深江宿(旧:中津領深江村 現:糸島市二丈深江)
概要
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『筑前国続風土記』巻之22 公領の項に下記の記載がある。
○深江
藻藍草に、深江の郷と有。 和名抄には、怡土郡に深江の郷なし。 此村は前原を去事1里24町西に在て、海邊に在村也。 町有。民家多し。
前原の西の方には此宿驛ばかりなり。 是より西は肥前濱崎も馬驛有。 深江より濱崎へ3里22町有。 深江海は古歌にもよめり。
(以下は深江神社の由来についての記述であるので省略。下の深江神社の項を参照のこと。)
右の『筑前名所図会』で深江神社,羅漢橋、正覚寺など現在の位置に描かれている。
深江宿は二丈地理全誌によれば慶長4年(1599)より唐津領、元禄4年(1691)より公領(幕府領)、さらに享保2年(1717)より中津領という変遷を辿った。 常夜灯の西側に延寿院があり、境内に「中津領」の領界石がある。 深江宿の郊外にある万歳山 龍国寺は、 住職が変わるたびに中津城への就任の挨拶の旅に出たという。 そのコースは下のとおり。
1.福岡城下篠栗
飯塚
香春
新町
椎田
中津城下
2.福岡城下青柳
赤間
木屋瀬
黒崎
倉城下
苅田
大橋
椎田
中津城下
帰り道は、往路の逆をそのままたどった和尚、英彦山参詣・大宰府参詣をして帰ってきた和尚もいたようである。
1.英彦山 小石原
甘木
二日市
福岡城下
2.椎田 油須原
秋月城下 ...
宰府
二日市
福岡城下
経路
正覚寺 標高: 4.8m MAP 4km以内の寺社検索
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南下してきた街道は徳永寺門前を過ぎ、正覚寺の北門前で直角に右に曲がり深江宿内に入る。 この付近が深江宿の北側の入口だったのであろう。
徳永寺は紫雲山と号し真宗大谷派の寺院、正覚寺は誓願山大音院と号し浄土宗の寺院である。
常夜灯 標高: 5.4m MAP 4km以内の寺社検索
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『街道と宿場町』(アクロス福岡文化誌) によると、火災封じの願をかけて天保3年(1832)に建てられたという。
街道の向かい側には梅屋宿場があったようだ。2020-05-15現在、「㊲梅屋宿場跡」と記された白杭があるのみで、敷地は更地となっている。
常夜灯脇には深江薬師如来のお堂がたっている。地元の方々の厚い信仰心であろう、花・お菓子などが手向けられている。
正覚寺前より進んで来た街道はここで、ほぼ直角に南にカーブする。 ここから次の深江神社までは一直線で両側には古い街並みが続く。
深江神社 標高: 7.1m MAP 4km以内の寺社検索
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深江神社の境内は広い。 地元の方のお話によれば、南隣の深江小学校の敷地も境内であったという。 境内には秀吉の茶会跡(社殿左手), 小早川隆景が寄進したというニの鳥居、文政銘の自然石の手水など歴史ある品々を観ることができる。 (ちなみにニの鳥居は地元の方は「無額の鳥居」と呼ぶらしい。束額に何も文字が書かれていないためという。)
境内を囲う練り塀・石垣も歴史を感じさせるものとなっている。
猿田彦 標高: 5.1m MAP 4km以内の寺社検索
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街道はここで右に直角に曲がり、南西に向かう。
松並木 標高: 7.5m MAP 4km以内の寺社検索
街道はここで右に直角に曲がり、南に向かう。 ここから次の自然石梵字石までは松並木がまばらに続く。 写真を撮り損ねました。次回掲載します。
自然石梵字石 標高: 5.7m MAP 4km以内の寺社検索
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深江宿に向かって左手に梵字石、小さな石塔と地蔵堂がある。 梵字石には文化4年(1807)の銘がある。
街道はここより少し南西に向い、その先を南に向かうが、その先の道は消失している。
川の下第2踏切 標高: 2.4m MAP 4km以内の寺社検索
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街道はこの踏切の少し西側でJR筑肥線を横切り、すぐ右折する。ほどなく鎮懐石八幡宮前である。
鎮懐石八幡宮 標高: 3.6m MAP 4km以内の寺社検索
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神功皇后は応神天皇を懐妊しながらこの地を通って、朝鮮半島に出兵した。その時、卵型の2個の石を求めて肌身に抱き、鎮懐として出産の延期を祈った。願いは叶い帰国後、宇美の里で応神天皇が生まれた。
鎮懐石八幡宮門前の街道は今でこそ右手にJR筑肥線の線路が走っているが、当時はすぐ海であったと思われる。 旅人は右手の海を見ながら唐津に進んだのだろう。 八幡宮には展望台があり、そこから眺める唐津湾は絶景である。
境内には、万葉歌碑・鎮懐石碑・船繋石・塞神と陰陽石などの石像物がある。 特に、万葉歌碑は安政6年(1859)6月に建てられたもので九州最古のものであるという。
萩の原第一踏切 標高: 15.3m MAP 4km以内の寺社検索
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鎮懐石八幡宮の門前を過ぎ、道なりに西側に進むと、緑のトンネルが始まる。
そこを20mほど進むとJR筑肥線の萩の原第1踏切がある。 街道は踏切を越え、国道202号線に合流する。
踏切には遮断器・警報機は設置されていない。 踏切前後の軌道は微妙にカーブしており見通しは良くない。
列車には充分ご注意下さい。
画像に道順に①〜⑥の番号を付加している。
佐波観音堂 標高: 6.7m MAP 4km以内の寺社検索
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佐波観音堂は佐波公民館と棟続きの建物となっている。
202号線との接点 標高: 5.6m MAP 4km以内の寺社検索
街道は写真の松原側の海岸沿の道を浜崎宿に向って進む。写真手前は国道202号線。
写真の横断歩道の左側にはJR大入駅がある。無人駅である。(2009-10-24現在)
大入海岸 標高: 5.7m MAP 4km以内の寺社検索
このあたりは夏場は海水浴客で賑わう。海は澄んでいて、砂は真っ白である。 作者はたまにここにシロギス釣りに行く。
庚申塔(大入) 標高: 4.9m MAP 4km以内の寺社検索
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水島商店の脇に庚申塚はある。そこから海側へ50mほど行くと大入漁港がある。 ご覧の通り、綺麗な漁港である。
ここより北側の岬は配崎という。そこには天神社があり、「是従東中津領」の領界石がある。
岬の西側に配崎人柱供養塔がある。 この岬は昔は大潮の時には孤島となった所。それを防ぐための潮留めの堤防はしばしば決壊。 この堤防の工事の時に地元の若者が人柱となったという。その後は決壊しなくなったという。
深江宿-浜崎宿間の距離は3里22町(≒14km強)。 通常の唐津街道の宿場間の距離は約2里(≒8km)である。 深江宿-浜崎宿の距離が長すぎる。 街道はこの先浜崎宿まで、山中を通り、さらに海岸沿いを通る。当時はかなり厳しい行程であったと思われる。 深江宿を出発した旅人はこの大入で一休みして英気を養ったのではなかろうか? 所謂「間の宿」の役割をはたしていたと思われる。
ここより、次の地蔵堂の少し先までは緩やかな上り坂となっている。
地蔵堂(大入) 標高: 6.7m MAP 4km以内の寺社検索
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地蔵堂は大入公民館の広場の端にある。脇には2基の石塔もみられる。
庚申塔 標高: 8.5m MAP 4km以内の寺社検索
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福よし歯科医院のそばに鎮座している。 石燈篭には文化5年(1808)の銘あり。
番所跡 標高: 6.6m MAP 4km以内の寺社検索
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番所跡前は国道202線が走り、車がひっきりなしに往来している。 番所跡にはしらみぐち地蔵尊が鎮座している。 このあたりは「白み口」と呼ばれていたという。 案内板の内容をそのまま記載する。
「白み口」と「地蔵尊」
初代唐津城主、寺沢志摩守広高が、 慶長4年(1599)に怡土郡3万石を加増され開田や開塩事業の督励のため、 よく現地廻りにでかけていた。
早朝に唐津を出て馬で出発、 東の空が白みかける頃ちょうどこのあたりに来ていた。
その為にこの周辺を「白み口」と呼んでいた。
地蔵尊は享保18年(1733)に大飢饉があり当時の二丈町の3分の1に当る約1500人の人々が死亡。 地蔵尊にまとめて葬った。 相前後して六ヶ所の地蔵尊がつくられたという。
番所の地蔵尊の台座には、この功績をたたえて大法寺7代和尚のことが天明(1786)の 日付で残っている。
福吉校区まちづくり推進協議会
地蔵堂前のJR筑肥線の踏切は白山神社の参道口となっているようである。 白山神社はここより道なりに南へ650mの所に鎮座している。
福吉入口 標高: 6.3m MAP 4km以内の寺社検索
ここから202号線に別れ福吉の漁師町に入る。
福吉橋 標高: 2.4m MAP 4km以内の寺社検索
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橋の向こうに地蔵堂がある。御堂内には木札があり「本尊地蔵菩薩堂 元文元年(1736)6月建立 元治元年(1864)3月改築 尊像安置以来157年経歴 明治26年7月日上棟。 本尊移転 平成5年(1993)7月30日 上棟(以下略)」と記されている。
地蔵堂前の街道を挟んだ道端に梵字石と思われる石があるが、風雪に削られてか文字は確認できない。
福吉御堂 標高: 7.1m MAP 4km以内の寺社検索
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御堂は民家の庭先に立っている。
御堂内の祭壇には向かって左手より弘法大師と思しき石像が2体、厨子が2基安置されている。
西縄手第3踏切 標高: 6.2m MAP 4km以内の寺社検索
国道202号線を横切り、踏切を越え、ここより山道に入る。
愛宕神社 標高:123.9m MAP 4km以内の寺社検索
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愛宕神社はちょうどこの街道の峠あたりに鎮座している。ここからは下り坂である。 「宝歴8年(1758)(天保7年(1836)再建)」銘があるように記載されているが、かろうじて"寳歴"の文字のみ判読できる。
旧道入り口 標高:124.4m MAP 4km以内の寺社検索
道路脇に「古代の道標」「唐津街道」の二つの道標がある。 ここから次の目印までは、旧街道の保存状態はよい。
白山神社 標高: 19.7m MAP 4km以内の寺社検索
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白山神社は街道の唐津に向って右側の坂道を少し登ったところに鎮座されている。
永見寺 標高: 20.2m MAP 4km以内の寺社検索
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永見寺前の街道は唐津に向って右側に唐津湾をながめながら進む。
永見寺は雲谷山と号し曹洞宗の寺院である。
国境石 標高: 22.9m MAP 4km以内の寺社検索
国境石は清水が湧く小川の中に立っている。 表には「従是筑前國」、西側側面には「小川中央境」と刻まれている。 よくも小川と言えども水の流れる中に立てたものである。 当時も国境を厳密に規定していたことがうかがえる。 街道はこの小川を横切り、包石を右下に見ながら西に向かう。 国境石から20mほど街道跡がそのまま保存されているようである。 国境石から東側は絶壁となっており残念ながら街道跡は残っていない。 国境石は崖の上にある。ここにたどり着くまでの旧街道はかなりの悪路なので単独行はやめた方が良い。
この小川はそのすぐ下に走るJR筑肥線の線路下へ人口のトンネルを通り流れ、 さらにその線路下の七郎神社の境内に流れ込み、さらにその流れは唐津湾へと流れ込んでいる。 この国境石の場所にたどり着くには二つのコースがある。 一つは七郎神社より少し唐津よりのJR筑肥線の線路に登り、それを横切り、田圃のあぜ道を通り、 さらに坂道を登り・さらに下る(このコースはJRの線路を横切るのであまりお勧めできない)。 もう一つは国道202号線を唐津方面に少し走り、最初に左側に見える踏切を渡り舗装された道路を国境石から50m位手前に車を止め そこから徒歩にておりる。
国境石から唐津湾を見下ろすと包石が見える。 『唐津街道 豊前筑前福岡路』によると、高さは5m。文禄・慶長の役で肥前名護屋に向う 多くの武将や、伊能忠敬をはじめ多くの人々が目にしたという。
包石脇に伊能忠敬の歌碑が建てられておりその説明によると、平成14年(2002年)の大波 により瓦解したが、その2年後に地元の有志により修復されたという。 下に伊能忠敬の歌を記載する。「測量日記 文化9年(1812)」の銘がある。
名にし逢う 響の灘の 白波は 鼓の石に おとづるるなり
包石の砂浜より国道202号線を横断すると七郎神社がある。 下に七郎神社脇の案内板の内容をそのまま記す。
七郎神社
藤原廣嗣(奈良時代太宰府小弐)が戦いに敗れ肥前に逃げる途中、 馬卆右馬七郎が足をすべらせ石窟に入り込み寒さを凌いでいた。 然し咳をしたので官軍に見つけられ自ら腹に刀を突きたて自害した。
天平12年(760)のことである。
土地の人が哀れに思い弔った。
現在かぜ、咳、ぜんそくの神様として参拝者があり、御願成就には木刀を供える風習がある。
福吉校区まちづくり推進協議会
国道202号線にはここより佐賀県の道路標識があり、石柱も建っている。
道標 標高: 34.0m MAP 4km以内の寺社検索
近辺を街道ルートを探して走り回っていたとき、偶然発見した。 すごい感激。
このあたりは、次の浜崎宿まで街道は海岸線を右に見ながらの山道である。