小倉-戸畑(旧:遠賀郡戸畑村 現:北九州市戸畑区)
概要
ここでは小倉より戸畑の渡し場に至る街道を記載する。
この街道は、宿場などは無く、小倉と若松宿とを結ぶ通り道であったようである。
下に『筑前国続風土記拾遺』巻之34 遠賀郡 利 戸畑村の項を引用する。
民居は本村及天頼寺[1]に在。 古書には鳥旗或は飛幡なとと見えて奮き名所也。 筑前風土記に曰(中略)とあり。
按に村名の戸畑は戸端の義ならん。 此村水門の渡口も在て岫門の端なれば也。
大江口とは此村と若松との間の入海也。 塢舸水門とは今は芦屋の邊をいへ共、芦屋より此邊迄の入海を凡て廣く指ていへりと見えたり。 そは此風土記の文を併考てしらる。
河■嶋は中嶋(次に云り)を云なるべし。 此入海に鰒魚[2]を生せし由見えたれ共、海 漸時浅く成て今は鰒魚なし。
爰より若松の渡口まで海上3町48間(約400m)あり。(以下略)
経路
長圓寺 標高: 3.1m MAP 4km以内の寺社検索
長圓寺は華岳山西蓮院と号し、浄土宗鎮西派の寺院である。
立法寺 標高: 2.4m MAP 4km以内の寺社検索
立法寺は安正山と号し、日蓮宗の寺院である。
極楽橋西 標高: 2.4m MAP 4km以内の寺社検索
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小倉北区中井浜・日明・菜園場地区の史跡等によれば、 この橋は、明治時代までは、「地獄橋」と呼ばれていた。 江戸時代、縄を打たれ裸馬に乗せられた罪人は、市中引廻しのあと、この橋を渡って干上村(現在の日明)の刑場で処刑されていたため、 この橋を渡ることは死への道であったことに由来しているという。
現在の橋はコンクリート製である。 当時の遺構は確認できなかったが、小倉側の橋の両サイドに「三階菱」が設置されている。 小笠原家の家紋であるが、何の為のものかは不詳。
首切り地蔵尊 標高: 2.8m MAP 4km以内の寺社検索
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_小倉北区中井浜・日明・菜園場地区の史跡等によれば、文化年間(1804~1818)に起こった小笠原藩の[W]白黒騒動で犠牲となった、儒者上原与一以下の処刑者を仏として巨大な地蔵尊を造り祀ったものという。
その台座部には、「天明7丁末歳(1787)仲冬11月 浄土宗心光寺義誉上人弟子簾誉盤哲」なる銘があり、これは無縁仏の供養塔であるという。 ここで、心光寺とは小倉北区竪町の心光寺のことと思われる。
この辺り一帯は「平松共同墓地」となっている。 墓地全域がかなり荒れているのが気にかかる。
日明浜処刑諸霊塔 標高: 3.8m MAP 4km以内の寺社検索
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街道脇に「日明濱處刑諸霊塔」と刻まれた供養塔が立っている。 藩政期にはこのあたりは砂浜で刑場があったところという。
処刑場跡 - 北九州市によれば、藩政期には、八百屋町に「獄屋」があり、死罪が確定した者は処刑のために八百屋町→室町筋→鋳物師町→平松へ出て、板櫃川の地獄橋(今は極楽橋)を渡り、首切地蔵の前を通り処刑場で処刑されたという。
貴船神社 標高: 4.7m MAP 4km以内の寺社検索
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境内の案内板によれば、豊前国企救郡仲原村の産土神。 創建年代は不詳であるが、鳥居の銘が安政6年(1859)。 境内にある猿田彦大神は文化3年(1806)銘。中原村の道傍に建立されていたものを近年の区画整理により当社境内に移転したものという。
ここからの道幅はほぼ当時のままのようである。
元宮町入り口 標高: 5.6m MAP 4km以内の寺社検索
当時の様子を示すものは何も残っていない。 ただ、道幅だけは当時のままのようである。
東光前 標高: 1.8m MAP 4km以内の寺社検索
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東光寺は臨済宗大徳寺派のお寺で山号を醫王山と云う。 そのすぐ東側には照養寺が伽藍を構えている。
街道はこの先を、若松宿に向かって右方向に直角に曲がる。 曲がった、街道脇には戸畑恵美寿神社が鎮座している。
戸畑恵比寿神社前の案内板の内容をそのまま記す。
戸畑恵美寿神社の由来
寿永の昔(1182)平家の一門が壇の浦の合戦に破れ、 落ちのびた平家の残党が飛幡の浦に隠れ住み、漁業を営んでいましたが、 地付きの人々と相談して、出雲国美保ノ関の美保神社より、亊代主命(えびす様)を勧請し 祭祀したお社です。 昔から800年間祀り継いだ由緒深い戸畑の氏神様です。 小さなお社ですが地域の皆様で大切に祀りついでゆきましょう。 (後略)
渡船場 標高: 2.6m MAP 4km以内の寺社検索
当時は、橋があるはずも無く、旅人はここより船にて対岸の若松宿に渡った。