久留米城下くるめ(旧:筑後国有馬藩領 現:福岡県久留米市旭町)

概要

本丸御殿跡(左手は篠山神社社殿)
本丸御殿跡(左手は篠山神社社殿) 
石垣
石垣 

ここでは久留米城下から日田へのルートは札の辻⇒高良大社参道口府中北追分⇒・・・・⇒日田の経路をたどる。 途中、高良大社参道口⇒府中北追分の間は薩摩街道の経路と重なっている。 この途中の経路については府中宿[薩摩街道]のページを参照のこと。

ここでは久留米城から次の高良大社参道口の手前までのルートを掲載する。 久留米城下の詳細な経路は資料不足でわからない。

経路

久留米城 標高: 18.7m MAP 4km以内の寺社検索

篠山神社社殿
篠山神社社殿 
本丸御殿跡(左手は篠山神社社殿)
本丸御殿跡(左手は篠山神社社殿) 
石垣
石垣 
廃城直前の久留米城をとらえた唯一の写真(1870年代前半)。坤櫓(左)と巽櫓(右)が写っている - Wikipediaより引用
廃城直前の久留米城をとらえた唯一の写真(1870年代前半)。坤櫓(左)と巽櫓(右)が写っている - Wikipediaより引用 

永正年間(1504-1521)この地の土豪が篠原城と称した砦程度のものを築いたのが始まりと言われる。

天文年間(1532-1555)は豊後国の大友宗麟と肥前国の龍造寺隆信が争っており、この地は双方の勢力が拮抗する場所で度々城主が入れ替わった。

関ヶ原の戦い後、筑後国に田中吉政が封じられ柳川城を本城とした。久留米城は柳川城の支城とし二男の吉信を城主とした。その後、一国一城令により廃城となる。

元和6年(1620)吉政の子、忠政は嗣子なく没し、筑後柳川藩田中氏は改易となった。

元和7年(1621)有馬豊氏がで当地方に封じられた。豊氏は、廃城も同然にまで荒れ果てた久留米城を、隣国の筑前国福岡城主黒田長政の助力も得ながら、筑後の要の城に相応しく大規模に拡張した。 2代藩主有馬忠頼の代にも外堀の浚渫や掘り直しが行われるなど城郭の整備が続き、元禄4年(1691)4代藩主有馬頼元の代になって漸く城郭が完成した。

明治4年(1871)の廃藩置県により久留米城は廃城となった。 明治12年(1879)本丸御殿跡地に篠山神社が建造された。(以上 久留米城 - Wikipediaより)

本丸御殿のあった平坦面は石垣の箇所に手すりなどが設置されていない箇所がある。 うっかりすると転落のおそれがある。子供連れの方は特にご注意。

札の辻 標高: 12.5m MAP 4km以内の寺社検索

札の辻
札の辻 

「商工会議所」信号が札の辻と思われるが、当時の遺構・石碑・案内板等は確認できない。

当場所が本当に「札の辻」なのか心配になってきた。(泣)

次は府中宿である。