらしばらく平坦な道を進む。
強盗岩 標高:129.2m MAP 4km以内の寺社検索
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ここににある「駒鳴峠と強盗岩」と題された案内板(昭和63年7月 大川町コミュニティ運営委員会)の後半部分を下に引用する。
駒石の前の道下に大人が10人位寝られる程の大きな岩穴があった。 今は土砂崩れがあり又道路が広く出来た為、岩穴もよく見えない様になったが、昔は此処に強盗が隠れていて、この峠を通る旅人などを襲っていたので「強盗岩」と謂われる様になった。
街道は強盗岩下側の林道の下側より境内に登り、強盗岩の裏側より一気に駒鳴峠に登っているようだ。 街道と思しき道は岩と倒木で少し登ってみたが足がおぼつかない。危険を感じ前進を断念。残念。
境内には小屋がある。仏像が安置されているものと思っていたが、清掃用具のようなものがあるだけの建物。 近年は使われていないようだった。
周辺は意外と見通しは良いが林道は峠にある果樹園の農家の車が時々通るだけの寂しい場所である。 単独行は避けたほうが良い。
この周辺は駒鳴峠も含め、Google street viewが可能。
強盗岩と駒鳴峠のルート・画像は私の自然遊歩道に詳しく書かれている。
駒鳴峠 標高:161.0m MAP 4km以内の寺社検索
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強盗岩にある「駒鳴峠と強盗岩」と題された案内板(昭和63年7月 大川町コミュニティ運営委員会)の前半部分を下に引用する。
この峠は、藩政時代から福岡の黒田候が長崎への往復をしていたのをはじめ、一般の旅人も大川野から北波多を通り唐津に行くのにはこの道より他は無かった。
鎮西八郎為朝(1150年頃)が、黒髪山に居た大蛇を退治してその鱗を馬に背負わせてこの坂を登った。 馬の荷が重い上に道が険しい為とうとう涙を流して啼き出した。
それで「駒鳴峠」という様になったと言い伝えられています。
峠周辺は果樹園となっており、見通しは良好。但し、麓の景色は見えない。
この大蛇退治の詳細は西光密寺のページをご覧ください。
道標(岸岳城跡・岸岳古窯跡) 標高: 26.9m MAP 4km以内の寺社検索
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真新しい御影石製の道標「唐津往還」が道端に立っている。
街道は松浦川の支流を左手に見ながらしばらく平坦な道を進む。
波多八幡神社 標高: 10.1m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為未稿。
六地蔵塔 標高: 9.9m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為未稿。
心月尼の墓 標高: 9.2m MAP 4km以内の寺社検索
心月尼は波多三河守の前正室。俗名、円子姫。龍造寺氏の政略結婚の為波多家を追われた。 その時出家して、心月寺の前身の庵を結んだ。
徳須恵に向かって左手の集落内にあるはず。未確認。