伊万里いまり(旧:肥前国松浦郡伊万里村 現:佐賀県伊万里市)

概要

伊万里川
伊万里川 
川端の掲示されている古地図(と思われる)
川端の掲示されている古地図(と思われる) 
伊萬里神社社殿
伊萬里神社社殿 
伊萬里神社楼門
伊萬里神社楼門 

「伊万里」の地名の由来は、紀飯麻呂(きのいいまろ)の伝説と条里制のふたつの説があるが、どちらも確証はないという[1]。 中世以前の当地の状況については、作者はよくわからない。 以下に作者がわかる断片的な事実関係のみ列挙する。

  • 伊萬里神社は香橘神社(こうきつじんじゃ)戸渡嶋神社(ととしまじんじゃ)岩栗神社(いわくりじんじゃ)が合祀され昭和37年(1962)に成立した。このうち、香橘神社は社伝では垂仁天皇の代に起源がある。[2]
  • 圓通寺は至徳年間(1384-1386)の創建。

伊万里焼は、有田(佐賀県有田町)を中心とする肥前国(現代の佐賀県および長崎県)で生産された磁器の総称。 製品の主な積み出し港が伊万里であったことから、消費地では「伊万里焼」と呼ばれた。 有田の製品のほか、三川内焼波佐見焼なども含む。 佐賀藩(鍋島藩)の藩祖鍋島直茂が豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592-1598)に参加したことをきっかけに、朝鮮から多くの陶工が拉致・亡命などにより佐賀へ渡った。これらの陶工によって有田における磁器製造が開始された。[3]

近世以降の伊万里はこの「伊万里焼」の流通拠点として発展したものと思われる。

伊万里より徳須恵の手前までのルートについて記載する予定である。

経路

本町 標高: 6.5m MAP 4km以内の寺社検索

商家
商家 
商家
商家 
古美術 肥前屋
古美術 肥前屋 
古美術 肥前屋
古美術 肥前屋 
石見屋呉服店
石見屋呉服店 
石見屋呉服店の看板
石見屋呉服店の看板 

有田川沿いに設置されている古地図と思われるものによれば、昔はこの辺りは西から順に本下町・中下町・上下町と呼ばれていたようである。

本下町の有田川の相生橋のたもとには、伊万里津積み出し場があった。 肥前で焼かれた磁器はここから全国・ヨーロッパなどへ運びだされたようである。(伊万里津積み出し場跡の案内板より)

仲町 標高: 6.6m MAP 4km以内の寺社検索

北古賀金物本店
北古賀金物本店 
実相山北古賀金物本店の看板
実相山北古賀金物本店の看板 
北古賀金物本店前の街道 - 西に向かって撮影
北古賀金物本店前の街道 - 西に向かって撮影 
観音堂前の街道(右手が観音堂) - 西に向かって撮影
観音堂前の街道(右手が観音堂) - 西に向かって撮影 

有田川沿いに設置されている古地図と思われるものによれば、昔はこの辺りは仲町と呼ばれていたようである。

街道沿いには仲町観音堂がある。 御堂内は多数の繭玉・さげもんで飾られている。

東新町 標高: 6.7m MAP 4km以内の寺社検索

書店
書店 
書店前の街道 - 西に向かって撮影
書店前の街道 - 西に向かって撮影 
御菓子 いづもや
御菓子 いづもや 
御菓子 いづもや前の街道 - 西に向かって撮影
御菓子 いづもや前の街道 - 西に向かって撮影 

このあたりも、昔ながらの町並みが続く。

伊万里玉屋跡 標高: 8.4m MAP 4km以内の寺社検索

伊万里玉屋跡裏手の街道 - 西に向かって撮影
伊万里玉屋跡裏手の街道 - 西に向かって撮影 
伊万里玉屋跡裏手の街道 - 東に向かって撮影
伊万里玉屋跡裏手の街道 - 東に向かって撮影 
伊万里玉屋跡 - 岩栗橋より撮影
伊万里玉屋跡 - 岩栗橋より撮影 

伊万里玉屋は1966年に佐世保玉屋の支店として開店。 地上5階建ての店舗であったが2016年1月末に閉店した。

岩栗橋西 標高: 6.8m MAP 4km以内の寺社検索

岩栗橋(前方の白い建物は伊万里玉屋跡) - 西に向かって撮影
岩栗橋(前方の白い建物は伊万里玉屋跡) - 西に向かって撮影 

追分 標高: 8.3m MAP 4km以内の寺社検索

追分
追分 

街道をここで左に曲がれば徳須恵方面、直進すれば桃川宿方面となる。

参考:追分|桃川宿[唐津街道_佐賀長崎路]

地蔵橋 標高: 7.7m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵堂前の街道 - 徳須恵に向って撮影
地蔵堂前の街道 - 徳須恵に向って撮影 
地蔵橋
地蔵橋 
地蔵堂
地蔵堂 

街道はここで、地蔵橋を渡る。

地蔵橋は昭和10年(1935)3月竣工。

橋の手前に地蔵堂が立っている。

山ノ神神社 標高: 10.0m MAP 4km以内の寺社検索

山ノ神神社(正面の丘の上と思われる )
山ノ神神社(正面の丘の上と思われる ) 
山ノ神神社前の街道 - 徳須恵に向って撮影
山ノ神神社前の街道 - 徳須恵に向って撮影 

山ノ神神社は街道の左手の民家の裏の丘の上に鎮座していると思われる。

丘の上迄、手すりの設置された坂道があるのが見えるが、坂道の入口は民家の中。 参拝を断念。

白野の地蔵菩薩 標高: 10.3m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵菩薩
地蔵菩薩 
地蔵菩薩前の街道(地蔵菩薩は赤矢印の先) - 徳須恵に向って撮影
地蔵菩薩前の街道(地蔵菩薩は赤矢印の先) - 徳須恵に向って撮影 

街道はこの地蔵菩薩の前の橋を渡る。

英彦山十三塚社 標高: 25.1m MAP 4km以内の寺社検索

英彦山十三塚社前の街道(左手が英彦山十三塚社) - 徳須恵に向って撮影
英彦山十三塚社前の街道(左手が英彦山十三塚社) - 徳須恵に向って撮影 
全景(前後方向の道が唐津街道)
全景(前後方向の道が唐津街道) 
全景
全景 
「英彦山十三塚」石祠
「英彦山十三塚」石祠 
「大神宮」碑(左)と「天照皇大神宮」碑
「大神宮」碑(左)と「天照皇大神宮」碑 
13本の標石(皆「十三塚」と刻まれている)
13本の標石(皆「十三塚」と刻まれている) 
十三塚神社
十三塚神社 

境内の案内板の内容を下に記す。

十三塚神社

由来は宝暦5年(1755)、稲が凶作のため五穀豊穣を祈願し、英彦山十三塚神を祀ったことによる。 地元では権現(ごんげん)さんといい12月13日に祭りを行う。

伝説では、池ノ峠の大蛇が人々に迷惑をかけたので、杵島郡御所(武雄市川古)に住む鎮西八郎(源為朝(みなもとのためとも))が矢吹谷で射止めたという。

大蛇を13に解体した所を皮はぎ谷、埋めた所は(かん)の森(神の森)、太刀を洗った川は大刀洗川と呼ばれた。

冠の森には13の塚があったが、田圃(たんぼ)のため削られてしまったことから、昭和11年(1936)12月、白野婦人会は塚のあった場所に13基の標石を建てた。

昭和59年(1984)5月に標石は十三塚碑として十三塚神社に合祀された。

境内には、英彦山十三塚神の石祠の左側に天照皇大神宮、大神宮碑、猿田彦大神碑、 右側に十三塚扉が祀られている。

平成31年(2019)2月 大坪地区まちづくり運営協議会 文化活動部会

この場所が「冠の森」ということのようだ。この下に大蛇が眠っているのだろう。

冨田神社 標高: 43.4m MAP 4km以内の寺社検索

参道口(前方の看板の所)前の街道 - 徳須恵に向って撮影
参道口(前方の看板の所)前の街道 - 徳須恵に向って撮影 
奉納された願い事が書かれた「願い刀」(ピンぼけすみません)
奉納された願い事が書かれた「願い刀」(ピンぼけすみません) 
宝くじ当選の掲示
宝くじ当選の掲示 
「ご自由に上がってお参り下さい」(ありがたい) - 社殿正面の扉
「ご自由に上がってお参り下さい」(ありがたい) - 社殿正面の扉 
社殿(逆光すみません)
社殿(逆光すみません) 
富田神社集会所 - 社殿前
富田神社集会所 - 社殿前 
地蔵堂 - 富田神社参道途中
地蔵堂 - 富田神社参道途中 
地蔵菩薩
地蔵菩薩 

唐津藩の庄屋であった冨田才治は虹ノ松原一揆(1771)の首謀者で一揆は成功したものの唐津藩の取り調べが厳しくなり、最終的に首を差し出し西の浜で処刑された。後に、住民達で冨田神社を建立し冨田才治の遺髪が収められた。

宝くじ当選・金運・開運・頭首等病治癒等の御利益を頂ける。 (以上冨田神社(伊万里市)より)

富田神社は唐津街道沿いにある参道口より、参道の両脇に建てられた幟旗をたよりに100m程登った所に鎮座。

社殿前には「ご自由に上がってお参り下さい」との掲示。ありがたい。

社殿内の両脇には多数、宝くじ当選報告の掲示が見られる。 神殿の前には願い事が書き留められた木製の刀の形をした「願い刀」が多数奉納されている。

富田神社の参道途中には地蔵堂がある。

街道はこの参道口の前で右に曲がる。

金刀比羅宮 標高: 46.3m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 
神殿
神殿 
参道
参道 
鳥居(「前造立明治11年(1878)9月」銘)
鳥居(「前造立明治11年(1878)9月」銘) 
参道口
参道口 
鳥居前の参道
鳥居前の参道 

当社の縁起等は不詳。分かり次第追記します。

当社の前後の街道上には民家が建っている。 従って正確な街道は辿れない。 地図をご覧ください。

当社は民家の裏山に鎮座。現在は民家の間に参道口がある。 そこから10mほど進み、左折すると鳥居が見える。

鳥居からは、ちょっとした山登りとなる。 参道はつづら折りの形状で、真冬にも関わらず、社殿まで登るのに一汗かく。

境内には拝殿はなく、石灯籠と石造りの神殿があるのみである。

天照皇太神宮 標高: 27.7m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為未稿。

自然石梵字板(3基) 標高: 26.6m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為未稿。

自然石大神宮板石碑 標高: 29.0m MAP 4km以内の寺社検索

自然石大神宮板石碑(建立銘などは確認できない)
自然石大神宮板石碑(建立銘などは確認できない) 
自然石大神宮板石碑前の街道(左側が徳須恵方向)
自然石大神宮板石碑前の街道(左側が徳須恵方向) 
遠景(赤丸内に自然石大神宮板石碑) - 唐津街道より撮影
遠景(赤丸内に自然石大神宮板石碑) - 唐津街道より撮影 
参道口
参道口 

当板石碑は街道から少し離れた所に立っている。

建立銘などは確認できない。

唯法寺 標高: 19.8m MAP 4km以内の寺社検索

唯法寺は実相山と号し真宗大谷派の寺院である。

唯法寺の門前から30mほどの街道は畑の中を通っており、現在は消滅している。迂回が必要。

水留地蔵堂 標高: 22.7m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵堂
地蔵堂 
地蔵堂前の唐津街道(左手が地蔵堂) - 徳須恵に向かって撮影
地蔵堂前の唐津街道(左手が地蔵堂) - 徳須恵に向かって撮影 

御堂前の前後の街道の道幅は、昔のままのようだ。 水留地蔵堂参照のこと。

地蔵堂 標高: 23.5m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為未稿。

観音像 標高: 26.9m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為未稿。

天満神社 標高: 14.2m MAP 4km以内の寺社検索

社殿(左)と通夜堂
社殿(左)と通夜堂 
僧形の石仏と石灯籠(文政7年銘) - 参道口脇
僧形の石仏と石灯籠(文政7年銘) - 参道口脇 
通夜堂に掛けられた多数の絵馬
通夜堂に掛けられた多数の絵馬 
通夜堂に掛けられた多数の絵馬
通夜堂に掛けられた多数の絵馬 
通夜堂に掛けられた多数の絵馬
通夜堂に掛けられた多数の絵馬 
参道 - 境内より撮影
参道 - 境内より撮影 
参道
参道 
天満神社の森(写真右手)
天満神社の森(写真右手) 
参道口前の- 徳須恵に向かって撮影
参道口前の- 徳須恵に向かって撮影 

参道口は街道脇にある。 そこには、僧形石仏と文政7年(1824)銘の石灯籠がある。

長い参道は田の中を通っている。 鳥居は3基あり、最初のものはかなり低い。

社殿の脇には大きな通夜堂があり、多数の絵馬が掛けられている。

薬師堂 標高: 24.5m MAP 4km以内の寺社検索

薬師堂
薬師堂 
薬師堂前の唐津街道 - 徳須恵宿に向かって撮影
薬師堂前の唐津街道 - 徳須恵宿に向かって撮影 

薬師堂前の街道のすぐ東側には徳須恵川が平行して流れている。この川はこの先下って松浦川と合流する。

瑞巌寺跡参道口 標高: 10.9m MAP 4km以内の寺社検索

門前の唐津街道(瑞巌寺跡の参道口は左手の白いガードレールが途切れた所) - 徳須恵に向かって撮影
門前の唐津街道(瑞巌寺跡の参道口は左手の白いガードレールが途切れた所) - 徳須恵に向かって撮影 
石塔群
石塔群 

瑞巌寺は竜谷山と号し禅宗寺院であった。

波多氏代々の菩提寺。 朝鮮出陣の時に波多親(はたちかし)は秀吉より改易され廃寺となった。 境内には石塔群がみられる。

えびす像 標高: 7.9m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為未稿。

脚注