肥前街道

概要

亀ノ尾越の道 - 「肥前・筑前街道―脊振坂越」より引用
亀ノ尾越の道 - 「肥前・筑前街道―脊振坂越」より引用 
道標 - 中ノ島公園内
道標 - 中ノ島公園内 

「神埼道」「筑前街道」「福岡道」「背振坂越」とも呼ばれた。

平安末期、平忠盛(1096-1153)・清盛(1118-1181)ら平家一門全盛時代に、皇室領肥前神埼荘(現佐賀県神埼郡吉野ヶ里町)と岩戸荘(いわとのしょう)(現福岡県那珂川市山田)と博多を結ぶ道として、年貢米・貿易品などの輸送に使用されていた。(Links① より)

当街道は文化10年(1813)伊能忠敬の観測隊が測量している。(Links② より)

当街道は明治(1868-1912)期まで使用されていた。亀ノ尾峠前後・霊仙寺境内には今でも石畳が残っている。 平成8年(1996)、文化庁により「歴史の道百選」に選定された。

当街道のルートの確認は、福岡県側は主にLinks② +Links⑧ 、佐賀県側はLinks④ +Links⑦ を参考としている。

地図

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経路

大橋 標高: 13.0m MAP 4km以内の寺社検索

『那珂川町の歴史探訪』に掲載されている路線図ではこの地点が肥前街道の始点となっている。

この地点で肥前街道は日田街道(薬院雑餉隈との中間地点)と交差する。

再開発の為、残念ながら昔の面影が感じられる風景は皆無である。

鷹取延命地蔵尊 標高: 10.9m MAP 4km以内の寺社検索

全景(左右方向のみやき通り(国道385号線)は肥前街道)
全景(左右方向のみやき通り(国道385号線)は肥前街道) 
境内風景(前方に地蔵堂)
境内風景(前方に地蔵堂) 

地蔵堂前の車の喧騒とは対照的に、境内にはクスノキ・ムクノキ・チシャノキ(いずれも大木)があり、ちょっとした霊域の趣である。

御堂前のみやき通り(国道385号線)は車の往来が激しい。 ここよりしばらくは、昔の面影は感じられない。

龍岩地蔵 標高: 16.4m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵尊と猿田彦大神前の街道 - 山田に向って撮影
地蔵尊と猿田彦大神前の街道 - 山田に向って撮影 
地蔵尊(左)と猿田彦大神
地蔵尊(左)と猿田彦大神 
地蔵尊(龍岩地蔵?)
地蔵尊(龍岩地蔵?) 
台座に積まれた栗石
台座に積まれた栗石 

『那珂川町の歴史探訪』に掲示されている路線図によれば、このあたりに「龍岩地蔵」がある。 『筑前國続風土記附録』巻之7 那珂郡 上 片縄村の項にも「○龍岩地蔵(ミヤウケン)」とある。

祀られている地蔵菩薩像(石像)は新しいもののように思えるが、当尊像を「龍岩地蔵」と仮定することにしよう。 近年、代替わりしたのだろうか?

地蔵尊の傍らには猿田彦大神がたっている。

この前後の道幅は狭く、昔の街道の風情が少し感じられる。

御中主神社 標高: 18.7m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 
神殿
神殿 
地蔵菩薩(?) - 神殿(石祠)の中
地蔵菩薩(?) - 神殿(石祠)の中 
門前の肥前街道(右手に御中主神社)
門前の肥前街道(右手に御中主神社) 

『那珂川町の歴史探訪』によれば、当社は「妙見さま」ともよばれているようだ。

『筑前國続風土記附録』巻之7 那珂郡 上の片縄村「○妙見社(ミヤウケン)」との記事あり。

神殿は大木な石祠で、内部の御神体と思しき石体の前に地蔵菩薩と思われる石仏が祀られている。

那珂川沿いに上ってきた街道はここで右側にカーブ。一旦那珂川を離れる。

観音堂 標高: 18.0m MAP 4km以内の寺社検索

観音堂
観音堂 
祭壇
祭壇 

このあたりは1922-1956には「観音堂」という字名が振られていた。詳しくは、観音堂のページを参照のこと。

如意輪観音堂 標高: 25.7m MAP 4km以内の寺社検索

観音堂全景
観音堂全景 
如意輪観音(石像)
如意輪観音(石像) 

如意輪観音堂の周辺の道は複雑な経路となっており、この地点より前の観音堂まで街道の経路は未解明である。

『筑前國続風土記附録』巻之7 那珂郡 上 道善村 恵子(枝村)の項に「○観音堂(タハノンヤマ)」との記事がある。当観音堂のことかどうかは不明。

道善天神社 標高: 26.3m MAP 4km以内の寺社検索

門前の肥前街道 - 山田に向って撮影
門前の肥前街道 - 山田に向って撮影 
全景
全景 
猿田彦大神と地蔵菩薩(右手)
猿田彦大神と地蔵菩薩(右手) 
鳥居
鳥居 
社殿
社殿 
境内風景
境内風景 

『筑前國続風土記附録』巻之7 那珂郡 上 道善村の項に「○天神社(トウゼンジ)」という記事あり。

社殿は小山の中腹にたっている。

鳥居に向って右手の街道沿いには猿田彦大神と地蔵菩薩がたっている。

蓮教寺 標高: 28.3m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 

蓮教寺は妙法山と号し日蓮宗の寺院である。

後野薬師堂 標高: 23.7m MAP 4km以内の寺社検索

遠景(薬師堂は写真中央、マンションの右隣)
遠景(薬師堂は写真中央、マンションの右隣) 
祭壇
祭壇 

後野薬師堂那珂川八十八ヶ所霊場第77番札所となっている。

西隈の天神社 標高: 28.6m MAP 4km以内の寺社検索

神殿(石造り。「明治八年乙亥(1875)六月吉日」銘)
神殿(石造り。「明治八年乙亥(1875)六月吉日」銘) 
拝殿
拝殿 
石段
石段 
石灯籠(かわった形をしている)
石灯籠(かわった形をしている) 
石祠・石塔
石祠・石塔 
猿田彦大神(「安永十辛丑(1781)」銘)
猿田彦大神(「安永十辛丑(1781)」銘) 
門前の肥前街道 - 山田に向って撮影
門前の肥前街道 - 山田に向って撮影 
境内風景(前方の坂を登れば社殿がある) - 猿田彦のある平坦面
境内風景(前方の坂を登れば社殿がある) - 猿田彦のある平坦面 
防水門想像図 - 案内板より
防水門想像図 - 案内板より 
防水門と堤の位置関係 - 案内板より
防水門と堤の位置関係 - 案内板より 
防水門跡(左右方向は肥前街道)
防水門跡(左右方向は肥前街道) 

『筑前國続風土記附録』巻之7 那珂郡 上 西隈村の項に下記の記事がある。

○地祿天神社(テンジンヤマ)

このあたりの街道沿いには那珂川から引いた用水路が流れている。 用水路に架けられた石橋を渡り、石段を登ると境内である。

社殿のある平坦面には神殿(「明治八年乙亥(1875)六月吉日」銘))・拝殿・石祠・石塔・石灯籠などがみられる。

社殿に向って右手前から少し下った所には猿田彦大神(「安永十辛丑(1781)」銘)がたっている。 境内全般、手入れが行き届き、ちょっとした庭園を思わせる趣である。

街道から渡って境内に入る石橋の上流には「西熊の防水門」跡がある。

那珂川は大雨が降ると両方から山が迫るこの付近は国道385線(肥前街道)上に水があふれ、西熊地区に水が押し寄せていた。当防水門は、これを防ぐためのものである。大正期(1912-1926)以前のもの。(案内板より)

釈迦堂 標高: 32.0m MAP 4km以内の寺社検索

釈迦堂
釈迦堂 
遠景(御堂は写真中央、左右方向の道は肥前街道)
遠景(御堂は写真中央、左右方向の道は肥前街道) 

釈迦堂那珂川八十八ヶ所霊場第64番札所となっている。

浄光寺(山田) 標高: 35.1m MAP 4km以内の寺社検索

浄光寺前の街道
浄光寺前の街道 
山田薬師堂
山田薬師堂 

街道の脇には大イチョウが立っている。イチョウの根本には山田薬師堂がある。

その隣には浄光寺が伽藍を構えている。龍頭山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。

一の井手 標高: 37.2m MAP 4km以内の寺社検索

一の井手(手前の長方形の石は旧井手の部材と思われる) - 伏見宮の少し上流より撮影
一の井手(手前の長方形の石は旧井手の部材と思われる) - 伏見宮の少し上流より撮影 
一の井手の取水口
一の井手の取水口 
改築前の一の井手 - 『なかがわ探訪 81』より
改築前の一の井手 - 『なかがわ探訪 81』より 

「一の井手(いで)」は「一の井堰(いぜき)」とも呼ばれる。 那珂川の流れから取水してこの東側の裂田溝(さくたのうなで)(用水路)に水を通す為に建設されたもの。

この用水路は地質・地理学調査により、奈良時代(710-794)以前より現代まで使い続けられたことがわかったという。(現地案内板より)

「一の井手」「裂田溝」は神功皇后が建設したという伝説が残る。

『筑前國続風土記』巻之6 那珂郡下に下記の記事がみられる。

○一の堰手

山田村にあり。(これ)神功皇后のほらせ給ひし、裂田(さくだ)(うなて)の水上なり。 此水を引て下なる田地にそゝぎて、神田を作らせ給んため、神后の初てせき給へる堰手なるべし。

井手の広さ80間(≒150m)有り、大井手なり。此郡にかぎらず、此國において、是程の大堰手又別に見えず。 此水を引て下なる田地にそゝぎて山田、安徳、東隈、仲村、五郎丸、松木、今光、(およそ)7村の田地129町余、皆此堰手水を以てうるほせり。

井堰及び取水口は水害などによる老朽化に伴い、昭和62年(1987)に全面改修された。

伏見宮 標高: 38.5m MAP 4km以内の寺社検索

鳥居
鳥居 
社殿
社殿 
門前の肥前街道(左手先に伏見宮) - 亀の尾峠に向って撮影
門前の肥前街道(左手先に伏見宮) - 亀の尾峠に向って撮影 
拝殿内の絵馬 - 拝殿内
拝殿内の絵馬 - 拝殿内 
拝殿内の絵馬(正面左手に「なまず」、右手に「神功皇后」の絵馬もみられる) - 拝殿内
拝殿内の絵馬(正面左手に「なまず」、右手に「神功皇后」の絵馬もみられる) - 拝殿内 
弘化2歳(1845)銘の絵馬 - 拝殿内
弘化2歳(1845)銘の絵馬 - 拝殿内 
ナマズの絵馬(拡大)
ナマズの絵馬(拡大) 

『筑前國続風土記』巻之5 那珂郡下に下記の記事がみられる。

○伏見大明神社

この社始は肥前川上大明神をまつる。[1] これは神功皇后の御妹なりと称す。

後に山城国伏見の御香宮(ごかうのみや)[2]を勧請して合せ祭る。 故に伏見稲荷大明神といふ。

相殿祇園神あり。神体は木像にて古し。 里人の云、むかし博多焼し時、此所に祇園の神体を持来り置、故に博多の祇園[3]には神体なし。 御幣を以て神体とす。

城州伏見御香宮は神功皇后なり。 伏見にましませば、此神社を伏見大明神と号しけるにや。

むかし皇后此辺にて神田をひらき、農民をたすけ、裂田の溝(さくたのうなて)を通じ、農民をめぐませ給ひしかば、後人是を感じて皇后を此所に祭り奉れるならん。

毎年7月14日の祇園祭には拝殿で県無形文化財の「岩戸神楽」が演じられ、多くの人々で賑わう。 拝殿内には多くのナマズの絵馬が奉納されている。 石灯篭は嘉永二(1849)年銘。鳥居は宝暦九卯年(1759)三月吉祥日・平成二十年六月改築銘。

当社の北側に東西に通る道は宰府参詣道_梶原峠越の道である。

なまずのかまど 標高: 41.0m MAP 4km以内の寺社検索

なまずのかまど - 伏見宮の少し上流より撮影
なまずのかまど - 伏見宮の少し上流より撮影 
なまずのかまど跡の岸のアオサギ(川魚を狙って居る様子。まさか「なまず」ではないだろう。)
なまずのかまど跡の岸のアオサギ(川魚を狙って居る様子。まさか「なまず」ではないだろう。) 
なまずのかまど跡の岸のアオサギ(拡大)
なまずのかまど跡の岸のアオサギ(拡大) 

この地点付近の那珂川に伏見淵(ふしみぶち)鐙淵(あぶみぶち)風早淵(かぜはやぶち)という3つの淵があった。 この3つの淵は「なまずのかまど」あるいは「鯰淵」といわれていた。 「この淵の奥は牛頸(うしくび)まで通じているので奥深くはいってなならない。」と恐れられていた。

この淵は昭和6年(1931)の道路拡張工事によって埋め立てられた。

この淵のナマズは起こると不思議な生態を示すという。天変地異が起こりそうになると、かまどから出てきて異常な行動をとったと伝わる。

  • 天正14年(1586)7月、薩摩の軍が筑前に攻め込んで来る前、ナマズが隙間なく淵から泳ぎ出た。
  • 元和元年(1615)、大阪夏の陣の時もこの現象が起こった。
  • 慶長5年(1600)、「長政公此国を領し給ひし以来、山田村を大身の家臣に宛行れし事共有けり。其地頭逐斥(ちくせき)せらるべき前兆にも鮧出りけりと云」(元文のまま)
  • 寛永14年(1637)、肥前有馬藩に賊兵が起こった時も同様。(以上『筑前國続風土記』より)
  • 昭和20年(1945)8月3日から10日までの(太平洋戦争終結前)午前4時頃も同様。(伏見宮の前宮司談・『探訪 なかがわ 81』より)

『探訪 なかがわ 81』では「なまずは神功皇后のお使いの魚とされているため、食べることはありません。このことは地元では現在も守られています」とある。 しかし『筑前國続風土記』巻の6那珂郡下 鮧淵の項に「此所の鮧、一の井手より上なるをば神の使いと里民おそれてとらず、 此井手より下に落下れば神のめぐみに背けりとて常の魚の如く食ふとなり。」とある。

同書に「白鮧及び鞍懸(くらがけ)鮧とて鞍置たる形のごとく、背の白きなまずも此時(大阪夏の陣)出たりと云。其鮧の大なる事3、4尺(90cm〜120cm)に及べり」とある。

山田の旧道口 標高: 39.5m MAP 4km以内の寺社検索

旧道途中 - 亀の尾峠に向って撮影
旧道途中 - 亀の尾峠に向って撮影 

旧道口は伏見宮より300mほど先の国道385号線の脇にある。

ここより短い坂道を登れば、平坦な山裾の道に入る。 車の古い轍跡はあるようだが、草が繁茂。疲れもあり、危険も感じて前進を断念。(2021-11-29)

写真はちょうど中間点あたり。

広瀬地蔵堂 標高: 64.8m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵堂
地蔵堂 
遠景(左右方向の県道385号線は肥前街道)
遠景(左右方向の県道385号線は肥前街道) 

広瀬地蔵堂那珂川八十八ヶ所霊場第50番札所である可能性が非常に高いと思われる。

延命地蔵堂 標高: 69.0m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵堂
地蔵堂 
地蔵堂前の国道385号線(左手に御堂が見える) - 亀の尾峠に向って撮影
地蔵堂前の国道385号線(左手に御堂が見える) - 亀の尾峠に向って撮影 

延命地蔵堂那珂川八十八ヶ所霊場第47番札所である可能性が非常に高いと思われる。

埋金の庚申塔 標高: 86.6m MAP 4km以内の寺社検索

庚申塔前の街道(左手に庚申塔) - 亀の尾峠に向って撮影
庚申塔前の街道(左手に庚申塔) - 亀の尾峠に向って撮影 
庚申塔
庚申塔 
庚申塔(拡大)
庚申塔(拡大) 
脊振山系の山々 - 庚申塔を背にして撮影
脊振山系の山々 - 庚申塔を背にして撮影 

このあたりは、のどかな田園地帯となっている。

光蓮寺参道口 標高: 83.5m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 
しだれ桜
しだれ桜 

光蓮寺は梅金山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。

境内のしだれ桜はなかなかのものである。

一ノ瀬の石塔 標高: 85.4m MAP 4km以内の寺社検索

石塔「南無大師遍照金剛」
石塔「南無大師遍照金剛」 
石塔前の肥前街道 - 亀尾峠に向って撮影
石塔前の肥前街道 - 亀尾峠に向って撮影 
遠景
遠景 
超遠景(左右方向の道は肥前街道)
超遠景(左右方向の道は肥前街道) 

この石塔は街道より少し離れ、崖の中腹に立っている。 「南無大師遍照金剛」と刻まれている。

石塔の右上済に建立銘が刻まれているようだが、判読不能。

この裏手の山中に東風山 南林寺跡がある。地元の人は南嶺寺(なんれいじ)と呼び鎌倉時代に建立された禅寺であると云われる。 境内には宝篋印塔・石塔(九州探題渋川万寿丸の墓といわれる)などがある。 裏山には10数体の磨崖仏がある。 (『那珂川町の歴史探訪』より)

当石塔も南林寺ゆかりのものなのだろうか?

一ノ瀬の日吉神社 標高: 87.3m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 
門前の肥前街道(日吉神社の参道口は右手手前)
門前の肥前街道(日吉神社の参道口は右手手前) 

日吉神社の鎮座の歴史は不詳。分かり次第追記します。

境内に観音堂・地蔵堂がある。

街道はこの先、左にカーブする。

一ノ瀬薬師堂 標高: 92.3m MAP 4km以内の寺社検索

薬師堂(一ノ瀬の風景が見える) - 裏手より撮影
薬師堂(一ノ瀬の風景が見える) - 裏手より撮影 
超遠景(赤線は肥前街道) - 国道385号線より撮影
超遠景(赤線は肥前街道) - 国道385号線より撮影 

一ノ瀬薬師堂那珂川八十八ヶ所霊場第33番札所(本尊:薬師如来)となっている。

つっぱり石 標高: 92.9m MAP 4km以内の寺社検索

つっぱり石と街道
つっぱり石と街道 
つっぱり石
つっぱり石 

昔の子ども達は、次の日が晴れて欲しい時は、この大石を竹などでつっぱり、 雨になって欲しい時は、この手前の小さな溝の水をかき混ぜて濁らせていたという。

「つっぱる」竹の画像が市ノ瀬、つっぱり石: 神社散策で気分転換のページに掲載されている。

道標1 標高: 95.8m MAP 4km以内の寺社検索

道標
道標 
道標脇の街道(→の位置に道標)
道標脇の街道(→の位置に道標) 

道標は三叉路の所に設置されている。

『那珂川町の歴史探訪』に掲載されている街道の経路図と照らし合わせると、この道標はここより南側に100mほどの所にあるのが正しいように思える。

作者もこの道標に従って進み、峠の手前までたどり着けた。 この道標は昔の街道上ではなく、現代の街道歩き人の為に設置されているのかも知れない。

道標2 標高:192.8m MAP 4km以内の寺社検索

道標2地点
道標2地点 
道標
道標 

ここから民家は途切れ、本格的な山道となっている。

道標1からこの地点までは急激な上り坂(距離約500mで高低差約100m)となっている。

踏査断念地点 標高:208.3m MAP 4km以内の寺社検索

踏査断念地点
踏査断念地点 

この地点で踏査を断念。 道はまだ舗装されてはいるが、歳のせいか心細くなった。

同行する人が見つかれば再度チャレンジしよう。

亀尾峠 標高:387.9m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

踏査再開地点 標高:309.4m MAP 4km以内の寺社検索

①石畳と思しきものが確認できる
①石畳と思しきものが確認できる 
②
② 
③
③ 
④石畳
④石畳 
⑤
⑤ 
⑥石垣
⑥石垣 
⑦
⑦ 
⑧前方に国道385号線が見える(赤丸内に道標)
⑧前方に国道385号線が見える(赤丸内に道標) 

亀の尾峠を越えた地点から国道385号線と交差する地点までについて述べる。

亀の尾峠を目指し、峠の南側の国道385号線から街道を少し登(戻)ってみた。

石畳・石垣などを確認できた。 街道は杉林の中を進んでいる。見通しは想像していたほど悪くない。

写真は峠から下る順に番号を振っています。 番号は次の道標の項に続いています。

道標 標高:279.5m MAP 4km以内の寺社検索

⑨道標
⑨道標 
⑩国道385号線を跨ぐ(赤丸内に道標)
⑩国道385号線を跨ぐ(赤丸内に道標) 
⑪右手の道路は国道385号線
⑪右手の道路は国道385号線 
⑫
⑫ 
⑬ここで道は南畑ダム湖に沈む
⑬ここで道は南畑ダム湖に沈む 

街道はこの地点で国道385号線を跨ぐ。

その先まで街道の痕跡は残っていた。

国道を跨ぎ道跡と思しき道(20mほどか?)を進むと程なく、街道は南畑ダム湖に沈んでいる。

なんとも、やるせない気持ちになる。

街道はこの先、次の街道復活地点までは湖の底を通っている。

街道復活地点 標高:281.2m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

綱取の山神社 標高:292.6m MAP 4km以内の寺社検索

山神社鳥居(左隅の赤丸の所に舟地蔵)
山神社鳥居(左隅の赤丸の所に舟地蔵) 
舟地蔵の祭壇
舟地蔵の祭壇 

山神社の境内には舟地蔵も祀られている。

舟地蔵はダム建設で水没した綱取のバス停近くに祀られていたものをここに運んで来たという。

旧道口(五ケ山) 標高:409.0m MAP 4km以内の寺社検索

坂本峠に向かう道
坂本峠に向かう道 
坂本峠に向かう道の入口
坂本峠に向かう道の入口 
坂本峠に向かう道の入口(全面通行止め)
坂本峠に向かう道の入口(全面通行止め) 
五ケ山ダム
五ケ山ダム 
水没している旧道
水没している旧道 

ここから先は2012年に霊仙寺趾に参拝のおり何度か通った道である。 五ケ山ダムの工事のせいか当時はこのあたりから坂本峠方向は旧道で狭い道であったと記憶している。

この場所が肥前街道のルートに乗っているかどうか確証が持てない。

近くには水没した舗装道路の跡も見られる。

坂本峠 標高:531.5m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

霊仙寺東口 標高:494.3m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

御陵橋 標高:445.9m MAP 4km以内の寺社検索

御陵橋
御陵橋 
乙護法堂
乙護法堂 

この地点はすでに霊仙寺の境内である。 詳しくは霊仙寺跡のページをご覧ください。

霊仙寺南口 標高:367.6m MAP 4km以内の寺社検索

霊仙寺南口
霊仙寺南口 

街道はここより山道に入る。

ここより、修学院の手前までは未踏査。

修学院北側の街道 標高:165.7m MAP 4km以内の寺社検索

①街道途中(ここより前は前進を断念)
①街道途中(ここより前は前進を断念) 
②街道(この先は明るくなり、民家がある) - 修学院に向って撮影
②街道(この先は明るくなり、民家がある) - 修学院に向って撮影 

この地点より100m程前の地点は国道385号線と重なっている。 現在はその場所は高架となっており、国道385号線から街道に降りることが困難。 やむなく、修学院の上手から街道を逆方向に登り、右写真①の地点(この場所)までたどり着く。

街道はこの上(坂本峠方向)にもさらに続いているが、心細くなり前進を断念。 この地点より、修学院の上で国道385号線と再び合流する地点までの道幅は狭いがコンクリート舗装されている。近年まで利用されていたのだろう。

修学院 標高:114.5m MAP 4km以内の寺社検索

山門
山門 
本堂
本堂 

修学院は背振山と号し、天台宗の寺院である。

背振山の霊場のうち下宮にあたるという。 中宮は霊仙寺趾、上宮は背振山頂にあったという東門寺と言われている。

松隈の地蔵堂 標高: 99.7m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵堂
地蔵堂 
地蔵菩薩
地蔵菩薩 
地蔵堂前の街道(地蔵堂は右手) - 上石動に向って撮影
地蔵堂前の街道(地蔵堂は右手) - 上石動に向って撮影 

地蔵堂が三叉路の脇に立っている。

御堂内には地蔵菩薩(石仏)が1体祀られている。

上石動地蔵菩薩 標高: 56.5m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵堂 - 上手の県道46号線より撮影
地蔵堂 - 上手の県道46号線より撮影 
地蔵菩薩板碑(水引地蔵、部分拡大)
地蔵菩薩板碑(水引地蔵、部分拡大) 

上石動地蔵菩薩は地元では「水引地蔵」と呼ばれており、干ばつ時の水引争いの犠牲者の霊を慰めるために祀られたと伝えられている。

上石動天満宮 標高: 53.2m MAP 4km以内の寺社検索

全景(右端の建物が仏堂)
全景(右端の建物が仏堂) 
地蔵堂
地蔵堂 

上石動天満宮の縁起等は不詳。分かり次第追記します。

境内には地蔵堂・仏堂がある。

街道はこの三叉路を左にカーブする。

下石動天満宮 標高: 40.8m MAP 4km以内の寺社検索

社殿(両サイドにイチョウの大木)
社殿(両サイドにイチョウの大木) 
ニの鳥居(肥前鳥居、寛文2年(1662)の造立銘)
ニの鳥居(肥前鳥居、寛文2年(1662)の造立銘) 
薬師如来(右手の指が欠損) - 薬師堂内
薬師如来(右手の指が欠損) - 薬師堂内 
門前の肥前街道
門前の肥前街道 

下石動天満宮は元亀3年(1572)壬申8月25日に勧請された。

境内の薬師堂は神埼八十八ヶ所霊場第55番(本尊:薬師如来)となっている。

当ページはこの地点を終点とする。 中世のことはわからないが、近世以降は街道は、この先長崎街道神埼宿、あるいは中原宿に通じていたものと思われる。

脚注