大隈宿(旧:筑前国嘉麻郡大隈町 現:福岡県嘉麻市大隈町)
概要
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『筑前國続風土記』巻之12 嘉麻郡の項に下の記事がみられる。
○大隈町
此町は東は豊前猪膝に通じ、 南は桑野、小石原に通じ、 西は秋月に通じ、 北は飯塚に通ず。 四方の通衝也。
就中小石原の道は肥前、肥後、筑後、及び上座下座の人、 上方へ往来する道にて、 人馬の通行しげき事他方にことなり。 大隈より猪膝に行て、小倉に出て船に乗る。
大隈町の近邉に下中益村に古城の跡[1]有しを、 長政公入國の後、 此邉にて後藤又兵衛に領地をあたへ、 彼の城を改め築て又兵衛に預置かる。 又兵衛出奔せし後、 毛利但馬に此邉にて2萬石采地を與へ、 彼の城を預けられる。 元和元年(1615)台命下り、 凡天下國主の領内は、一國一城たるべきよし仰出され、 彼城をばこぼたれける。
但馬は其後大隈町に宅をかまへ居たり。 但馬子左近相續て別宅とす。 左近退きて後、 光之公の臣岸本又左衛門別宅とせり。 その後又左衛門退きて、近年久野四郎兵衛別宅となり。 寶永3年(1706)3月25日、 光之公此邉遊歴し給ふ時、 久野別宅に立寄給ふ。
此邉田圃すくなしといへども、 大隈町は民宅多く、人數多し。 此郡にては廣き町なり。 祇園社あり。 これ産靈也。 6月15日祭あり。 作山2本有。 大隈川は其の水上桑野より出、其下山野、三緒の間に出、 飯塚の片島にて、飯塚川[2]と一に成。
又大隈町の東に近く、かがめ石とて嶺あり。 高くけはし。 豊前の方へゆく道也。 大隈町より豊前境目迄1里4町。 猪膝へは1里30町あり。
大隈村は別にあり。大隈町の西のむかひは西郷村也。近し。 大隈町の下は上下村、貞月村也。 其次は牛隈村、其下漆生、其下が岩崎、蒲生、山野なり。 大隈より下の次第かくの如し。
『筑前國続風土記拾遺』 巻之26 嘉麻郡 下の項に 「此町の居民今丁役を免除せらる。 これ天正中(1573-1593)秀吉公征西の時より然り。(後略)」とある。 丁役とは労役の事である。 「免除」は秀吉が「一夜城」を構築した時に地元の人々が協力した事へのお礼である。 『拾遺』の著されたこの時期(1800年前半)迄秀吉の指示が行き届いていたとは驚きである。
また、同書には「町3名あり。三日町 五日町 九日町也。昔ハ毎月3・5・9の日に市立てし故に此名有といふ。」とある。
ここでは、大隈宿から次の千手宿までのルートを記載する。
経路
北斗宮前 標高: 53.6m MAP 4km以内の寺社検索
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『筑前國続風土記』巻之12 嘉麻郡の項に下の記事がみられる。
○北斗社
下益村にあり。此村は大隈町の東也。 (中略) 9月9日に祭禮あり。 側に大なる楠樹あり。 周13尋、 基本の空虚なる所方2間餘有。 其うつほなる内に、たたみ8畳を敷べし。 篤信かつて諸國を多く経歴せしかども、 いまだかほどの大木を見ず。 (中略) この村を領する人、災變あらんとては、 必其大枝風なくて折る。 いにしへよりかくの如しと云傳へたり。 此邉大隈村にも是につげる大楠あり。
北斗宮の向いには福円寺(浄土宗)、麟翁寺(曹洞宗)が伽藍を構えている。 福円寺には母里太兵衛の母の墓碑が安置されている。 麟翁寺は母里太兵衛の菩提寺となっている。
光円寺前 標高: 52.0m MAP 4km以内の寺社検索
光円寺は貴宝山と号し、 浄土真宗本願寺派の寺院である。 母里太兵衛ゆかりの僧が開いたものである。
R322からの分岐点 標高: 77.0m MAP 4km以内の寺社検索
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街道はここで国道322号線より左手の山道に進む。
山道 標高: 82.6m MAP 4km以内の寺社検索
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街道両サイドは林となっており、所々倒木などが道を遮る。 一部イノシシのぬた場のような湿地状の所もある。 この道は見通しが悪い為、単独行は危険である。
右写真の番号は街道を進む順番である。 いずれも千手宿に向って撮影したものである。
山道(峠付近) 標高: 90.3m MAP 4km以内の寺社検索
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峠付近は、木々は伐採され墓地が点在する。 ここから下り坂である。
大日堂 標高: 85.3m MAP 4km以内の寺社検索
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大日堂は杉林の中に建てられている。 堂内には大日如来像を含め7体の石仏が安置されている。
堂内の額には「新千手四国第42番」と記されている。
大日堂下 標高: 79.3m MAP 4km以内の寺社検索
街道は、ここで両サイドの視界が晴れる。 この坂を下ると次の千手宿である。