柳川往還  FORMER YANAGAWA-OUKAN AVENUE

概要

  • 在りし日の柳川城(永禄年間(1558-1569)蒲池鑑盛入道宗雪が支城として築いたのがはじまりと伝わる。天守閣の高さ約35m、石垣の高さ約8m。明治5年に焼失。(案内板より)) - 現地案内板より引用
    在りし日の柳川城(永禄年間(1558-1569)蒲池鑑盛入道宗雪が支城として築いたのがはじまりと伝わる。天守閣の高さ約35m、石垣の高さ約8m。明治5年に焼失。(案内板より)) - 現地案内板より引用 
  • 柳川城跡(現在は石垣の一部が残るのみ)
    柳川城跡(現在は石垣の一部が残るのみ) 
  • 久留米城の石組
    久留米城の石組 

慶長6年1601筑後国の大名となった田中吉政は柳川城を中心として政治・軍事目的のため領内の交通網の整備をはかった。 別名「田中道」とも呼ばれる。

街道は柳川城から久留米城までの行程5里約20km、幅員2間ほど3.6mで、街道の両側には溝を堀り、土を街道中央に盛って作られた。(以上 矢ヶ部地蔵尊手前の案内板より)

井手橋門から保加(外)町口までの街道筋には、大名や役人に人足や馬を提供する問屋場などの施設があったといわれる。

柳川往還は県道23号線のルートと大部分重なっている。

当往還の全ルートは下のLinksの①②③のページの記事より作成した。 記事に記載されていない区間は作者が独自に補完している。 誤っている箇所もあるかも知れません。

柳川城下→矢加部町→金納村→下田町→金屋町→八丁牟田村→横溝町→大角町→土甲呂町→小犬塚村→上野町→安武町→津福町→久留米城下 (以上 Linksのページより)

ルート

柳川城下の札の辻 → 八剱神社 → 出橋御門跡 → 出橋 → 橋本大神宮 → 田中道(田中往還)案内板 → 矢ヶ部地蔵尊 → 町境橋 → 金納筋のお堂 → 下田神社 → 廣瀧神社 → 妙行寺 → 天満宮 → 兵部神社 → 大角西観音堂 → 住吉宮 → 十間橋 → 岩古賀・福光のお堂 → 圓福寺 → 小犬塚の一里塚跡 → 田川追分 → 仏堂 → 田川・早津崎境のお堂 → 早津崎南の祠 → 早津崎の地蔵 → 早津崎の天神 → 明正寺 → 大善寺宮本南のお堂 → 馬頭観音堂 → 傘橋(大善寺玉垂宮) → 大橋 → 大橋の地蔵堂 → 大橋の道標推定地点(柳川・久留米領境) → 大善寺西 → 安武追分 → 追分観音堂 → 目安町の一里塚 → 津福地蔵尊堂 → 女橋 → 男橋 → 池青寺 → 赤掛弘法大師堂 → 秋葉宮跡(柳川街道原古賀町木戸跡) → 久留米城下札の辻


地図

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柳川城下の札の辻  標高:7.1m MAP  4km以内の寺院検索

札の辻(赤矢印の先に道標) - 北(柳川往還方面)に向って撮影
札の辻(赤矢印の先に道標) - 北(柳川往還方面)に向って撮影 
道標 - 遠景
道標 - 遠景 
道標「左 瀬高門通り」
道標「左 瀬高門通り」 
道標「右 出橋通り」
道標「右 出橋通り」 
辻門跡にある石碑
辻門跡にある石碑 
喜多屋酒店(ショーウィンドウに「創業文政年間(1818-1831)」)
喜多屋酒店(ショーウィンドウに「創業文政年間(1818-1831)」) 

札の辻には昔の遺構と思われるものは道標のみである。

この道標は、元和6年1620立花宗茂が復封の頃設置されたと思われる。

「右 出橋通り」「左 瀬高門通り」

刻字からみて、元来は筋向かいにあったものが、移設されたものと思われる。(以上 案内板より)

この辻には創業文政年間1818-1831という喜多屋酒店が店舗そ構えている。

この地点より100mほど南側には「辻門」という枡形門があったという。そこには石碑が立っている。(右写真)

ここは当柳川往還の出発点である。


八剱神社  標高:5.5m MAP  4km以内の寺院検索

八剱神社前の街道(右手が八剱神社) - 久留米城下に向って撮影
八剱神社前の街道(右手が八剱神社) - 久留米城下に向って撮影 
八剱神社鳥居(左手の小さな鳥居は恵比寿宮の鳥居)
八剱神社鳥居(左手の小さな鳥居は恵比寿宮の鳥居) 
八剱神社社殿
八剱神社社殿 
柳川の碑 - 八剱神社鳥居脇
柳川の碑 - 八剱神社鳥居脇 

八剱神社は往時は「高住社」「祇園宮」ともいわれた。 昔は三潴郡蒲池村の三嶋宮内にあったが、「長久寺6代住職快速州法師の願」により享保10年1728に今の地に遷宮してきた。(境内の石碑より)

境内に立っている「柳川の碑」の内容を下に引用する。この中で音楽寺(祇園宮)とは当八劔神社のことで、音楽寺とは当社の別当寺の寺号と思われる。

音楽寺(祇園宮)のうらを流るゝ川を柳川といふといへども証とスべきものなし。 古来柳川村といふは東北は明王院の角より南に水門までを境とし、西南に鍛冶屋町、西北は土居町禅門堀を境とす。

西原一甫の柳川名所図絵(文政年間1818-1831)による

昭和46年2月1971建立


出橋御門跡  標高:4.6m MAP  4km以内の寺院検索

①井手橋(出橋)御門と出橋(南が上。作図年代不詳だが江戸期のものだろう) - 出橋のたもとの令和2年 柳川市の案内板より抜粋
①井手橋(出橋)御門と出橋(南が上。作図年代不詳だが江戸期のものだろう) - 出橋のたもとの令和2年 柳川市の案内板より抜粋 
②江戸後期の出橋周辺(北が上。江戸後期のもの) - 出橋のたもとの令和2年 柳川市の案内板より抜粋
②江戸後期の出橋周辺(北が上。江戸後期のもの) - 出橋のたもとの令和2年 柳川市の案内板より抜粋 
➂「井手の橋御門」石碑と昔の親柱 - 稲荷神社の鳥居脇
➂「井手の橋御門」石碑と昔の親柱 - 稲荷神社の鳥居脇 
④稲荷神社遠景(「井手の橋御門」石碑と昔の親柱は鳥居の左脇)
④稲荷神社遠景(「井手の橋御門」石碑と昔の親柱は鳥居の左脇) 

出橋の南側(城内側)には出橋御門が置かれ、城下への出入りは制限されていた。

門は桁行7間約13m、梁行2間半約4.5mの雄大な二重門であった。門の南側には勢溜があった。(右画像①参照)

現在の出橋は札の辻から直線を引いた延長線上に架けられているが、昔は少し下流側(西側)に架けられていた。 出橋の正面に出橋御門が置かれていた。(画像②参照)

城内側から出橋を渡るには、出橋御門の手前で左に曲がり、出橋御門の前で右に曲がって門をくぐる経路であった。 これは防衛上の道の構造で(枡形構造)である。(以上 出橋のたもとの案内板より)

出橋の下流には船着き場があり、その岸には有明海から搬入された材木が多数積まれていた。 (明尊寺坊守様談)

出橋御門跡の石碑と昔の親柱は現稲荷神社の鳥居の脇に立っている。

出橋は昔は「井手橋」あるいは「出ノ橋」とも書いたようだ。いずれも「いでのはし」と呼んだようだ。


出橋いでのはし  標高:2.7m MAP  4km以内の寺院検索

大正時代の「柳川出ノ橋」 - 出橋のたもとの令和2年 柳川市の案内板より抜粋
大正時代の「柳川出ノ橋」 - 出橋のたもとの令和2年 柳川市の案内板より抜粋 
昭和30年代の出橋 - 出橋のたもとの令和2年 柳川市の案内板より抜粋
昭和30年代の出橋 - 出橋のたもとの令和2年 柳川市の案内板より抜粋 
現在の出橋 - 上流側より撮影
現在の出橋 - 上流側より撮影 
沖端川 - 現在の出橋より撮影
沖端川 - 現在の出橋より撮影 
現在の出橋の親柱
現在の出橋の親柱 
現在の出橋 - 久留米城下に向って撮影
現在の出橋 - 久留米城下に向って撮影 

城内から井手橋御門をくぐって出橋を渡ると、街道は東西(左右)に別れる。

東の道はその先北に折れ、久留米に向った(柳川往還)。

西側の道は本船津町→新船津町→枝光口のコースをたどり、小久保を経由して大川の小保へ。その先、筑後川を渡り佐賀城下に向った。


橋本大神宮  標高:5.1m MAP  4km以内の寺院検索

橋本大神宮脇の街道(左手に橋本大神宮)
橋本大神宮脇の街道(左手に橋本大神宮) 
橋本大神宮
橋本大神宮 

境内の石碑の内容を引用する。

この橋本大神宮は明治39年19066月に橋本氏子の疫病退散五穀豊饒を願い江戸末期にこの地区周辺に点在していた木戸らしきものを一ヶ所に祀り建立された。

その後平成3年19919月、2度の台風を受け崩壊したが、多数の皆様の御理解と御協力により再建されたものである。

街道はここで右に直角に折れる。


田中道(田中往還)案内板  標高:3.9m MAP  4km以内の寺院検索

柳川街道(左手の矢印の先に地蔵堂、右手の矢印の先に案内板)
柳川街道(左手の矢印の先に地蔵堂、右手の矢印の先に案内板) 

案内板は白いガードレールの前に立てられている。

「江戸時代の柳川街道(田中往還)跡」と題された案内板(令和元年2019 柳川市教育委員会)には、柳川往還の概要と矢ヶ部地蔵尊の説明が記されている。


矢ヶ部地蔵尊  標高:5.3m MAP  4km以内の寺院検索

地蔵堂
地蔵堂 
地蔵堂内(向って左手の石仏は弘法大師)
地蔵堂内(向って左手の石仏は弘法大師) 

久留米城下に向って左手に矢ヶ部地蔵尊の御堂がある。


町境橋  標高:4.6m MAP  4km以内の寺院検索

当地は東西に流れる太田川を境に北を久留米藩領、南を柳川藩領とする藩境である。 正保2年1645の柳川藩領域を描いたと考えられる『御領内絵図』には当地付近に「境木」の注記が見られる。

藩境木は藩境争いが生じた際に解決手段として設置されることもあった。(以上 案内板より)


金納筋のお堂  標高:5.4m MAP  4km以内の寺院検索

久留米城下に向って左手奥に金納筋のお堂がある。


下田神社  標高:4.4m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。


廣瀧神社  標高:5.6m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。


妙行寺  標高:5.4m MAP  4km以内の寺院検索

妙行寺は慈雲山と号し、真宗大谷派の寺院である。慶長元年1596田中 三郎橘行親によって創建された。


天満宮  標高:6.2m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。


兵部神社  標高:6.4m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。


大角西観音堂  標高:5.8m MAP  4km以内の寺院検索

大角西観音堂三潴新四国八十八ヶ所霊場第33番である可能性が高い。


住吉宮  標高:5.3m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。


十間橋  標高:5.9m MAP  4km以内の寺院検索

この橋のすぐ手前、街道左手には十間橋のお堂がある。 橋のすぐ先の街道右手には岩古賀のお堂、左手には岩古賀の恵比寿がある。


岩古賀・福光のお堂  標高:7.1m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査の為、未稿。


圓福寺  標高:8.4m MAP  4km以内の寺院検索

圓福寺は暁光山と号し、真宗大谷派の寺院である。

寛永11年16349月、調 勝朝によって創建された。


小犬塚の一里塚跡  標高:10.1m MAP  4km以内の寺院検索

この一里塚は久留米城下に向って左手の土塁とその上に白杭が立っている。 白杭には案内文が書かれているようだ。

安永8年1779小犬塚村庄屋の覚書には松が植えられていたと記されている。(文化財マップ三潴町より)


田川追分  標高:9.5m MAP  4km以内の寺院検索

地蔵堂前の柳川往還 - 久留米に向って撮影
地蔵堂前の柳川往還 - 久留米に向って撮影 
地蔵堂(赤矢印の先に「三潴四國第69番」が記された石塔)
地蔵堂(赤矢印の先に「三潴四國第69番」が記された石塔) 
地蔵堂内(向って左手に観音菩薩・右手に2体の地蔵菩薩)
地蔵堂内(向って左手に観音菩薩・右手に2体の地蔵菩薩) 
遠景(前方の矢印の先が地蔵堂)
遠景(前方の矢印の先が地蔵堂) 

街道はここから旧道に入る。

旧道口に田川追分地蔵が祀られている。


仏堂  標高:9.8m MAP  4km以内の寺院検索

仏堂前の街道(仏堂は左手) - 久留米城下に向って撮影
仏堂前の街道(仏堂は左手) - 久留米城下に向って撮影 
仏堂
仏堂 
仏堂内(左手より観音菩薩・大日如来)
仏堂内(左手より観音菩薩・大日如来) 

仏堂内には、観音菩薩・大日如来が祀られている。

ここよりしばらくの間は昔の街道の風情が残っている。


田川・早津崎境のお堂  標高:8.7m MAP  4km以内の寺院検索

お堂脇の街道 - 久留米城下に向って撮影
お堂脇の街道 - 久留米城下に向って撮影 
お堂
お堂 
祭壇(左手より観音菩薩2体、尊名不詳の仏像)
祭壇(左手より観音菩薩2体、尊名不詳の仏像) 

お堂内には観音菩薩2体、尊名不詳の仏像が祀られている。


早津崎南の祠  標高:11.2m MAP  4km以内の寺院検索

祠前の街道 - 久留米城下に向って撮影
祠前の街道 - 久留米城下に向って撮影 
祠内(向って左手は観音菩薩・右手は自然石)
祠内(向って左手は観音菩薩・右手は自然石) 
祠
祠 

祠内には向って左手に観音菩薩・右手に自然石が祀られている。


早津崎の地蔵  標高:9.3m MAP  4km以内の寺院検索

石祠前の街道(石祠は右手) - 久留米城下に向って撮影
石祠前の街道(石祠は右手) - 久留米城下に向って撮影 
石祠
石祠 
石祠内(弘法大師)
石祠内(弘法大師) 

Google Mapに投稿によれば仏像は尊像の名を「地蔵」とされているが、この尊像は弘法大師と思われる。


早津崎の天神  標高:9.1m MAP  4km以内の寺院検索

石祠
石祠 
石祠内の尊像(恵比寿神と思われる)
石祠内の尊像(恵比寿神と思われる) 

Google Mapに投稿によれば仏像は尊像の名を「天神」とされているが、この尊像は恵比寿神と思われる。 魚を左手に抱いておられるようだ。残念ながら、釣り竿を持つはずの右手が欠落している。


明正寺  標高:8.3m MAP  4km以内の寺院検索

全景(左右方向の道は柳川往還。左手に石祠・石灯籠がみえる)
全景(左右方向の道は柳川往還。左手に石祠・石灯籠がみえる) 
石灯籠(塔芯に弘化2乙巳年(1845)銘)
石灯籠(塔芯に弘化2乙巳年(1845)銘) 

明正寺は真宗大谷派の寺院である。

門前には塔芯に弘化2巳年1845銘のある石灯籠、大きな石祠がある。


大善寺宮本南のお堂  標高:8.3m MAP  4km以内の寺院検索

御堂(御堂前の県道23号線は柳川往還)
御堂(御堂前の県道23号線は柳川往還) 

御堂内には観音菩薩(一面六臂)と石の御神体と思しきものが祀られている。

当御堂は 三潴新四国八十八ヶ所霊場(番外札所)なのかもしれない。 詳しくは大善寺宮本南のお堂のページをご覧ください。


馬頭観音堂  標高:8.4m MAP  4km以内の寺院検索

観音堂前の街道(観音堂は左手) - 久留米城下に向って撮影
観音堂前の街道(観音堂は左手) - 久留米城下に向って撮影 
観音堂
観音堂 
馬頭観音
馬頭観音 

観音堂は街道より少し奥にある。商店の建物脇である。

御堂内には真新しい馬頭観音像が祀られている。

この地点から先、大橋の手前までのルートは作者の推定した経路であり誤っているかも知れません。


傘橋からかさばし(大善寺玉垂宮)  標高:6.3m MAP  4km以内の寺院検索

傘橋(大善寺玉垂宮は右手) - 広川の上流より撮影
傘橋(大善寺玉垂宮は右手) - 広川の上流より撮影 
傘橋側(表)の鳥居
傘橋側(表)の鳥居 
楼門
楼門 
傘橋記念塔 - 社務所
傘橋記念塔 - 社務所 
鐘楼
鐘楼 
境内の大楠
境内の大楠 
「鬼夜」の松明
「鬼夜」の松明 
灰皿の椅子(ありがたい)
灰皿の椅子(ありがたい) 
裏手の鳥居(「肥前鳥居」に見えなくもない)
裏手の鳥居(「肥前鳥居」に見えなくもない) 
裏手の鳥居 - 境内より撮影
裏手の鳥居 - 境内より撮影 
船底状の木鼻(裏手の鳥居)
船底状の木鼻(裏手の鳥居) 

傘橋は大善寺玉垂宮に参拝するための歩行者専用の橋である。 橋全体が朱色のデザインである。街道は橋の手前を右に折れると作者は推定している。 以下で大善寺玉垂宮の歴史を記す。

白鳳元年673三池長者師直が、玉垂宮の古跡に法相宗の僧安泰をして祭神を祀らせ、そばに一宇の精舎を開基して御廟院高法寺と号した。 延暦年間782-806高法寺は天台宗となり、弘仁5年814に嵯峨天皇の勅命により、殿堂、楼門、回廊などを新たに建立し、大善寺と改められた。 盛時には衆徒45坊、社領3000町を有していたと伝わる。

中世期には、大荘園三潴庄の総鎮守社として朝野の尊崇を集め、建徳元年1370征西将軍懐良親王への奏聞をへて「玉垂宮絵縁起」2幅(国指定重要文化財)が寄進さた。

元亀1570-1573・天正1573-1593の大乱で本殿、末社等(ことごと)く焼失。 慶長6年1601筑後に入国した田中吉政によって復興がなされた。 徳川吉宗は大善寺領として300石を寄進し、同9年には梵鐘を、同12年には鰐口を寄進2代田中忠政も元和4年1618に表参道の鳥居を寄進している。

慶安4年1651有馬忠頼が 「高良玉垂宮絵縁起」 2幅を寄進。 安永4年1775銀20貫500目が下賜され楼門が再興さた。

明治2年1869廃仏毀釈により、神宮寺の大善寺は廃され、玉垂宮のみ残って現在に至る。(以上 大善寺玉垂宮のホームページより)

廃絶された大善寺はここより東北200mほどの所で再興されている。大善寺のページをご覧ください。


大橋  標高:8.9m MAP  4km以内の寺院検索

大橋(矢印の先に地蔵堂・街道は画像の左から右に向って久留米城下に進む) - 東側より撮影
大橋(矢印の先に地蔵堂・街道は画像の左から右に向って久留米城下に進む) - 東側より撮影 
①石碑、②橋脚、➂追分標
①石碑、②橋脚、➂追分標 

大橋の地蔵堂境内にある石碑によれば、大橋は慶安元年1648土橋として架けられ、安政4年1857石柱橋として柳川藩参勤交代等交通の要衝であり流失修築もあったが、今回近代橋として生まれ変わった。旧石柱の一本は地蔵堂境内に遺されている。


大橋の地蔵堂  標高:9.4m MAP  4km以内の寺院検索

地蔵堂(赤矢印の先が地蔵三尊板碑と思われる)
地蔵堂(赤矢印の先が地蔵三尊板碑と思われる) 
御堂脇の柳川往還(右手が大橋)
御堂脇の柳川往還(右手が大橋) 

大橋の地蔵堂の御堂内には石造地蔵菩薩立像と石造観音菩薩が安置されている。

地蔵三尊板碑は御堂に向って右隣に雨ざらしで祀られている。この地蔵三尊板碑は室町時代のものとも考えられている。


大橋の道標推定地点  標高:8.2m MAP  4km以内の寺院検索

追分標(拡大。「くるめ」の文字が確認できる)
追分標(拡大。「くるめ」の文字が確認できる) 

「南 やながわ 北 くるめ 東 あらき」銘。

大橋の地蔵堂境内の石碑に「この地の分かれ道に立っていた道標」とある。当道標は地蔵堂境内に移されている。


大善寺西  標高:9.4m MAP  4km以内の寺院検索

大善寺
大善寺 

大善寺は御船山等学院と号し、天台宗の寺院である。

白鳳元年672、三池長者師直が玉垂宮の古跡に法相宗の僧「安泰和尚」が勧請し、左に八幡菩薩、右に住吉大明神、中央に高良玉垂大菩薩を安置し、その側に精舎を開基して「御廟院高法寺」と号したのが始まりである。


安武追分  標高:11.4m MAP  4km以内の寺院検索

追分(左右方向が柳川往還)
追分(左右方向が柳川往還) 
追分石
追分石 
追分石(拡大。「左 くるめ、右 高良山ふちう通り・ひた・こくら」銘)
追分石(拡大。「左 くるめ、右 高良山ふちう通り・ひた・こくら」銘) 
追分石裏面1(「安政四丁巳歳三月吉日 施主 吉山東丘衛英義」銘)
追分石裏面1(「安政四丁巳歳三月吉日 施主 吉山東丘衛英義」銘) 
追分石裏面2(「昭和六十一年七月再建」銘)
追分石裏面2(「昭和六十一年七月再建」銘) 

追分石「左 くるめ、右 高良山ふちう通り・ひた・こくら」安政4年1857銘。

裏面に「昭和61年19867月再建」とある。


追分観音堂  標高:11.7m MAP  4km以内の寺院検索

追分観音堂三潴新四国八十八ヶ所霊場奥の院(本尊:聖観世音菩薩)となっている。


目安町の一里塚  標高:11m MAP  4km以内の寺院検索

久留米札の辻から1里の位置。 東側の塚に松、西側の塚に榎が植えられていたが、現在は西側のみ残る。

元禄年間1688-1703の久留米藩領図には記載されていることから、この時期以前に設置されたものだろう。(案内板より)


津福地蔵尊堂  標高:12.4m MAP  4km以内の寺院検索

門前の柳川往還(前方に地蔵堂)
門前の柳川往還(前方に地蔵堂) 
延命地蔵菩薩
延命地蔵菩薩 
地蔵堂
地蔵堂 

本尊の延命地蔵菩薩像は有久山長法寺の本尊。 正応元年1288三潴の御家人横溝氏は元寇1274・1281の勲功により安武荘を受領。安武に長法寺を開基した。

尊像は桧材寄木造り。像高82cm。胎内に慈覚大師円仁の筆伝がある。このことから円仁が承和5年838渡唐に際し、2年間太宰府に逗留。筑後巡錫のおりに造像されたものと思われる。

天正5年1577安武にあった海津城が龍造寺勢に攻められて落城。長法寺も焼失した。 その際、本尊の延命地蔵菩薩は当地に移され難を逃れた。

数々の霊験があらかたで田中吉政・久留米城代々の城主の庇護を受けた。昭和61年1986に改築された。(以上 御堂内に掲示された「津福地蔵菩薩由来沿革」(昭和61年 津福地蔵菩薩堂建設委員会)より)

詳しくは津福地蔵尊堂のページを参照のこと。


女橋  標高:7.3m MAP  4km以内の寺院検索

女橋(赤矢印の先に池青寺がある) - 久留米城下に向って撮影
女橋(赤矢印の先に池青寺がある) - 久留米城下に向って撮影 

女橋より柳川側は刑場があった。罪人は男橋→女橋の順に渡り刑場に向った。 罪人を見送る男は、男橋迄。女はその先の女橋までと決められていた。 ゆるんだ縄を振りほどいてすぐ北側の池青寺に逃げ込むと、刑が免除されていたという。(刑場あと : みみずの花鳥風月より)

ここは湯の尻川(女橋が架けられている)と金丸川(男橋が架けられている)が合流する地点。 川はこの先西側に流れて筑後川に合流する。


男橋  標高:6.7m MAP  4km以内の寺院検索

男橋(赤矢印の先に池青寺がある)
男橋(赤矢印の先に池青寺がある) 

上の女橋を参照のこと。


池青寺  標高:10.1m MAP  4km以内の寺院検索

門前の柳川往還(街道はこの先久留米城下に向かう) - 山門を背にして撮影
門前の柳川往還(街道はこの先久留米城下に向かう) - 山門を背にして撮影 
本堂
本堂 

池青寺は宮木山寿栄院と号し、浄土宗の寺院である。

宝暦元年1751、7代藩主有馬頼徸(よりゆき)の生母が夫の菩提を弔うために建立した。


赤掛弘法大師堂  標高:11.4m MAP  4km以内の寺院検索

門前の柳川往還 - 久留米城下に向って撮影
門前の柳川往還 - 久留米城下に向って撮影 
全景
全景 
祭壇
祭壇 

赤掛弘法大師堂の境内には、大師堂・十三仏堂がある。


秋葉宮跡(柳川街道原古賀町木戸跡)  標高:13.7m MAP  4km以内の寺院検索

全景(更地となっている)
全景(更地となっている) 
門前の柳川往還(秋葉宮跡は左手) - 久留米城下札の辻に向って撮影
門前の柳川往還(秋葉宮跡は左手) - 久留米城下札の辻に向って撮影 
境内に放置された鳥居等の部材
境内に放置された鳥居等の部材 
何かの台座
何かの台座 
境内に放置された鳥居等の部材(大正11年5月と削られている。手前の黒っぽい石塔は戦役記念碑)
境内に放置された鳥居等の部材(大正11年5月と削られている。手前の黒っぽい石塔は戦役記念碑) 
境内に放置された鳥居等の部材
境内に放置された鳥居等の部材 

当場所はGoogle Mapに「秋葉宮跡(柳川街道原古賀町木戸跡)」と表記されている。 名前からして久留米城入城の木戸と推測できるが、下記の記事以外では資料等は作者の探すかぎり見当たらない。

整理番号 75|道中案内書をもとに、検証中! - 三井四国八十八ヶ所霊場に当場所は「苧扱川(おこんがわ)町出町」という地名ではないかという推論と、三井四国八十八ヶ所霊場(38番 本尊:千手観音)ではないかという推論の記事が掲載されている。

秋場宮跡の境内は更地となっており、鳥居等の部材が放置されている。


久留米城下札の辻  標高:12.5m MAP  4km以内の寺院検索

札の辻
札の辻 

「商工会議所」信号が札の辻と思われるが、当時の遺構・石碑・案内板等は確認できない。

当場所が本当に「札の辻」なのか心配になってきた。(泣)