遠賀川より東側(おんががわよりひがしがわ)[底井野往還] 旧: 現:EAST

概要

遠賀川より東側の底井野往還についてご紹介する。 ここからは、直接黒崎への街道と、長崎街道添いの涼天満宮に向かう道とに分岐する。 ここでは、後者についてご紹介する。

ルート

涼天満宮 → 直生酒店前 → 下上津役橋 → 下上津役2丁目交叉点 → 観慈亭 → 役之郷清水ヶ池古駅水 → 妹ヶ谷の切り通し → 通谷 → 蓮華寺交差点手前 → 地蔵菩薩 → 法専寺前 → 梅安天満宮前 → 金光寺参道口 → 篠隈宮の鳥居 → 江川橋 → 唐戸の水門

涼天満宮 標高:68.5m MAP  4km以内の寺院検索

涼天満宮(すずみてんまんぐう)については長崎街道(涼天満宮)を 参照のこと。 ここより下上津役橋の間はルートの比定ができていない。 新興の住宅開発などで区画整理されていて判然としない。


直生酒店前 標高:57.4m MAP  4km以内の寺院検索

  • 直生酒店前の街道
    直生酒店前の街道 

涼天満宮-下上津役橋間は道の比定ができていないが、ひょっとしたらこの酒店前の 道は街道であったかもしれない。なぜなら、酒店は昔から元の場所に店を構えていること が多い為。今後の調査が必要。


下上津役(しもこうじゃく)橋 標高:12.4m MAP  4km以内の寺院検索

  • 下上津役橋 - 西に向って撮影
    下上津役橋 - 西に向って撮影 

橋は金屑川に架かっている。


下上津役2丁目交叉点 標高:14.3m MAP  4km以内の寺院検索

  • 交叉点 - 街道はここより緩く左にカーブしている
    交叉点 - 街道はここより緩く左にカーブしている 
  • 熊野神社
    熊野神社 

街道はここより左に緩いカーブをえがき、徐々に登りがきつくなる。

交叉点の脇には、熊野神社が鎮座している。


観慈亭 標高:15.2m MAP  4km以内の寺院検索

観慈亭前の街道
観慈亭前の街道 

観慈亭を参照の事。


役之郷清水ヶ池古駅水(やくのごうしょうずがいけこえきすい) 標高:18.1m MAP  4km以内の寺院検索

地標
地標 
入り口 - 画面右側
入り口 - 画面右側 
井戸
井戸 
石仏
石仏 

観慈亭よりなだらかな坂道を100mほど行くと、この古駅水がある。 街道の右側に入り口があるが、注意していないと見逃してしまう。 ここでは、案内板の内容をそのまま記す。(ふりがなは追記しています)

平安時代、現在の上上津役(かみこうじゃく),下上津役(しもこうじゃく), 町上津役(まちこうじゃく),小嶺(こみね)にわたる地域は「役之郷」 (鎌倉時代から室町時代までは上津役郷)と呼ばれていた。この「役之郷」は「夜久(やく)の駅」 にかかわる地名といわれている。

「夜久の駅」は延喜式の兵部省諸国駅伝馬の条に見える筑前十九駅の一つで、駅馬15疋を常置していた。 全国から筑前国太宰府に至る官道にあった駅であることは間違いないが、明確な位置は分かっていない。 しかし「夜久の駅」の設置されていた郷、すなわち「夜久郷」の地名の由来や伝承から、 古駅水の地が「夜久の駅」であったのではないかといわれている。

この古駅水の古道は、藩政時代、長崎街道より上の原(うえのはる)中間(なかま) を経て赤間に至る中通りと呼ばれた内往還であった。

井戸のかたわらにある地蔵菩薩像には寛延元辰年1748の銘があり、「右赤間道 左やまみち」 と刻まれている。

井戸はどんな干ばつでもかれることはなく清水が湧き、当時のこの道路を往来する 人馬や村人を慰めたことであろう。 - 北九州市教育委員会

案内板の後半部分の「右赤間道 左やまみち」の文字は探したが確認できなかった。


妹ヶ谷の切り通し 標高:23.4m MAP  4km以内の寺院検索

  • 切り通し
    切り通し 

この坂を登ると、そこから下り坂で通谷がもうすぐである。


通谷(とおりたに) 標高:4.9m MAP  4km以内の寺院検索

通谷駅ホームから
通谷駅ホームから 
街道は踏切を渡って左に涼天満宮に向かう
街道は踏切を渡って左に涼天満宮に向かう 
太賀神社
太賀神社 

通谷は少し歩いてみると分かるが、なだらかな丘に囲まれ、文字通りその谷にある。 残念ながら、開発が進んでいて、街道をしのぶ風景は発見できない。

街道は筑豊電鉄の通谷駅の踏切を渡り、赤間宿に向かう。

この踏切の周辺は、道路が狭いせいか車が多く混雑している。

踏切より赤間宿側に少し歩いたところの右側の丘の中腹に太賀神社が鎮座されている。


蓮華寺交差点手前 標高:3.3m MAP  4km以内の寺院検索

  •  

街道はここで右に直角に曲がる。 ここからは、道はあるがわかりづらいのでご注意。道幅も狭い。


地蔵菩薩 標高:3.2m MAP  4km以内の寺院検索

 
 

地蔵堂は石段の上である。 街道はここで右に直角に曲がる。


法専寺前 標高:10.2m MAP  4km以内の寺院検索

  • 法専寺前の街道 - 赤間宿に向かって撮影。左が法専寺。
    法専寺前の街道 - 赤間宿に向かって撮影。左が法専寺。 

法専寺は浄土真宗本願寺派の寺院で山号を松風山と言う。

門前の街道は、ゆるい登り道となっている。 この先100mほど行くと、道幅は2mほどとなっている。


梅安天満宮前 標高:12.2m MAP  4km以内の寺院検索

本殿
本殿 
境内の鷽の石像
境内の鷽の石像 
境内より東側を望む(左側の山は皿倉・帆柱山)
境内より東側を望む(左側の山は皿倉・帆柱山) 
梅安天満宮前の街道 - 蓮花寺交差点側に向かって撮影
梅安天満宮前の街道 - 蓮花寺交差点側に向かって撮影 

梅安天満宮は街道脇に石段があり街道には案内の看板などが無いので注意していないと見逃してしまう。 境内にはちょっとした展望台があり、そこから中間市内・北九州市内の山々が展望できる。 下に境内の案内板の内容を記載する。

菅公と(うそ)の由来

その昔菅公(菅原道真公)が太宰府に下向の折、蜂の大群が現われ一歩も進めなかったとき、 いずこからともなく鷽の大群が飛来してきて、またたく間に蜂を全滅させ、菅原の一行は無事通行できたという由緒があります。 鷽の鳥は鳩よりやや小さく、頭と尾は黒く、腰のあたりは白く、腹部と背は灰色で雄の胸は美しいバランス色をし、 綺麗な声で鳴くのが有名です。

拝殿の前にある鷽の像の頭をさすると頭が良くなることから、天満宮さまの守り鳥として知られ、 幸運の神としての信仰があり、広く親しまれています。

鷽替え神事は一年中の嘘と誠を神前にて取替え、罪滅のためといわれ、開運の出世を授かると信じられ、 求めて帰った鷽を神棚にお祀りすると、除災招福と家運隆盛を祈願するのもこの故であります。

梅安天満宮 氏子総代

菅原道真が下向時にこの地を通ったかどうかは作者は知らない。


金光寺参道口 標高:4.9m MAP  4km以内の寺院検索

門前の底井野往還(左手が参道口)  - 赤間宿に向かって撮影
門前の底井野往還(左手が参道口) - 赤間宿に向かって撮影  
観音堂
観音堂 

金光寺の境内には観音堂があり、 中央四国霊場第40番札所)(本尊:観世音菩薩)となっている。

門前の街道は、ゆるい下り道となっている。


篠隈宮の鳥居 標高:5.2m MAP  4km以内の寺院検索

  • 篠隈宮の鳥居
    篠隈宮の鳥居 
  • 鳥居前の街道 - 中間市役所に向かって撮影。右が鳥居
    鳥居前の街道 - 中間市役所に向かって撮影。右が鳥居 

筑前国続風土記拾遺』巻之33 遠賀郡 亭 中間村の項に下記の記載がある。

○大宮笹隈大明神社 笹隈山に在。村内の産神也。(後略)

鳥居をくぐって、草が生え放題の石段を上まで登ると平坦地はあるが、本殿は今は無い。


江川橋 標高:3.5m MAP  4km以内の寺院検索

  • 江川橋
    江川橋 

江川橋は中間市役所のすぐ脇にある。街道はこの橋の手前を右に曲がり、唐戸の水門に向かう。


唐戸の水門 標高:7m MAP  4km以内の寺院検索

唐戸の水門
唐戸の水門 
唐戸の水門遠景
唐戸の水門遠景 
唐戸の水門脇の大師寺山門
唐戸の水門脇の大師寺山門 
唐戸の水門脇より中間市役所へ向かう街道
唐戸の水門脇より中間市役所へ向かう街道 

唐戸の水門より街道は中間市役所に向かう。

街道左手には水路が流れ、水路内には藻が水流に身を任せて漂っているのが見える。 地元の人のお話では、この水路は昔は「どぶ」川で最近綺麗になったとの事。 朝夕の散歩にはもってこいの道である。 そのすぐ脇には大師寺が伽藍を構えている。

唐戸の水門脇の案内板の内容を記載する。

堀川(ほりかわ)中間唐戸(なかまからと)

唐戸とは水門のことです。堀川は遠賀川と洞海湾とを結ぶ人工の運河です。 13年の歳月を費やして宝歴12年1762に完成しました。唐戸は堀川川口の水門でした。文化元年1804に堀川の川口は上流の楠橋(くすばし)村に変更され、 そこにも全く同じ形態の唐戸が設置されました。寿命(じめ)の唐戸です。

遠賀川が増水すると、堀川下流域を水害から守るため、唐戸は閉鎖されます。 遠賀川の水勢に耐えることができるように、唐戸は岩盤の地を選んで構築されています。 堰戸も天井石の下は表戸と裏戸の二重構造になっています。 天井石の上は溢水(いっすい)を防ぐための中戸です。 正に独特の構造です。 上家(うわや)堰板(せきいた)等の格納所です。

堀川は開通以来、多くの貢米(くまい)船や石炭船で賑わいました。殊に明治時代には筑豊の石炭輸送の動脈として。多い年には年間10数万(せき)川艜(かわひらた)が堀川を下りました。

 中間市教育委員会

街道はここより遠賀川を船で渡り下大隅に向かう。