志波宿しわ(旧:筑前国上座郡志波村 現:朝倉市杷木志波)

概要

須賀神社
須賀神社 

筑前21宿の内の一つと言われている。

筑前國続風土記』巻之11 上座郡の項に下記の記載がある。

志波(しは)(杷木(はきの)市)

むかし此所を(とおら)市の里と云。 後代に志波氏の人居たりし故に名付くと云。

志波に町あり。 豊後日向へ通る驛路也。 本村もあり。 うしろに左右良(までら)山あり。 前に千年川あり。

志波の町に毎年2月27日より市がたつ。 此事池田村に詳にしるす。 (以下略)

同じ『筑前國続風土記』巻之11 上座郡 池田村の項に概略下記の記載がある。

池田村の把伎二所大明神前で毎月27日に「把伎(はき)の市」が開催されていたが、 畑の耕作に支障がありいつの頃か久喜宮に移された。 その後栗山大膳が志波の町を盛りたてるためにここ志波に移した。 その為に昔は志波で開催されていた市も「把伎の市」と呼ばれていたという。 池田村はここ志波より東4kmほどの所にある。

志波宿の北側には古刹である廣大山 普門院, 龍光山 円清寺が伽藍を構えている。

参考:『筑前國続風土記拾遺』

経路

志波郵便局前 標高: 48.7m MAP 4km以内の寺社検索

向かって左が郵便局、正面が光宗寺
向かって左が郵便局、正面が光宗寺 

僅かではあるが古い町並みが残る。 志波宿は所謂構口などの痕跡は見当たらない。 従って、宿場の入口・出口もはっきりしない。 とりあえず、この付近を入口と考えよう。

光宗寺 標高: 50.2m MAP 4km以内の寺社検索

山門
山門 

街道はここを右に直角にカーブする。 光宗寺は足立山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。

反対に左に曲がると普門院円清寺が伽藍を構える地区に向かう。

黒川・小石原追分 標高: 48.4m MAP 4km以内の寺社検索

追分 - 街道は右に進む
追分 - 街道は右に進む 
追分を少し過ぎたあたりの石仏
追分を少し過ぎたあたりの石仏 

街道はこの追分を右に進む。 左はどうやら小石原に通じる道のようである。

追分を少し過ぎ、須賀神社の手前の右側の街道端には石櫃に収められた石仏2体が鎮座している。 この地区は山側に行くとここ以外にもこのような光景が見られる。

須賀神社 標高: 49.8m MAP 4km以内の寺社検索

束額
束額 
神社前の街道(先に見えている山は高山) - 久喜宮宿に向かって撮影
神社前の街道(先に見えている山は高山) - 久喜宮宿に向かって撮影 

鳥居前には文久3年(1863)銘の石柱がある。

下に門脇に掲げられている案内板の内容を引用する。

上町(かんまち)〜祇園祭りでの祈祷"大般若"〜

7月16日、須賀神社前に飾り山が出来、 17日に山笠祭典が執り行われますが、 上町区では、16日の夜に大般若の行事が行われています。

大般若とは、その昔、黒田藩(福岡)で疫病が流行って多くの人達が苦しみ、 また、死んで行くので当時の黒田藩の藩主が始めた祈祷だと言われています。

志波での始まりは、当時黒田藩の家老であった栗山備後利安(大膳の父)が治めていた頃、 志波でも疫病が流行ったので、藩主が行なっていた祈祷を志波でも始めたとされています。

当時、禅寺の円清寺では、施餓鬼棚を担いで供養して廻ったという事です。 その後、お寺ではなく、多くの人が祈祷を受けることができるように、 お寺から持ち出して行われるようになったと言われています。 和尚より祈祷した経典の風に触れる事でその年が無病息災であると言い伝えられ、 近所、近在の多くの人達が集まり、 大変な賑わいとなり、また、祭りとなり、山笠となったと云い伝えられています。

平成19年3月 志波地区コミュニティ協議会

大膳楠 標高: 36.5m MAP 4km以内の寺社検索

大膳楠前の街道 - 久喜宮宿に向って撮影
大膳楠前の街道 - 久喜宮宿に向って撮影 
大膳楠
大膳楠 

楠は国道386号線から南側に分岐した直ぐ先の街道右脇にある。 街道脇の案内板の内容を記す。

大膳楠

この所は、香山の淵で昔大きな池があり、 円清寺本尊鴛鴦観音の主人公三原弾正貞吉鴛鴦(おしどり)を射たのもこの所である。 後年、黒田藩の忠臣栗山大膳が大亀を射殺したのもこの楠の所からと言われている。

当時の楠は延宝7年(1679)に焼失、その根元より生じたのが現在の楠である。

杷木町観光協会 平成3年9月

参考:『筑前國続風土記拾遺』

小堂と墓地 標高: 35.6m MAP 4km以内の寺社検索

真新しい木造の小堂
真新しい木造の小堂 
小堂前の街道 - 久喜宮宿に向かって撮影
小堂前の街道 - 久喜宮宿に向かって撮影 
「四国八十八箇所」と記された石塔
「四国八十八箇所」と記された石塔 
街道南側の風景(先に道の駅原鶴が見える)
街道南側の風景(先に道の駅原鶴が見える) 
道の駅原鶴前のヒマワリ(前方の山は高山)
道の駅原鶴前のヒマワリ(前方の山は高山) 
道の駅原鶴前の先の小堂
道の駅原鶴前の先の小堂 

ここには、真新しい木造の小堂とその周辺にはかなり古い墓石がある。 中には延享3年(1746)の日付のものもある。 小堂は扉が閉められており内部の確認はできなかった。

その脇には「四国八十八箇所」と記された石塔がある。石塔脇には高山への登山口と思しき道がある。 もしかしたら、この山上にある報恩寺(香山昇龍大観音)へ通ずる道かもしれない。

ここから、南側300mほど田畑の中の道を進むと道の駅原鶴がある。 ここで販売されている、ブドウ(巨峰他)・リンゴ・柿(志波柿)の味は絶品である。

一本木地蔵堂参道口 標高: 35.4m MAP 4km以内の寺社検索

参道口 - 日田に向かって撮影
参道口 - 日田に向かって撮影 

地蔵堂は田んぼのど真ん中にある。 毎年5月21日の縁日の行事は、今でも近在の方々が食べきれないほどの手造りのごちそうを持ち寄って盛大に行われるという。

恵比寿像 標高: 37.4m MAP 4km以内の寺社検索

恵比寿像
恵比寿像 
裏面
裏面 
裏面拡大(「宝歴」の銘)
裏面拡大(「宝歴」の銘) 
恵比寿像前の街道(左手が恵比寿像) - 日田に向かって撮影
恵比寿像前の街道(左手が恵比寿像) - 日田に向かって撮影 

恵比寿像は民家の前に鎮座している。裏面に宝歴(1751-1764)銘あり。 恵比寿像前後の街道は平坦な道となっている。

ここを過ぎれば、ほどなくして久喜宮宿である。

『筑前國続風土記拾遺』巻之21 上座郡(上)

志波村

民居10組にして20餘處に分る。 本村(紫雲菴 枇杷田 迫 松葉 属之) 赤坂(立屋敷 属之)(比恵牟 只越 梅ケ谷 鳥山 属之) 動目木(石堂 奥ノ丸 柏原 柚木 山神 平 属之) 塚原(尾迫 井手ノ上 属之) 岡本(江栗 原 属之) 香山(原鶴 船端 宮原 祇園寺 属之) 政所(前熊 里城 布口 属之) 笹尾(岩下 狐原 平原 属之) 志波町(正覚 京ノ木 属之) 等にわかれたり。 また瀬戸と云て村あり。

往昔は凡て遠市里と云しが斯波氏の人居たりし故に村の名となれり。 南ノ方大川の向ひに當村の地野地と畠と有て筑後國小江村に堺へり。 (野地の所を網渡(あど)傍示場と云。 8450坪あり。 夫より川ノ中央を國堺として下ること凡2町餘にして又川向ひに畠あり。 そこを三股窪、上中島と云。 古畠3町5反4畝ほどありて山田村の川向ひの畠に續けり。 往古は畠野地つづきたりしか共元禄13年に南國の民堺を争ひ終りには争いの地を等分にわかち半を當村に属し、半を筑後國小江村に属す。 その分ちたる時川下の方を小江村ノ方に附しかは今は畠と野地とは別れて志波村より地續かず。) 宮の下に渡舟あり。 西は山田村に隣りて上郷、下郷の堺なり。 町は豊後國日田への往還にて宿驛なり。 福岡より道程11里あり。 當村宝満宮の天文18年(1549)の棟札に杷木郷志波村とあり。 其頃は1郷なりしと見ゆ。 然るに今は村東久喜宮村堺に蛇谷と云所有て杷木郷と志波との堺とす。

香山の東往還の側に大楠あり。 昔の楠は10圍許有しか共延宝(1673-1681)年中に本木は枯て其株より生出たるが今に在。

此處に當昔香山淵とて深淵ありて水面に鴛鴦[1](うかび)居たりしを三原弾正貞吉と云者 射殺せし事あり。 又栗山大膳(かめ)[2]を鐵砲にて撃たりし事あり。 其時大雨(にわか)に降り洪水出て淵(ふさ)がりぬ。 其鼈祟をなせし故とて経を踊し塚を築き鼈の殻を収めて鼈塚と云。 詳に本編に見ゆ。 今鼈塚の所在さたかならす。 香山の邉ハフタと云所に香塚と云あり。 若は是ならむや。

原鶴に大池址あり。 古へ千歳川の邉に大蛇潜り棲て人に害をなせし故に斯波時勝と云士射殺せしと云。 今は僅なる池なり。 時勝は千代島と云所に居住せしと云。

また平の上2町許所に鹿蹄石とて有。 径2間許の円石なり。 其石に白理大小2筋あり。 帶襷と号す。 其石の上鹿蹄の形附ける故に号く。

脚注