内牧宿うちまき(旧:熊本藩領内牧町 現:熊本県阿蘇市内牧)

概要

全景
全景 

内牧宿の詳しい歴史については、作者は詳しくはわからない。 わかって居ることのみ下に記す。

内牧宿の北側にあった内牧城には天正年間(1573-1593)には阿蘇氏の家臣・辺春盛道が在城した。

江戸期に入り、加藤清正領(熊本藩)となった後に増築・補強され、加藤可重(かとうよししげ)(加藤右馬允(うまのじょう)可重)と正方(まさかた)(加藤右馬允(うまのじょう)正方)の父子が城代を務めている。正方が八代城に移った後は慶長17年(1612)に加藤正直が岩尾城から当城に入ったが、元和2年(1616)の一国一城令で廃城となった。

内牧城の二の丸は手永会所となり、当地区の管理業務が行われた。 (以上 内牧城 - Wikipediaより)

宿場にはつきものの、出入り口を警備する番所・藩主の宿泊場所である御茶屋などの情報は作者は知らない。

ここでは、宿場の範囲を菅原神社から新町観音堂までと仮定する。

経路

菅原神社 標高:477.8m MAP 4km以内の寺社検索

内牧菅原神社(左)と阿蘇打越神社
内牧菅原神社(左)と阿蘇打越神社 
境内風景(右手に大杉・タブの巨木) - 社殿を背にして撮影
境内風景(右手に大杉・タブの巨木) - 社殿を背にして撮影 
門前の豊後街道 - 坂梨宿に向って撮影
門前の豊後街道 - 坂梨宿に向って撮影 
願掛者 - タブの巨木の根本
願掛者 - タブの巨木の根本 
相殿:阿蘇打越神社(参道両側に五輪塔が並んでいる)・
相殿:阿蘇打越神社(参道両側に五輪塔が並んでいる)・ 

境内の案内板の「由緒」の内容を下に記す。

当社は永禄(1558-1570)年間邊春丹波守盛道が内牧城を築きその守護神として菅原神社を城内に勧請した。

天正(1573-1592)の始め、島津義久の攻略に遭い落城した。

次いで、加藤清正公の家臣であった加藤右馬允可重が内牧城城代となり菅原神社を蛭池に遷し、更に慶長元年(1596)天松山満念寺と同一敷地に遷し以来、明治初年まで神仏混淆で満念寺の社僧が祭祀した。

明治4年(1871)郷社、同8年村社となる。明治17年(1884)11月焼失し同23年再建して今日に至る。

祭礼日:10月10日、神輿行列:10月第2日曜日。

境内には菅原神社と相殿:阿蘇打越神社の社殿が並んでたっている。 入口には樹齢500年といわれるタブの巨木・スギの巨木が立っている。

相殿:阿蘇打越神社の社殿前には多数の五輪塔が並んで立っている。神仏混淆のなごりだろうか?

10里木跡 標高:478.7m MAP 4km以内の寺社検索

10里木跡の道標
10里木跡の道標 
道標前の街道(道はクランク状に曲がっている) - 坂梨宿に向って撮影
道標前の街道(道はクランク状に曲がっている) - 坂梨宿に向って撮影 

ここには街道脇に「史跡 十里木の址」と記された道標があるのみである。

道標の記事によれば、昭和29年(1954)頃までは、ここには大榎がそびえ、空を覆っていたという。

街道はこの道標前後でクランク状に曲がり、東進する。

満徳寺 標高:478.8m MAP 4km以内の寺社検索

満徳寺本堂
満徳寺本堂 
満念寺観音堂
満念寺観音堂 
下町日除碑
下町日除碑 
満徳寺・満念寺の参道口前の豊後街道(両寺の参道口は右手、左手に下町日除碑)
満徳寺・満念寺の参道口前の豊後街道(両寺の参道口は右手、左手に下町日除碑) 
下町日除碑(拡大。「秋場大神」と刻まれている)
下町日除碑(拡大。「秋場大神」と刻まれている) 
下町日除碑脇のダリア
下町日除碑脇のダリア 

満徳寺は亀谷山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。

満徳寺の門前には天松山満念寺の観音堂が残っている。同寺は明治の廃仏毀釈によって廃寺となった。 阿蘇西国三十三カ所第5番(本尊:十一面観音)。

参道口の街道を挟んだ反対側には下町日除碑がある。

西地蔵堂 標高:478.9m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵堂脇の豊後街道 - 坂梨宿に向って撮影
地蔵堂脇の豊後街道 - 坂梨宿に向って撮影 
地蔵堂
地蔵堂 

地蔵堂は街道沿いの商家の側面にたっている。

御堂名「西地蔵堂」は作者が仮称しました。

明行寺 標高:479.0m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 

明行寺は霊芝山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。

明治32年(1899)8月、夏目漱石は山川信次郎とともに阿蘇登山をした。明治39年(1906)その体験を元に『二百十日』が発表された。 この短編小説に当寺が登場する。

浄信寺 標高:480.4m MAP 4km以内の寺社検索

全景
全景 
門前の豊後街道(参道口は右手) - 坂梨宿に向って撮影
門前の豊後街道(参道口は右手) - 坂梨宿に向って撮影 
こめや通り入口 - 参道口の向かい側
こめや通り入口 - 参道口の向かい側 
こめや通り内
こめや通り内 

浄信寺は了覚山と号し日蓮宗の寺院である。

建立は慶長9年(1604)とも言われるが異説あり。

参道口の豊後街道の向かい側には「こめや通り」がある。 うなぎの寝床のような細長いアーケード付き歓楽街である。 昔懐かしい風情がぷんぷん。 興味をそそられたが、この後の参拝・踏査の体力温存の為入口から覗くにとどめた。

東地蔵堂 標高:479.6m MAP 4km以内の寺社検索

地蔵堂前の街道(地蔵堂は写真の右側。写っていません。すみません。)
地蔵堂前の街道(地蔵堂は写真の右側。写っていません。すみません。) 
地蔵堂
地蔵堂 
この先のカーブ地点の橋から眺めた阿蘇中岳(と思われる。)
この先のカーブ地点の橋から眺めた阿蘇中岳(と思われる。) 

街道はこの地蔵堂の先を左に急カーブする。

カーブする地点には黒川に架けられた橋があり、その橋を渡れば内牧小学校がある。 この橋は少し高くなっており、そこからの眺めはなかなかのもの。

御堂名「東地蔵堂」は作者が仮称しました。

内牧新町観音堂 標高:480.6m MAP 4km以内の寺社検索

観音堂
観音堂 
観音堂内(中央が観音菩薩・左右が子宝地蔵)
観音堂内(中央が観音菩薩・左右が子宝地蔵) 

観音堂は内牧一区公民館の敷地の西の端にたっている。

以前より内牧小学校体育館裏に古い観音像が祀られており、地域の住民から厚い信仰を受けていた。同観音像は平成17年3月19日に全焼。

平成19年(2007)11月10日地域住民が新たに観音堂と観音像を建立。また、男児を抱えた地蔵尊・女児を 抱えた地蔵尊も建立し、観音堂内に安置した。

新町薬師堂 標高:480.5m MAP 4km以内の寺社検索

薬師堂(向って右手の扉内)
薬師堂(向って右手の扉内) 
新町火除面碑(左)と足手荒神 - 街道沿い
新町火除面碑(左)と足手荒神 - 街道沿い 
裏手の阿蘇外輪山の風景
裏手の阿蘇外輪山の風景 
薬師堂の少し手前の街道(昔ながらの商家の建物がみられる)
薬師堂の少し手前の街道(昔ながらの商家の建物がみられる) 

ここには新町薬師堂参道口から順に、宝篋印陀羅尼之塔阿蘇幸夢観音堂・薬師堂と背中合わせに薬師温泉がある。

阿蘇幸夢観音堂の裏手からは水田の先に阿蘇外輪山の風景が見渡せる。

街道は薬師堂の少し手前で右に急カーブする。カーブ地点には昔ながらの商家の建物がみられる。

今町神社 標高:483.5m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

中野天満宮 標高:493.7m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

西福寺 標高:505.1m MAP 4km以内の寺社検索

西福寺は無量山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。

ここより南西300mほどの所に霜神社が鎮座。

十二木跡 標高:511.3m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

阿蘇神社 標高:534.4m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。

水場 標高:539.9m MAP 4km以内の寺社検索

未踏査の為、未稿。