二日市宿(旧:筑前国御笠郡二日市村 現:筑紫野市二日市)
概要
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二日市宿の周辺の宿駅は、福岡城下・博多、長崎街道山家宿・原田宿、 宰府である。 福岡・博多の人々は陸路で長崎方面へは、 二日市宿を経由して、山家宿あるいは原田宿より長崎へ下った。 また、天領日田方面から甘木宿経由で福岡・博多への往来も多かったのではなかろうか? 宰府は二日市宿より至近距離の為、ここに立ち寄った旅人は宰府詣もしたのではなかろうか? このように、江戸期は国中の交通の要衝のひとつであったと思われる。
『筑前國続風土記拾遺』巻之17 御笠郡 三に下記の記事がみられる。
二日市村(名義本編に出たり。)
民居は1所に町をなせり。(外に野添に作出1戸有) 宿驛にして國君の行館あり。 2水は武蔵村よりいで1水は紫村より来る。 各村下似て1にあふ。 此下流本編に載たる白川なり。 (近邉宰府村の境内に垣内といふ圃あり。 昔檜垣嫗か住し屋敷址といふ。) 又村の東8町はかり(田野際)に大岩3あり。 鯰石といふ。 (里人傳説あれといたつかはしけれはもらしぬ。) 又沓石(池田)といふもあり。 白川は名所なり。 後撰并に檜垣集に歌あり。(後略)
ここでは、東構口から、次の甘木宿までの街道について記述する。 宿場内の各ポイントの情報は『日田街道 - その歴史と美-展』による。 宿場内は前コースGoogle Street Viewが可能です。 こちらもお楽しみください。
経路
東構口(推定地) 標高: 31.8m MAP 4km以内の寺社検索
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関屋から南下してきた街道はここで、鷺田川に架かる迎田橋を渡る。 この地は宿場の西側を流れる鷺田川と東側を流れる高尾川が合流する地点である。 迎田橋を渡ったあたりが東構口があったと推定される場所という。 現在は構口の遺構はなにも存在しない。
迎田橋の手前には、庚申塔と明治14年銘の橋の記念碑がある。
正行寺前 標高: 31.0m MAP 4km以内の寺社検索
正行寺は竹原山と号し、浄土真宗東本願寺派の寺院である。 境内には三重塔がある。 この地区一番の広い寺域の寺院である。
下町の恵比寿神社 標高: 32.0m MAP 4km以内の寺社検索
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恵比寿神社は正行寺の寺域のすぐ南側に鎮座している。 建物内には、自然石に恵比寿像が線画で描かれているようである。 写真で輪郭がはっきりしているのは、塗料でその線をなぞっている為のようである。 恵比寿像の上部には色鮮やかな飾りが下げられている。 (表の扉が閉ざされており、扉の格子越しに撮影のため、写真が少しぼやけている。)
この向かい側には町茶屋があったという。 『日田街道-その歴史と美-展』によれば、 「天明8年(1788)正月、二日市宿御茶屋奉行の寺田正左衛門が大賀善兵衛の屋敷の半分を買い上げ、 二日市宿の町茶屋にした」との記事がある。
ゑびす醤油 標高: 33.3m MAP 4km以内の寺社検索
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ここまで一直線に進んできた宿場内の街道は、このゑびす醤油の先で左に直角にカーブする。 さらにその先の大賀酒造場の入口を右に直角にカーブする。 これを鉤の手あるいは枡形という。 攻めてくる敵の視界を遮り、直線的な侵入を防ぐ目的の構造である。
ゑびす醤油はホームページによれば、明治10年(1877)創業で、 現社長は四代目という。 看板が色鮮やかでなかなか良い。
大賀酒造場 標高: 32.0m MAP 4km以内の寺社検索
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『日田街道-その歴史と美-展)』によれば、 「二日市村大庄屋、同庄屋を務めた。酒造業は大賀仁四郎が延宝元年(1673)に始めたと伝えられる。」 との記事がある。
宿場内の街道は、ここまでが「下町」。 ここからは「中町」である。 中町は所々に露店の花屋・魚の干物屋・漬物屋などが出て少し昔の風情を感じられる通りである。
御茶屋・郡屋跡 標高: 32.9m MAP 4km以内の寺社検索
この西側の街道脇には郡屋、西側には御茶屋があったという。 現在はその遺構は皆無である。
札の辻(二日市八幡宮) 標高: 32.8m MAP 4km以内の寺社検索
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昔はこの辻の先は行き止まりで、そこには御茶屋奉行役宅があったと推定されている。 街道はここで左に直角にカーブ。 西構口に向かう。
街道脇には、二日市八幡宮への参道口がある。 八幡宮の鳥居脇の道は、 湯町(二日市温泉)に通ずる道である。 八幡宮の社殿は藩主黒田忠之の建立という。
ここの神木のイチョウの木は筑紫野市指定文化財となっており、 下のような言い伝えがあるという。 境内の案内板の内容を下に記す。
天正14年(1586)島津義久の率いる薩摩勢は高橋紹雲が守る岩屋城を攻め落とし、 その帰りにこの公孫樹を伐り倒そうとしました。 このとき長百姓惣左衛門の妻とやまだ家の老婆が駆けつけ、 老婆が「これは当所の氏神八幡宮の神木なり、 たちまち御罰を蒙るべし」といい、 そのまま木に抱きつき「この木を伐り申さば先ずこの姥を伐り、それよりこの木を伐り候え」 と言い放ったところ、伐り倒そうとした者たちは、 その勢いに怖れたのか、 斧を棄てて立ち去ったといわれています。
別の案内板によれば、この老婆は御年80歳であったという。
西構口(推定地) 標高: 32.8m MAP 4km以内の寺社検索
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右写真のように構口の遺構は何も無い。
六地蔵 標高: 38.5m MAP 4km以内の寺社検索
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街道はここまでは少し上り坂である。
六地蔵境内には、六地蔵、大師堂、地蔵堂がある。 石段脇にはクスの大木がみられる。
松尾神社 標高: 44.1m MAP 4km以内の寺社検索
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『筑前國続風土記拾遺』巻之18 御笠郡 四 石崎村の項に下の記事が見られる。
松尾社
村内にあり。 大山咋命を祭る。 祭禮9月15日奉祀ハ修験者(竈門山派)泰養院なり。
境内では拝殿・本殿の他、えびす像・梵字石・庚申尊天・小堂などが見られる。
松尾宮のページもご覧下さい。
境内は地元の方々のゲートボールの練習場にも利用されているようである。
針摺石観音堂参道口 標高: 41.3m MAP 4km以内の寺社検索
ここより北側に道なりに50mほど行くと、針摺石観音堂がある。傍らには菅原道真ゆかりの針摺石がある。
宰府参詣道口(原田口) 標高: 39.6m MAP 4km以内の寺社検索
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ここを右折すると、長崎街道原田宿に至る。 長崎街道から宰府参りの参詣道の始まりである。
ここには、石灯籠など遺構は確認できない。
太宰府参道常夜灯 標高: 35.0m MAP 4km以内の寺社検索
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この常夜灯は、長崎街道山家宿からの太宰府天満宮の参詣道の道標の役割をはたしていたと思われる。 参詣者達はここより街道沿いに西に向かい、針摺の推定宰府参詣道口より参詣したと思われる。
常夜灯の建立年などの銘は確認出来ない。
中台に「太宰府」の文字、竿に「天満宮」の文字、基礎部に「水月連中」の文字、 基礎部に寄進者銘がびっしりと刻まれている。
周辺はのどかな水田地帯となっている。
地蔵菩薩 標高: 50.1m MAP 4km以内の寺社検索
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街道右手に鎮座。
えびす像 標高: 49.3m MAP 4km以内の寺社検索
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民家の敷地に鎮座している。
地禄神社 標高: 49.9m MAP 4km以内の寺社検索
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『筑前國続風土記拾遺』巻之18 御笠郡 四 天山村の項に下の記事が見られる。
地禄天神社
鞭掛にあり。 此所の産神也。 所祭埴安命也。 祭日9月26日奉祀ハ原田村の社人山田氏也。 鞭掛ハ山家また上座下座夜須郡などより福岡博多に至る要衝なり。
参道は幅2m足らずか? かなり狭い。 民家脇の参道の先にさらに両脇を林に囲まれた参道が続いている。 ヘビ嫌いな作者は本殿まで行く事を断念。 またお参りに行こう。
参道脇にネコちゃんが居ました。
郡境石 標高: 45.8m MAP 4km以内の寺社検索
「是従西御笠郡、東夜須郡」。
間方橋(山家川) 標高: 30.3m MAP 4km以内の寺社検索
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街道は一直線に甘木宿に向って進む。 周辺はのどかな田園地帯である。
橋の手前の道路脇電柱の横に「孝子弥四郎君の墓」(明治31年銘)がボツんと立っている。 墓碑が風化され「弥四郎」の「弥」の字に確証はないがほぼ間違いない。
この橋の手前の山家川の川沿いの道を南下すると朝日薬師堂があり境内に墓碑と石碑がある。 この地点から南方約1500mの地点の教覚寺に「孝子弥四郎翁遺髪塚」がある。
朝日の恵比寿像1 標高: 34.8m MAP 4km以内の寺社検索
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境内には、猿田彦石碑・恵比寿像が並んで安置されている。 そのすぐ甘木宿側の道端には孝子彌四郎の墓への道標が立てられている。 「従是南9丁30間」。この道標の示すであろう位置に朝日薬師堂があり境内に墓碑と石碑がある。
この地から南2000m程の所にある福王山 教覚寺には「孝子彌四郎翁遺髪塚」がある。
『筑前國続風土記拾遺』巻之19 夜須郡 上 朝日村の項に下記の記事がみられる。
此村に孝子有。 名を弥四郎といふ。 文政3年(1820)持来の田畠3段3畝生涯無年貢并に家内面役を除けられ殊に一人役は永年宥免せらるゝ由の命を受。
朝日の恵比寿像2 標高: 34.7m MAP 4km以内の寺社検索
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境内には猿田彦石碑と恵比寿像と、その西側には薬師堂がある。 薬師堂には、薬師如来石像と弘法大師石像が安置されている。 ここの猿田彦石碑と恵比寿像と上の朝日の恵比寿像1とは、外見上共通点が多い。 なぜこのような至近距離に二組が置かれているのか不思議である。
これとよく似たえびす像は、二日市宿内の下町の恵比寿神社、 長崎街道山家宿内の2つの恵比寿像、 それとその山家宿の西構口を出た所の恵比寿像を作者は確認している。 いずれも、同じ石工の作ではないだろうか?
古市彦太夫の墓 標高: 34.2m MAP 4km以内の寺社検索
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街道脇は広場となっており、南側の一角に大小あわせて5基の石塔が立っている。 またコンクリート製の小堂があり、その小堂中には石仏2体が安置されている。 このうち、彦太夫の墓はどれなのかは作者は分からない。 境内の案内板の内容を下に記す。かなり長文であるがこの中牟田地区の当時の様子を垣間見ることができる。
古市彦太夫の墓
中牟田は朝日村から分かれた村で、 村の形成と発展は用水確保の歴史でもありました。 室町時代の応永11年(1401)、この地にやって来た税田小四郎は上流の御笠郡山家村に「若宮井手」を築き、山家川から水を引いたと云います。 その後、天正年間(1573-1592)、「井手」は改修されています。 また、豊臣秀吉は朝鮮出兵のため、この村に「御蔵屋敷」を建て、兵糧米の備蓄をさせています。
江戸時代になって、村は福岡の黒田藩に属し、 宮崎藤右衛門(織部)という人が治めていました。 寛永18年(1641)、秋月藩でお家騒動が起こり、 福岡の黒田藩から藤右衛門を家老として迎え入れました。 その時藤右衛門の領地を動かさずに入国させたため、 中牟田村は秋月藩に編入(内証換え)されることになりました。
この宮崎家に古市彦太夫という家臣がいました。 彦太夫は村人たちが農業用水に苦労していることを知り、「若宮井手」をかさ上げして水量を増やし、下流の中牟田の下原まで水が届くよう大改修を計画しました。 彦太夫は「島原の乱」(1637-1638)で足を負傷していましたが、 輿に乗って工事を指揮し、無事完成させました。
万治2年(1659)、彦太夫は亡くなり、 水の配分をめぐってたびたび争いが繰り返されました。 そこで、水は「明六ツ(朝6時)から暮六ツ(夕方6時)までは山家村」、 「暮六ツ(夕方6時)から明六ツ(朝6時)までは中牟田村」が取水することを文書で改めて取り交わしました。
彦太夫の墓は街道沿いの「地輪なみ」という所にありましたが、 平成5年度の県営ほ場整備事業に伴って、 北東約100メートルの現在地に移築されました。 彦太夫は村の恩人として、今でも「古市さん」と親しみをこめて呼ばれ、 人々の生活を見守り続けています。(後略)
平成23年3月25日 筑前町教育委員会
石櫃・薩摩街道追分 標高: 32.7m MAP 4km以内の寺社検索
この地点の説明は、薩摩街道追分の項を参照のこと。
妙専寺 標高: 40.3m MAP 4km以内の寺社検索
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妙専寺は凉門山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。
當所神社 標高: 41.6m MAP 4km以内の寺社検索
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街道から神社境内へは坂道を10数m登った所にある。 表参道は、街道裏手(南側)となっている。 街道を挟んだ北側には大きな池がある。
『筑前國続風土記附録』巻之15 夜須郡 下 當所村の項に 「熊野権現社(カンダバシ 神殿5尺四方・拝殿2間2間半 祭礼11月13日・奉祀高野出羽)(以下略)」とある。
本殿前に置いてあったチラシ(表題「当所神社の歴史」)によれば次の通りである。 この村は秋月より2里、甘木より1里半。街道に面した絶好の休憩の場であった。 村内には鍛冶屋・桶屋・笠屋・飴屋・うどん屋・豆腐屋などがあり、 集落全体で一つの経済圏を確立した活気に満ちた村であったという。 また、当神社は「宝くじ祈願」の神社としても良く知られている。
この先街道は次の甘木宿に向かう。
多田家住宅 標高: 43.2m MAP 4km以内の寺社検索
多田家住宅表門 文化遺産オンラインによれば、 表門は登録文化財であるという。築年明治24年(1891)。木造、瓦葺、間口2.9m、潜戸付。
老松宮・光蓮寺 標高: 49.2m MAP 4km以内の寺社検索
老松宮はここより150mほど北側に鎮座している。境内の案内板の内容を下に記す。
老松宮
天正6年(1578)の冬、秋月種実と筑紫広門らが、御笠郡岩屋條の高橋紹運を攻めました。この時、秋月勢が誤って太宰府天満宮付近の人家に火をつけ、天満宮を焼失してしまい、そこで祟を恐れた種実が栗田の寺家に社を建ててご神体を移したのが、このお宮の起りです。
その後、天正19年(1591)に小早川隆景が、太宰府の社を再建し、御神体を戻すまでの14年間はこの地に鎮座していました。
そのあと、老松大明神をまつり、現在に至っています。境内は小さいながらも天満宮と同じように池や梅の木が配置されています。
平成22年3月 筑前町教育委員会
光蓮寺は英雲山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。ここより300mほど北側に伽藍を構えている。
松峽八幡宮・仏堂 標高: 51.5m MAP 4km以内の寺社検索
松峽八幡宮はこの辻を東北方向に500mほどの所に鎮座している。 境内の案内板の内容を下に記す。
松峽八幡宮
天徳4年(960)8月に左大臣藤原重直が社を建立し、佐々木左近重綱の両名が宮司に任命され、神領として500町もらった記録があります。
また、本神社の祭神である神功皇后の伝承地であり、羽白熊鷲との戦いのために「松峽宮」を建て、戦に赴き、戦に勝利した皇后が「心安し」といったことにちなんでこの地方を夜須と呼ぶようになったと伝えられています。
平成21年3月 筑前町教育委員会
『筑前國続風土記』巻之10 夜須郡の項に「栗田八幡宮」として記事がある。「(前略)9月25日祭あり。むかしは此日神行あり。今猶其行宮の森あり。御社より10町ばかり南にあり。叉御社の前に楠の古木あり其大さ5圍あり。」とある。
『筑前國続風土記附録』巻之15 夜須郡下 栗田村の項では、境内に大神宮・文殊堂・石仏があるという。
日田街道沿いの参道口とニの鳥居脇に仏堂があるようだ。
久光阿弥陀堂 標高: 49.8m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為、未稿。
道祖神 標高: 44.9m MAP 4km以内の寺社検索
ここは三叉路となっている。 右手が日田街道、左手は秋月街道から太宰府天満宮に向う宰府参詣道_秋月街道弥永口である。
三叉路には2基の石塔(道祖神ともう1基は不詳)がたっている、
西宮神社 標高: 41.1m MAP 4km以内の寺社検索
未踏査の為、未稿。