前原宿まいばる(旧:筑前国志摩郡前原村 現:福岡市西区前原)

概要

陶磁器 辰美屋さん
陶磁器 辰美屋さん 
前原宿入口付近の街灯の看板
前原宿入口付近の街灯の看板 
陶磁器 辰美屋さん前のタヌキ
陶磁器 辰美屋さん前のタヌキ 

前原宿は筑前国の一番西端の宿で、この先(西)の多久川を渡ると、天領・怡土郡中津領である。 その為、ここには国への出入りを厳しくチェックする番所が設置されていたという。

他に筑前国で番所が設置されていた宿場は、ここと、 長崎街道黒崎宿長崎街道原田宿の三箇所であった。

筑前国続風土記拾遺』巻之50 志摩郡下に下記の記載がある。

民居四所町(上中下) 筒井原 新屋敷 尾頭(おとう)(承應2年開発枝郷にて別免なり。)

宿驛(怡土郡中津深江に通)にて國君の行館及番所在。 (昔の本村ハ舞岳山の麓にあり。慶長の比迄ハ路傍に人家なくして今の駅西に松原ある所にて傳馬せしと云。 貞享年中移居せり。安永年中迄ハ本村跡にも人家4戸有しか、近年は絶てなし。)

村北に川一流有。 和泉川(一名砂魚川)といふ。新田村にさかへ(境)り。

ここでは前原(まいばる)宿より次の深江宿の手前までをご紹介する。

経路

前原宿入口 標高: 11.8m MAP 4km以内の寺社検索

前原宿入り口
前原宿入り口 

ここから国道202号線を右にそれ、前原宿に入る。500mほど宿場が続く。

錦屋町茶屋前 標高: 12.7m MAP 4km以内の寺社検索

錦屋町茶屋
錦屋町茶屋 
錦屋町茶屋前の街道 - 唐津方面に向かって撮影
錦屋町茶屋前の街道 - 唐津方面に向かって撮影 

ここは脇本陣であったと言われている。本陣は少し北側の法林寺あたりにあったと言われている。

法林寺参道口 標高: 13.9m MAP 4km以内の寺社検索

陶磁器 辰美屋さん
陶磁器 辰美屋さん 
陶磁器 辰美屋さん前の街道 - 唐津に向かって撮影
陶磁器 辰美屋さん前の街道 - 唐津に向かって撮影 

右側の路地を入ったところに舞岳山 法林寺が伽藍を構えている。 ここには、当時は本陣があったという。

法林寺入口の路地の街道沿には、陶磁器を売っている辰美屋さんがある。 店の建物・看板はかなりの年代ものである。 店前のおどけた顔のタヌキの置物の脇には立て札が立っており 「伊能忠敬宿泊地 文化9年(1812)8月10日 町茶屋作左衛門」と記されている。

人馬継所跡 標高: 13.2m MAP 4km以内の寺社検索

人馬継所跡
人馬継所跡 

ここは脇本陣であったと言われている。

郡屋跡 標高: 11.0m MAP 4km以内の寺社検索

郡屋の看板
郡屋の看板 

看板は唐津に向かって右側の民家の前にある。 この付近に郡屋があったのであろうか?

追分石 標高: 10.1m MAP 4km以内の寺社検索

追分石 - 唐津に向かって撮影
追分石 - 唐津に向かって撮影 
追分石 - 裏の銘(明治41年3月と読める)
追分石 - 裏の銘(明治41年3月と読める) 
追分石(右舩越港道、芥屋大門山道)
追分石(右舩越港道、芥屋大門山道) 
裏の銘(左加布里、唐津道)
裏の銘(左加布里、唐津道) 

石の銘に明治41年とあり、明治期に建て替えられたと考えられる。

「左加布里 唐津道」「右芥屋大門参道 舩越港道」

筑肥線踏切 標高: 6.2m MAP 4km以内の寺社検索

筑肥線踏切 - 波多江宿に向かって撮影
筑肥線踏切 - 波多江宿に向かって撮影 

前原宿を出てしばらく国道202号線を行くと筒井町西交差点より左にそれる。 そこより道幅が狭くなり踏切となる。

国境石 標高: 6.2m MAP 4km以内の寺社検索

国境石(遠景)
国境石(遠景) 
国境石(東南側)
国境石(東南側) 
国境石(南西側)
国境石(南西側) 
国境石(南東側)
国境石(南東側) 
国境石(北東側)
国境石(北東側) 
荻浦神社
荻浦神社 

街道より波多江宿に向かってこの交差点を左に20mほど行くと巨大な国境石がある。 東南向「是従川中央東北福岡領」北東向「文政元年(1829)戌寅九月建立」南西向「志摩郡荻浦村抱」の銘がある。 また、南東側にはびっしりと文字が刻まれている。漢文が読めない作者には判読不能である。

筑前国続風土記拾遺』巻之50 志摩郡 下に下記の記載がある。

荻浦村

民居三所本村 神の松 井樋堰なり。 村西は小川(多久川末)を隔て中津領神有村に隣れり。 此川水の末井樋堰の邉にて西海にいる。 (文政6年海上疆境の論起り公裁ありて新に海上に榜示を建て表とす。其末の榜荻浦神有井公料岩本三村三領の境とす。 此榜ハ旧来一番杭と号す。)

上の"榜示(ぼうじ)とは境界を示す目印のことである。 この榜示が現在ここに立っている石そのものを指すのかどうかは作者はわからない。 また石の"川中央"の川は多久川のことであろう。

この石の向いには荻浦神社が鎮座している。

旧多久川橋 標高: 4.8m MAP 4km以内の寺社検索

荻浦橋
荻浦橋 
荻浦橋 - 上流から撮影(正面に可也山が見える)
荻浦橋 - 上流から撮影(正面に可也山が見える) 
多久川橋の遺構 - 糸島市人権センターの庭にて
多久川橋の遺構 - 糸島市人権センターの庭にて 
多久川橋の遺構 - 糸島市人権センターの庭にて
多久川橋の遺構 - 糸島市人権センターの庭にて 

多久川の西は、天領・怡土郡中津領である。その先には対馬領もあり、この付近は国境が入り組んでいる。

作者の推測であるが、この地点( 現在は荻浦橋(おぎのうらばし)が架かっている)に多久川橋が架かっていたのではないか? 旧多久川橋の遺構は前原宿の東口付近にある糸島市人権センターの庭にある。 橋は石橋で幅3m長さ10mほど(作者の目測)の頑丈なものである。 下にその案内板の内容を記載する。

昔の多久川橋

この石橋は旧唐津街道の黒田領と中津領の中を流れる多久川(現在の国道202号線 多久川橋上流)に架かっていたもので 東屋の寄贈によるものと伝えられています。

城山(じょうやま)は崩れるとも東屋は潰れぬ」と言われた東屋は代々酒造業などを営む豪商でした。 天保3年(1832)加布里村東屋 末松政右衛門は岩本村油屋 牛原藤蔵と共に日田の郡代塩谷大四郎の訓令によって 博多屋久兵衛(広瀬淡窓の弟)の指導のもと自費で千早新田を拓きました。 博多聖福寺仙厓和尚は「千早振る神代の海を田作りて 民もゆたかに歌ひ舞ふ里」と詠み、その偉業を称えました。

今その歌碑は、千早新田の入り口にあります。

城山(じょうやま)は加布里の天満宮の裏山です。

昭和62年5月 糸島市

ここより、しばらく街道は田んぼとなりしばらくの間、消滅している。

神在の旧道口 標高: 5.5m MAP 4km以内の寺社検索

旧道口
旧道口 

街道はここで旧道に入る。「牧のうどん畑中製麺所」の大きな看板が目印である。

神在の庚申塚 標高: 7.6m MAP 4km以内の寺社検索

庚申塚
庚申塚 
庚申塚前の街道(左手の建物の所に庚申塔、右手の自転車の脇に「さやのかみ」が祀られている) - 波多江宿に向かって撮影
庚申塚前の街道(左手の建物の所に庚申塔、右手の自転車の脇に「さやのかみ」が祀られている) - 波多江宿に向かって撮影 
さやのかみ - 波多江宿に向かって撮影
さやのかみ - 波多江宿に向かって撮影 

庚申塔は街道の左手にたっている。街道を挟んで斜め向かいには「さやのかみ」が祀られている。

脇の消えかかった案内板によれば「さやのかみ」は「障の神」「 賽の神」とも書き道祖神の一種だそうだ。

神在地蔵堂 標高: 7.4m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 
御堂前の唐津街道(右手が地蔵堂) - 深江宿に向かって撮影
御堂前の唐津街道(右手が地蔵堂) - 深江宿に向かって撮影 

神在地蔵堂は街道の脇にたっている。

神在火伏地蔵堂 標高: 8.6m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵堂(石段は木々に囲まれている)
地蔵堂(石段は木々に囲まれている) 
御堂前の唐津街道(右手が地蔵堂) - 深江宿に向かって撮影
御堂前の唐津街道(右手が地蔵堂) - 深江宿に向かって撮影 

神在火伏地蔵堂は街道の脇にたっている。

地蔵堂の屋根は銅板葺き。御堂前の唐津街道は昔懐かしさを感じさせるものとなっている。

西宮神社 標高: 8.0m MAP 4km以内の寺社検索

西宮神社
西宮神社 
西宮神社前の街道 - 深江宿に向かって撮影
西宮神社前の街道 - 深江宿に向かって撮影 

未稿

地蔵堂跡 標高: 10.4m MAP 4km以内の寺社検索

①在りし日の地蔵堂
①在りし日の地蔵堂 
②2020-05-27時点の地蔵堂付近(赤丸の位置)
②2020-05-27時点の地蔵堂付近(赤丸の位置) 

2009-09-27時点では、ここには立派な方形屋根の地蔵堂があった(写真①)。2020-05-27に再度踏査してみると、道路拡張工事の為か地蔵堂は無く鳴っている(写真②)。

この近くに移動されたものと考え周辺をそうとう探したが発見出来ず。残念無念。

諏訪神社 標高: 8.1m MAP 4km以内の寺社検索

諏訪神社 - 波多江宿に向かって撮影
諏訪神社 - 波多江宿に向かって撮影 

街道はこの先を大きく右にカーブする。

龍国寺参道口 標高: 6.6m MAP 4km以内の寺社検索

馬頭観音堂
馬頭観音堂 
②現在の参道口(赤丸の地点に道標があった)
②現在の参道口(赤丸の地点に道標があった) 
①「りゅうこく寺■■■」道標
①「りゅうこく寺■■■」道標 
①昔の参道口(道標は写真中央) - 深江宿に向かって撮影
①昔の参道口(道標は写真中央) - 深江宿に向かって撮影 

2009-09-27現在、ここには「りゅうこく寺■■■」と刻印された自然石製の道標が立っていた(右写真の①)が、 2020-05-27、再度踏査してみると住宅が建てられ道標はなくなっている(右写真の②)。 周辺を歩いて探してみたが見つからない。どこかの博物館に移動されたのかもしれない。

ここを左に曲がって南方向に3kmほど行くと万歳山 龍国禅寺がある。ここは同寺の参道口だったのだろう。

道標があった地点の街道を挟んだ向かい側には馬頭観音堂がある。

街道はこの先を大きく右に進む。

熊野神社 標高: 7.8m MAP 4km以内の寺社検索

熊野神社
熊野神社 
熊野神社の街道 - 波多江宿に向かって撮影
熊野神社の街道 - 波多江宿に向かって撮影 

境内の狛犬たちはかなり雨風に打たれ侵食されている。

八幡八幡宮参道口 標高: 5.2m MAP 4km以内の寺社検索

参道口前の唐津街道(赤丸の一に道標) - 深江宿に向って撮影
参道口前の唐津街道(赤丸の一に道標) - 深江宿に向って撮影 
参道口に立つ道標(「八幡八幡宮 是ヨリ北エ三丁入 文化2年」)
参道口に立つ道標(「八幡八幡宮 是ヨリ北エ三丁入 文化2年」) 
雷山山系(左右方向は唐津街道) - 八幡八幡宮参道口を背にして撮影
雷山山系(左右方向は唐津街道) - 八幡八幡宮参道口を背にして撮影 
①八幡八幡宮参道口(左右方向は唐津街道。赤丸の一に道標)
①八幡八幡宮参道口(左右方向は唐津街道。赤丸の一に道標) 
②八幡八幡宮参道(赤丸あたりに鎮座)
②八幡八幡宮参道(赤丸あたりに鎮座) 
③八幡八幡宮参道(ご覧のとおり山道、この坂道の崎に石段あり。その上に鎮座)
③八幡八幡宮参道(ご覧のとおり山道、この坂道の崎に石段あり。その上に鎮座) 

道標は街道の右側の草むらに立っている。 高さは40cmほどか? 道標には「八幡八幡宮 是ヨリ北エ三丁入 文化2年(1805)」と記されている。 (判読不可の文字は前原~深江~浜崎~唐津の記事により補間しました。)

上記の「北に3丁(≒300m)」の所に確かに八幡八幡宮は鎮座している。場所はこちら

参道口から300mほど坂道を登り、集落が途切れた所を左折。そこから両サイドが木々に包まれた山道である。季節柄、そこから先への前進は断念。八幡八幡宮への参道は右写真の①②③に掲示している。 詳しくは八幡八幡宮 福岡県糸島市二丈田中 : 空 sora そら参照のこと。

八幡八幡宮の鎮座の歴史などは不詳だが、街道沿いに道標があるということは、昔は参拝する人が多かったものと思われる。

このあたりは南側は視界が開け、雷山山系の山々が見渡せる。

浜窪の追分石 標高: 3.3m MAP 4km以内の寺社検索

追分石前の街道(ここを右折すれば海沿いに加布里に至る) - 深江宿に向って撮影
追分石前の街道(ここを右折すれば海沿いに加布里に至る) - 深江宿に向って撮影 
北面(「左 加布里道 十七町二十九間二尺」)
北面(「左 加布里道 十七町二十九間二尺」) 
東面(「加布里ヨリ 前原/深江へ一里八町五十五間五尺/邉田寺山久家芥屋へノ渡舩アリ」)
東面(「加布里ヨリ 前原/深江へ一里八町五十五間五尺/邉田寺山久家芥屋へノ渡舩アリ」) 
西面(「東 前原驛一里十六町一間三尺/西 深江驛 二十七町二十六間三尺」)
西面(「東 前原驛一里十六町一間三尺/西 深江驛 二十七町二十六間三尺」) 
南面(「明治二十五年十二月加布里藤田義寛建」)
南面(「明治二十五年十二月加布里藤田義寛建」) 
羅漢川(このすぐ下流は唐津湾) - 上新川橋より撮影
羅漢川(このすぐ下流は唐津湾) - 上新川橋より撮影 

追分石は街道の左側にある。高さ2mほどか? ここは三叉路となっており、ここを右折すれば唐津湾沿いに加布里に至る。

追分石のそれぞれの面には下記のように記されている。挿入している「/」は改行箇所。 南面は未確認。ひょっとすると年号銘は記されているかも知れない。

北面「左 加布里道 十七町二十九間二尺(1.9km)

西面「東 前原驛一里十六町一間三尺(5.7km)/西 深江驛 二十七町二十六間三尺(3km)

東面「加布里ヨリ 前原/深江へ一里八町五十五間五尺(4.9km)/邉田[1]寺山[2]久家[3]芥屋へノ渡舩アリ」と。

南面「明治二十五年(1892)十二月加布里藤田義寛建」

庚申塔 標高: 3.4m MAP 4km以内の寺社検索

熊野神社
熊野神社 

庚申塔は街道の右端に立っている。

安永2年(1773)の銘あり。

松末五郎稲荷神社 標高: 5.3m MAP 4km以内の寺社検索

松末五郎稲荷神社前の街道 - 波多江宿に向かって撮影
松末五郎稲荷神社前の街道 - 波多江宿に向かって撮影 
参道口
参道口 
頂上の社殿
頂上の社殿 
頂上のすぐ下の社殿脇の牛像(社殿の前には馬像もあります)
頂上のすぐ下の社殿脇の牛像(社殿の前には馬像もあります) 
舞台からの二丈の田園風景
舞台からの二丈の田園風景 
地蔵堂
地蔵堂 

当社は街道沿いの参道口よりつづら折りの石段を登り、この山の頂上まで続く広大な神域である。

参道口から山の頂上までの標高差は作者計測60m。かなり足腰にこたえる。

途中の舞台(展望所)のある平坦面に「初代代人 松崎 豊太郎翁之像」が建っている。 裏面に明治27年(1894)に生まれ、4歳の時、失明。一心に神仏を信仰し、昭和5年(1930)に神意を受け当社が建立された旨、記されている。

途中の舞台からは二丈の田園風景を眺めることができる。 松末五郎稲荷神社(福岡県糸島市)|御朱印散歩覚書のページに参道口から頂上までの順に写真が掲示されている。

当社では毎年12月に「目隠し女相撲」が開催されるようだ。(糸島最大級の珍祭!目隠し女相撲@松末五郎稲荷神社 | 糸島ゲストハウス 前原宿ことのは参照のこと。)

当稲荷社の参道口の脇に松末日切地蔵堂がある。

松末天満宮 標高: 7.4m MAP 4km以内の寺社検索

一の鳥居
一の鳥居 
ニの鳥居
ニの鳥居 
社殿
社殿 
松末天満宮前の街道 - 波多江宿に向かって撮影
松末天満宮前の街道 - 波多江宿に向かって撮影 

当社の縁起等は不詳。分かり次第追記します。

街道は一の鳥居の裏側を通り、深江宿に向かう。

この前後の街道の道幅は昔のままのようだ。

羅漢橋跡(北側) 標高: 1.7m MAP 4km以内の寺社検索

羅漢橋跡 - 街道は左から右に向って深江宿内進む
羅漢橋跡 - 街道は左から右に向って深江宿内進む 
羅漢橋の橋脚
羅漢橋の橋脚 
羅漢橋(遠景) - 下流の深江橋より撮影
羅漢橋(遠景) - 下流の深江橋より撮影 

羅漢橋は福岡西方沖地震()により倒壊したという。 橋脚近くには年代物の石が積まれている。未確認ではあるが、旧橋の部材か?(記)

暫定版かもわからないが、コンクリートの橋が新しくかかっている。

塩谷町の天満宮 標高: 4.6m MAP 4km以内の寺社検索

門前の唐津街道(左手に天満宮) - 深江宿に向って撮影
門前の唐津街道(左手に天満宮) - 深江宿に向って撮影 
鳥居
鳥居 
塩屋町公民館(天満宮の社殿も兼ねているようだ)
塩屋町公民館(天満宮の社殿も兼ねているようだ) 

当社の縁起等は不詳。分かり次第追記します。

境内には塩屋町公民館が建っている。 この公民館が社殿を兼ねているようだ。

この先より深江宿となる。

脚注