雑餉隈(旧:筑前国御笠郡山田村・井相田村 現:福岡市博多区)
概要
雑餉隈は、福岡城下・博多と二日市宿の間の宿であったようである。
『筑前國続風土記』巻之9 御笠郡下に下記の記事がみられる。
○雑餉隈
御笠森の西にあり。 宰府へゆく大路に町あり。 此町両郡2村にかかれり。 東側は當郡山田村に属す。 西側は那珂郡井相田村に属せり。 此所宰府参詣の人の足を休むる所にて、 酒食を品々あきなふ、肆[1]ある故、 雑餉隈[2]と名付けるにや。 又むかし太宰府官人の雑掌[3]居たりし所なるか、いぶかし。 町の北のはしに西へゆく道あり。 是より春日原を通りて、城下薬院口に行く、 其道近し。
経路
山田4丁目信号 標高: 17.3m MAP 4km以内の寺社検索
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二日市側から来ると、ここで福岡城下の薬院口へ行く道(薬院口道、県道49号線)と、博多へ行く道(博多道)とに分岐したという。 右写真は北西方向に向って撮影している。 画面左手の道が薬院口道、右手が博多道である。
街道筋にあったと言われる観音堂は、 今は20mほど西側の裏通りに移動されているという。平安期の作の木造の観音像である。 お見逃しなく。
[右の挿絵のメモ]描かれている道は下から井相田村(那珂郡)→山田村(御笠郡)→筒井村(御笠郡)の順で描かれている(北西から南東方向)。 筒井村の手前には九郎天神社が描かれている。 御笠森も描かれている。 この辺りは雑餉隈(那珂郡)・山田村(御笠郡)・筒井村(御笠郡)が一体となって町を成していたという。
地蔵堂 標高: 17.8m MAP 4km以内の寺社検索
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地蔵様はタオルでほっかむりして鎮座されている。 地蔵様の後ろには墨書きされた板が二枚ある。 消えかかって自信はないが、「子育地蔵」と書いてあるようである。
恵比寿神社前 標高: 18.3m MAP 4km以内の寺社検索
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案内板によれば、鎮座の初めは不詳とのこと。 このあたりは博多と二日市宿とのちょうど中間に位置し、間の宿として旅籠、茶店、日用雑貨の商店が軒を並べた所。 商売繁盛の神、恵比寿様と防災・疫病の侵入を防ぐ塞神である愛宕様を勧請したという。
郡境石 標高: 18.9m MAP 4km以内の寺社検索
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郡境石は街道沿いの駐車場の所にひっそりと立っている。 境界石脇の道にはめ込まれている大野城市教育委員会の案内板によれば、 現在のものはレプリカで、本物は大野城市役所の歴史展示室に展示されているという。
街道に面した東面に「是従西那珂郡 東御笠郡」、 西面(裏面)に「文化丁丑歳四月」(文化14年(1817))、 南面に「筒井村抱」、北面には「井相田村抱」とある。
新川緑地 標高: 19.9m MAP 4km以内の寺社検索
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ここは公園となっており、園内に「古図でみる新川」「新川水路図」とそれぞれ題された案内板がある。 「新川」とは、現在はもう無いのか、地下に流れているのかは確認できていない。 この川の役割は、上座郡(朝倉)から福岡城下まで、運河を開き舟運の便を図ろうとするものであった。 二度チャレンジされたが、二度とも中断されたという。 寛文4年(1664)の計画は、筑後川の水を引き福岡城下まで水路を通すという遠大なものであったが、 工事困難な為に中断。 寛延2年(1749)には、二日市から博多川端まで区間を短縮して、 寛延4年(1751)に竣工したが、水量が乏しく10数年で廃止されたという。
『筑前國続風土記附録』の挿絵は当時のこの付近の鳥瞰図として描かれ、恵比寿神社前後の位置関係がほぼ、 現在のままであることを確認できる。
石ケ町橋の手前 標高: 20.3m MAP 4km以内の寺社検索
街道は、牛頸川に突き当り、この石ケ町橋の手前を右方向に牛頸川を登る。 その先は、県道112号線に合流し、瓦田橋を渡る。
東門跡 標高: 28.6m MAP 4km以内の寺社検索
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しばらく、県道112号線を通っていた街道はここで分かれ、狭い道に入る。 東門跡は、この水城3丁目の信号の所にある。
現在残る東門の遺構はわずかに、その礎石のみという。 この礎石は別名「鬼の硯石」と呼ばれている。 礎石のすぐ東側の小高い丘が、水城の一部である。 その上は展望所となっている。
礎石より街道を挟んで上水城薬師堂がある。
その先には、天平2年(730)12月、太宰帥大友旅人が太宰府を離れる時に遊行女婦と交わした歌碑がある。
姿見の井 標高: 29.1m MAP 4km以内の寺社検索
境内の案内板によれば、菅原道真が、昌泰4年(901)左遷され太宰府に入る時に、 水城の東門を通り、ここで衣服の着替をしたという。 その時、自分の姿を映した井戸(池)がこの井戸と伝えられるという。
衣掛天満宮 標高: 28.6m MAP 4km以内の寺社検索
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![]() | 『筑前名所図会』 |
境内の案内板によれば、創建は宝永年間(1704-0710)という (『筑前國続風土記附録』を引用)。 上の姿見の井にちなんで建てられたようである。 鳥居には文化9年(1812)の銘あり。 境内には、えびす像と思われる石に刻まれた線画がある。
『筑前國続風土記拾遺』巻之17 御笠郡 3 國分村の項に下の記述がみられる。
衣掛天満宮
國分町(本編に水城町に作る。)の東往還の側の高き所にあり。 所祭は菅神なり。 寛永の年(1624-1645)[4]村民花田氏衆人と力を戮せて爰に神祠を造立せり。 昔菅神の御衣を掛給ひしといふ石は町の南西人家の後に在。 (野石高5尺許石面に伽藍の形を刻成せり。) 上に堂を建て村民地蔵といふ。 町内に姿見井また鏡井といふあり。
上水城薬師堂 標高: 29.0m MAP 4km以内の寺社検索
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上水城薬師堂に安置されている薬師如来は石造りの坐像である。 傍らには日蓮宗のお題目が記された石塔が安置されている。
太宰府周辺は右の写真のように要所要所に道標が建てられており、散策者にはすごく親切である。
坂本仏堂 標高: 29.2m MAP 4km以内の寺社検索
坂本仏堂は参道口が街道脇にある。 少しわかりづらいかもしれない。
苅萱関址 標高: 27.8m MAP 4km以内の寺社検索
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街道沿の建物の陰にひっそりとある。 「苅萱関址」石碑と石製の説明書きの石碑があるのみである。 その石碑の内容をそのまま記載する。
苅萱関跡
古来、歌枕として知られ、伝説の「苅萱道心と石堂丸」ゆかりの地としても有名です。 ただ、古くからあったとしての様子は、現在のところ良くわかっていません。
確かな史料としては、室町時代、苅萱関で通行料を徴収していたことを示す文書があり、 また、この関を通った連歌師宗祇は「かるかやの関にかかる程に関守立ち出でて我が行く末をあやしげに見るもおそろし」 と書き残しています。
『筑前國続風土記拾遺』巻之17 御笠郡 3 通古賀村の項に下記の記事がみられる。
苅萱関址
関屋(坂本村の内)といふ所に西の田間にあり。 小墳を残して標に松1株立り。 名所なり。 新古今、類聚、藻塩草、夫本、宗祇筑紫紀行、玄旨法師紀行等に歌あり。 (後略)
この関の関守は、福岡市博多区石堂地蔵尊の物語の起源の場所でもある。
猿田彦・恵比寿像・阿弥陀像 標高: 27.4m MAP 4km以内の寺社検索
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ここには蜂子地蔵尊が鎮座している。境内の案内板の内容をそのまま記す。
この付近の地名は関屋といい、 中世まであったと言われる「苅萱関」に由来しています。
この前の道路は、江戸時代に整備された福岡と日田を結ぶ日田街道です。 関屋は太宰府天満宮参詣道が日田街道に合流する場所であったため、 茶屋が並び「往来の人しげきこと東海道も同じといへり」(菱屋平七「筑紫紀行」享和2(1802))と記されるほどの人々の往来があったようです。 その後、昭和のはじめ頃になると、 関屋の街道沿いには、 菓子屋、石屋、桶屋、魚屋、干物屋、飴屋などが建ち並び、賑を見せていました。
案内板の下部には『筑前名所図会』西都図第4と『筑前名勝画譜』の画像が添付してあり、 苅萱関所・猿田彦・太宰府天満宮の鳥居・関屋橋などの位置関係の解説がある。 現在もほぼその通りになっているようである。
太宰府天満宮鳥居手前 標高: 27.4m MAP 4km以内の寺社検索
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福岡城下あるいは博多から下って来ると、まっすぐ進むと太宰府天満宮、右に曲がり関屋橋を渡ると二日市宿方面である。
ここには、天満宮一の鳥居・元禄4年銘の道標、天満宮まで20丁(約2kmほどか?)を示す道標・関屋橋架橋碑・常夜灯などがみられる。
関屋橋 標高: 26.5m MAP 4km以内の寺社検索
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街道は関屋橋を渡り直ぐ左に曲がる。
都府楼前1号踏切 標高: 29.0m MAP 4km以内の寺社検索
街道はこの地点で西鉄天神大牟田線の都府楼前1号踏切を横切る。
東蓮寺跡 標高: 29.0m MAP 4km以内の寺社検索
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ここには東蓮寺(あるいは東連寺あるいは東林寺)が伽藍を構えていたようだ。
この寺の遺構と思われる東蓮寺薬師堂が西鉄大牟田線をはさんで少し東北側にある。
現在、この地は東蓮寺公園となっており、寺の礎石等の遺構は確認できない。
公園の入口には「旧小字 東蓮寺」「日田街道」の石碑がある。
「旧小字 北ノ橋」石碑 標高: 29.1m MAP 4km以内の寺社検索
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街道は脇に「旧小字 北ノ橋」と記された石碑がある。 その先は二日市宿である。
王城神社 標高: 28.5m MAP 4km以内の寺社検索
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当社は通古賀地区の中心であったようだ。 境内の案内板の内容をそのまま記す。
王城神社由来記
王城神社は、大国主命の子でえびす様としてあがめ親しまれている事代主命をお祀りしています。
王城神社の始まりは、天智天皇4年(666)、都府楼が建てられたとき、それまで武甕槌命と相殿で四王寺山に祀られていた事代主命を筑前国衙庄(現在の通古賀5丁目、旧小字扇屋敷)にお移ししたことに由来し、また、王城神社の名称は、王城山(四王寺山)の神として王城大明神と崇め奉られていたことによります(船賀法印「王城神社縁起」)。
そのご延喜元年(901)、都府楼南館(榎寺)に謫居の身となった菅原道真公をはじめとして、太宰府の盛衰を反映しながらも時の官人、武人たちの参詣を受けてきました。 しかし、神社の長い歴史の中では、戦火の余波をこうむることもしばしばで、たとえば天正6年(1578)には高橋紹運を攻めた秋月勢の兵火にかかって社殿が焼失しました。 このときは領主小早川隆景の寄進を受けましたが、宮田の寄進を始めとして氏子村民により祭礼や神社が支えられてきました。
近年では、王城神社は明治5年(1872)に旧水城村の村社に定められました。 現在も毎月1日に旧水城地区の各神社代表を交えて月次祭が、また春、夏、秋にはおこもりや夏祭り、宮相撲が行われ、九州で最も古いえびす様と尊称されながら現代を生き続けています。
平成23年(2011)10月吉日 王城神社氏子会
当社にはご当地の田中長者ゆかりの「田中橋」の石碑が残っている。 詳細は東蓮寺薬師堂の記事をご覧ください。
社殿に向かって左手のクスノキの根本の石に刻まれたえびす像は、当街道沿線および、長崎街道山家宿などでよく見かけるタイプのものだ。精細な線画が石に彫り込まれている。同一の石工の作と思われる。
次は二日市宿である。