姪浜宿(旧:筑前国早良郡姪浜村 現:福岡市西区姪の浜)
概要
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姪浜は大型商港姪浜浦に接し、商船で栄えた商人町と、 漁業で栄えた漁師町、それに宿場町が雑居し「姪浜千軒」といわれ繁栄していた。
長崎警備の福岡藩、参勤交代の時の唐津藩の大名行列、幕府の要人などの多数の旅人が往来した。
製塩も盛んで良質の姪浜塩は高級品であったと言う。
『筑前國続風土記』巻之20 早良郡上 ○姪浜 の項に下記の内容の記述がある。そのまま引用する。 ふりがな、段落は作者が挿入した。
昔袙の濱と云しとかや。 八幡記に、神功皇后三韓を退治し給ひて御帰の時、 12月4日、此所に着給ひて、袙の御衣を干給ひけるによりて、 袙の濱と號すと云。
何の頃より姪濱と云来しにや。 今は丸隈山と中隈山の間の濱を袙濱と云。 是神功皇后より上らせ給と云。
村より爰に道筋有。 凡姪濱は福岡博多の外、國中第一の廣邑にて、 町廣く人家多し。 北条家鎌倉の執権の時は、筑前に探題職を置、 鷲尾山則其居城成しかば、 此邉は則國の府の邑にて繁榮せしとかや。
此所北に山五有。 東を浦山と云。 是鷲尾山[1]と云。 宗祇の筑紫紀行にも、この浦山の景色を譽めたり。 浦山の西に山有。
上に城址有。興雲寺山と云。 是渋川探題の城也と云。 後は斯波左京太夫住せり。 上に毘沙門堂あり。
其西なる山を丸隈山と云。 丸隈山と中隈山との間の濱、古より土手有。 其西に小戸山有。 中隈山に並て海邊也。 中隈と小戸の間をおはまと云。
小戸の西を妙現崎[2]と云。 則妙現の社[3]有。 此地平なる岩也。 百合若大臣の馬の足型と土民の稱するくぼりたる所多し。
妙現の西の濱をくすの濱と云。 生の松原に續けり。 此三の濱共に蒙古を防し石塁今に残れり。 町の北を廻れる川を長柄川と云。源なし。
姪濱の町より南に隈山有。五島山有。
姪濱の内に凡寺17區あり。 その内眞言2、天台1、禪宗10、浄土宗1、眞宗3有。 神社5區、叢祠18宇有。
時代は『筑前国続風土記』より100年余降るが、『筑前国続風土記拾遺』巻之43 早良郡 上 姪濱村(并浦)に当時の賑わいの様子がよく描かれている。
民居は本村(上野間町 下野間町 宮前 北小路 新町 三ヶ町 魚町 當方町[4] 旦過町 畠町 弥丸町 西町 又浦分に東網屋 西網屋ノ都合14丁あり。) 愛宕下(元禄14年(1691)始て民家建)岳山(此処の人家は尤古し。今は纔に2戸あり。)等なり。
廣村(東西6町南北4町)にして商農工商漁夫雑居して生産豊賑にして西郡の咽喉なり。
城下より肥前國長崎平戸唐津等にいたる宿驛(福岡魚町の四辻に至て1里9町志摩郡今宿驛に至て1里11町あり。) にして國君の行館あり。 又海辺には舩入ありて常に旅商の舩絶ることなし。
村の四辺に東より西に連りて小山あり。 所謂浦山(即愛宕山なり。)興雲寺山(浦山の西に續く)丸隈山道場山とも云。 中隈山小戸山あり。(以上海辺なり。) 南に隈山(今興徳寺山といふ。)五塔山(以上は田間にあり。又茶臼山百坊山ほとけ山等あり。)
袙濱の名ハ丸隈山と中隈山との間にあり。今ハアクマ濱といふ。(宗像社古縁起に皇后御帰坐之時2月4日筑前國早良郡姪濱仁着給。御衣裳を干されし所を袙と申。八幡愚童記にハ12月4日に着給ひ袙云々。とあり。) 又男濱(中隈と小戸との間)木津濱古湊(小戸山と妙見との間也)なと濱辺に在。
村の東に室見川あり。西に長柄川十郎川あり。(後略)
筑前名所図会
『筑前名所図会』 | 『筑前名所図会』 |
右の名所図絵は左右が連続して描かれている。 東構口の手前には万正寺が描かれている。
海晏山 興徳寺の後方に立つ煙は石炭が燃えているものである。 西構口の様子もよく描かれている。
経路
愛宕神社 標高: 3.9m MAP 4km以内の寺社検索
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室見橋を渡った旅人はこの愛宕神社に参拝し、唐津方面への旅の無事を祈ったことであろう。
現在のこの街道付近は国道202号線が走り、車の往来が激しい。
右の『筑前名所図会』では、室見橋、愛宕神社の位置関係がほぼ現在のまま描かれている。
蛇岩 標高: 4.1m MAP 4km以内の寺社検索
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愛宕神社・観音寺参道の石段脇にある。 愛宕山はその昔は砂岩でできた海の中の島であった。 海に侵食された跡のようである。 『筑前名所図絵』(1800年前半)では、このあたりはすでに陸地のようである。 『福岡市政だより』付西区版によると蛇岩にまつわる悲しい恋愛物語が残っているという。
昔、室見川沿にある竹浜村と宝来村が愛宕山を挟んで対立していました。 互いの村では縁組も厳しくいさめられていました。
ある日、竹浜村の娘がヒメユリを探していると、 そこに宝来村の若者がイノシシを追ってやってきましたが、 勢い余って谷に落ちてしまいました。 娘は若者を介抱し、二人は恋仲になりました。 しかし、このことが村人に知られ、二人はす巻にされて海に投げ込まれてしまいます。
その後若者と娘は海中でヘビになり、 夜になるとその二匹のヘビがここに遊びに来て、 それが岩になったといわれています。
東構口跡 標高: 3.8m MAP 4km以内の寺社検索
『筑前名所図会』を見ると立派な練塀が描かれているが、碑文など何も残っていない。 道路をへだてたところに万正寺を残すのみである。
石城戸邸 標高: 3.3m MAP 4km以内の寺社検索
石城戸邸の案内板によれば、このあたりは新町という町名であったという。 石城戸邸のすぐ西側は白毫禅寺の山門である。
マイヅル味噌蔵・姪浜宿案内所 標高: 3.1m MAP 4km以内の寺社検索
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マイヅル味噌蔵の建物は1863年築のものという。 その西隣の窯蔵(パン屋)では「みそメロンパン」が人気があるとか。 お店に入ると味噌の香りがプーン。作者も購入して食べてみたが味噌の味はほとんどなく、甘さを控えたおいしい味であった。
味噌蔵の東隣は唐津街道姪浜まちづくり協議会の案内所となっている。
宿場内の要所には同組織によって旧町名の案内札が設置されている。散策する人の手助けになる。感謝感謝。
住吉神社 標高: 2.7m MAP 4km以内の寺社検索
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住吉神社は天平15年(743)9月29日の夜半、住吉明神のご出現があり、翌年4月13日にも異国船来襲の調伏祈願の折にご出現され、このため一宇の小社を建立し住吉三神をお祭りしたことにはじまる。(ホームページより)
制札所・人馬継所などがあったと言う。
まだ商家などが点在し当時の雰囲気を残している。
法蔵院 標高: 2.1m MAP 4km以内の寺社検索
法蔵院の付近には、大名が宿泊するときの本陣となる御茶屋があったという。
照林寺 標高: 2.1m MAP 4km以内の寺社検索
照林寺は寶珠山と号し、臨済宗大徳寺派の寺院である。
袙濱延命地蔵尊 標高: 2.3m MAP 4km以内の寺社検索
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袙濱延命地蔵尊の少し手前には古い商家(森住邸)がみられる。
西構口跡 標高: 2.5m MAP 4km以内の寺社検索
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唐津に向かって右側に町屋風の建物がある。そのすぐ先で明治通りと合流する。 写真の石は、合流地点の道脇にある。
ここのR202(明治通り)を跨いだ南側には海晏山 興徳寺が伽藍を構えている。 ここより街道はR202と合流し、名柄川に架かる興徳寺橋を渡る。
興徳寺橋 標高: 2.7m MAP 4km以内の寺社検索
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街道はここで名柄川を渡る。 興徳寺橋の東側の親柱脇には庚申塔が建てられている。
興徳寺は海晏山と号し、臨済宗大徳寺派の寺院である。 この橋より、国道202号線(通称:明治通り)沿いに100mほど東進した所に伽藍を構えている。
小戸大神宮参道口 標高: 3.8m MAP 4km以内の寺社検索
『筑前名所図会』 | ![]() |
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小戸大神宮はここより北方1km足らずの位置に鎮座。 ここより大神宮迄の間は宅地開発が進んでおり、当時の参道は消失している。
大神宮は、昔の規模はもっと大きなものであったと思われる。 安正4年(1857)銘の鳥居のみが、当時の面影を残している。
現在大神宮周辺は小戸公園となっている。
壱岐神社 標高: 5.3m MAP 4km以内の寺社検索
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旧国道202号線に沿ってきた街道は、壱岐神社の参道との交差点で今宿に向かって直角に右折する。 当時の旅人はこの辺より右手におだやかな博多湾・左手に松原を見て唐津に向かったのであろう。
ここより東約600mほどの海岸沿には、元寇防塁跡の石組が残っている。
『筑前國続風土記』巻之20 生の社の項の末尾に「此社と逆松との間に、秀吉公文禄元年(1593)朝鮮征伐の為、肥前名護屋に至り給ふ時、休ませ賜ひし茶店の址有。此神異国退治に陪従有し故、その吉例を思ひ出て、御祈願有しと云。」とある。 今となってはその茶店の跡を探すことは困難だろう。
薬水 標高: 12.4m MAP 4km以内の寺社検索
『筑前国続風土記拾遺』巻之48 志摩郡 上 青木村 長垂山の項に「七寺川より以東小濱に至る迠の山の惣名なり。 大刀洗川(常には水なし。)薬水(井筒径1尺5寸)はその間の道筋にあり。往還の眺望誠に佳境なり。(以下略)」 とある。
ここで、"大刀洗川"とは、長垂山の東山裾を流れる小川のこと。 少し乱暴ではあるが、当時の街道はその前後のルートは消失してしまっているが、薬水の前を通過していたのであろう。 薬水参照のこと。
街道はこの先しばらく消失している。 『筑前國続風土記』巻之23志摩郡の項にその消失した所あたりと思しき記述が見える。
○長垂山
(前略)今は海に近き山の側を通路とす。北望千里海濱 の佳景異なる地也。 近代乱世の時節は、此山に盗賊多く隠れ居て、道行人を悩しけるとかや。 其時節盗賊の切たる太刀を流し所迚、大刀洗川と云谷川有り。小流也。 近年は太平日久敷して、山に緑林絶、憂へ恐るべき事なし。 (攻略)
街道はこの先は今宿に向う。