八代城下(やつしろ)[薩摩街道] 旧: 現:熊本県八代市YATSUSHIRO CASTLE TOWN

概要

  • 堀 - 八代城
    堀 - 八代城 
  • 桝形門 - 八代城
    桝形門 - 八代城 
  • 城内 - 八代城
    城内 - 八代城 

Wikipediaによれば、古来より八代は博多坊津と並ぶ九州の対外貿易港で、みかんが中国南部より伝来した地であるとされる。平安時代末期には日宋貿易を重視した平清盛の所領であり、鎌倉時代になると執権北条氏の所領となった。室町時代初めの元弘4年1334に建武の新政時の功績により伯耆国で海運業を営んでいた名和長年の子、名和義高が八代荘地頭職を賜り、古麓城(ふるもとじょう)と城下町を築いた。名和氏は、隣の球磨郡の領主・相良氏と室町時代を通じてたびたび争ったが、永正元年1504、相良氏が名和氏を追い八代に進出。相良氏は本拠を古麓に移し、徳淵津(徳渕津)が中国との貿易港として大いに栄えた。しかし、天正10年1582には相良氏は南の薩摩・大隅から勢力を伸ばしてきた島津氏に服属し、八代から退いた。

その後の天正15年1587には島津氏も豊臣秀吉の天下統一の過程で行われた九州征伐で八代を追われた。 当時の八代の人口は5万を数え肥後国の中で最も栄えていると記録されており、秀吉は隈本城古麓城など肥後を佐々成政に与えたが徳渕津は豊臣家の直轄領とし番大将として寺西次郎介が入った。 肥後国人一揆で佐々成政が滅亡した後、肥後国南部の領主となった小西行長は、古麓城を廃城とし新たに八代支配の拠点として天正16年1588麦島城を築いた。関ヶ原の戦いの後、熊本城主・加藤清正が肥後一国の領主となり、慶長17年1612、城代として加藤正方が麦島城に入った。

慶長20年1615一国一城令が出されたが、麦島城は一国一城令の例外として残り、肥後国は熊本城と麦島城の一国二城体制となった

元和5年1619、麦島城は大地震によって崩壊したが、幕府の許可により松江城(現八代城)が新たに築かれた。 築城当時は、南北811m、東西1477mの大規模な城で、現在は本丸の石垣と堀が残っている。幕府が一国一城令の例外として築城を認めたのは、島津氏に対する備えのためといわれる。

寛永9年1632、加藤氏の改易により、細川忠利が肥後の領主となると、その父・細川忠興(三斎)が隠居所として松江城に入城。正保2年1645に三斎が亡くなると、筆頭家老の松井興長が入城した。以後幕末まで松井家3万石の城下町として栄えたという。

八代城の南西側一帯には寺が密集している。 八代城周辺は一方通行の道路が多い。

参考:薩摩街道(八代宿-佐敷) - ルートラボ - LatLongLab

ここでは、八代宿から日奈久宿までのルートを記載する予定である。

ルート

地蔵堂 → 玄聖院 → 光徳寺 → 光圓寺 → 西光寺 → 河童像(札の辻・十一里木跡) → 肥前高田駅 → 十二里木跡と観音堂 → 丸山観音堂西 → 日奈久阿蘇神社 → 阿弥陀堂 → 日奈久温泉駅 → 日露戦争従軍記念碑 → 日奈久宿

地蔵堂 標高:6.5m MAP  4km以内の寺院検索

地蔵堂手前の街道(左手に古い商家が見える) - 日奈久宿に向かって撮影
地蔵堂手前の街道(左手に古い商家が見える) - 日奈久宿に向かって撮影 
地蔵菩薩像
地蔵菩薩像 
地蔵堂(写真中央)
地蔵堂(写真中央) 

地蔵堂は間口半間程。3体の地蔵菩薩の石像が安置されている。


玄聖院 標高:6.5m MAP  4km以内の寺院検索

玄聖院前の街道(写真中央が玄聖院)
玄聖院前の街道(写真中央が玄聖院) 
玄聖院
玄聖院 

玄聖院は真言宗醍醐派の寺院である。


光徳寺 標高:7.2m MAP  4km以内の寺院検索

門前の薩摩街道 - 日奈久宿に向かって撮影
門前の薩摩街道 - 日奈久宿に向かって撮影 

光徳寺は真宗大谷派の寺院である。

境内の案内板によれば、「当地は薩摩街道から八代城下町、松江口番所への入口にあたる(かなめ)の位置である。」と記載されている。 また、八代城下町によれば、寺のすぐ西側には南北に八代城の外堀跡があるという。


光圓寺 標高:5.3m MAP  4km以内の寺院検索

全景
全景 

光圓寺は浄土真宗本願寺派の寺院である。

境内には細川三斎ゆかりの梵鐘がある。街道はこの辻を左側に90度曲がる。


西光寺 標高:7m MAP  4km以内の寺院検索

本町アーケード(写真右手が西光寺) - 日奈久宿に向かって撮影
本町アーケード(写真右手が西光寺) - 日奈久宿に向かって撮影 

西光寺は慈雲山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。

この前後の街道は本町アーケードとなっている。 当地区一番の繁華街である。


河童像(札の辻・十一里木跡) 標高:4.8m MAP  4km以内の寺院検索

河童像(巨大!!)
河童像(巨大!!) 
札の辻(河童像に向かって左手に小さな白い柱(「札の辻・十一里木」の道標)が見える)
札の辻(河童像に向かって左手に小さな白い柱(「札の辻・十一里木」の道標)が見える) 
河童像より少し先の街道 - 日奈久宿に向かって撮影
河童像より少し先の街道 - 日奈久宿に向かって撮影 
前川の堤 - 河童像を背にして撮影
前川の堤 - 河童像を背にして撮影 
河童像前の前川(絶景!!) - 上流に向かって撮影
河童像前の前川(絶景!!) - 上流に向かって撮影 

札の辻とその先の前川(球磨川の支流)の景色を眺めるように巨大なカッパ像が盃を持って座っている。 この前の堤から眺める前川の景色は絶景である。

ここより、街道は前川を渡り、対岸の麦島(球磨川の三角州)に渡る(直線距離で約240m)。 当時は橋が架かっているはずもなく、舟にて渡河したのであろう。

作者は小学生時代毎夏休み、ここより2km程上流で泳いで遊んでいたが、ある時浮き輪を着けずに泳いで、流されて溺れそうになり年長の従兄弟にどやしつけられた事を思い出した。 流れは、上から眺めているよりずっと早い。


肥前高田駅 標高:5.5m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査。ここで駅構内の線路を横切る。迂回が必要。


十二里木跡と観音堂 標高:9m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査。ここで駅構内の線路を横切る。迂回が必要。


丸山観音堂西 標高:3.6m MAP  4km以内の寺院検索

未踏査。


日奈久阿蘇神社 標高:5.1m MAP  4km以内の寺院検索

拝殿
拝殿 
土俵
土俵 
境内風景(子供相撲の準備中の地域の皆さんが写っています)
境内風景(子供相撲の準備中の地域の皆さんが写っています) 
神社脇の薩摩街道(左手が日奈久阿蘇神社) - 日奈久宿に向かって撮影
神社脇の薩摩街道(左手が日奈久阿蘇神社) - 日奈久宿に向かって撮影 
鳥居(笠木が欠落している)
鳥居(笠木が欠落している) 
欠落したと思われる笠木が積み上げられている - 鳥居前にて撮影
欠落したと思われる笠木が積み上げられている - 鳥居前にて撮影 
「あかちゃん土俵入り」の看板
「あかちゃん土俵入り」の看板 

境内にある2枚の案内板[1]の内容を総合すると、永正元年1504田の川内城(たのかわうちじょう)主、山崎伊豆守(やまさきいずのかみ)がイナゴの害で苦しむ農民のため、城内に阿蘇大明神を祀ってイナゴ退散五穀豊穣の祈願をし、併せて堤防改修を行う。 その結果、虫害・風害が消え、平和な村に戻る。 その後、村人が城主の徳として、城内の大明神を村内に奉祀したのが始まりと言われる。

神社には装飾古墳の石材があり、かつては二重同心円の刻紋を見ることができたが、風雨にさらされ見えなくなっているという。

参拝当日、境内では地域の皆さん総出で、翌週に開催される「赤ちゃん相撲」の土俵の整備・境内の整備をされていた。 下の看板をご覧ください。


阿弥陀堂 標高:5.5m MAP  4km以内の寺院検索

阿弥陀堂前の街道(国道3号線、右手が阿弥陀堂) - 日奈久宿に向かって撮影
阿弥陀堂前の街道(国道3号線、右手が阿弥陀堂) - 日奈久宿に向かって撮影 

詳細は阿弥陀堂のページをご覧ください。


日奈久温泉駅 標高:6.3m MAP  4km以内の寺院検索

駅舎(早朝撮影の為明かりが灯っている)
駅舎(早朝撮影の為明かりが灯っている) 
駅前の街道 - 日奈久宿に向かって撮影
駅前の街道 - 日奈久宿に向かって撮影 
行き先板
行き先板 
構内 - 日奈久温泉に向かって撮影
構内 - 日奈久温泉に向かって撮影 
種田山頭火の人形 - 駅構内
種田山頭火の人形 - 駅構内 

案内板によれば、大正12年、八代-日奈久間の開通とともに建設された。 昭和40年代には急行停車駅となったことから全国でも有名となる。 往時は当駅から日奈久温泉まで乗合馬車(乗車時間:5分)が走っていたが昭和59年に廃止となったという。

現在は新幹線開通に伴い、第3セクター「肥薩おれんじ鉄道」として業務が行われている。 駅前広場では、戦後まもなく行商の物々交換から始まったと言われる「朝市」が現在も行われているという。


日露戦争従軍記念碑 標高:5.4m MAP  4km以内の寺院検索

従軍記念碑手前の街道(街道はここで国道3号線より分かれる)
従軍記念碑手前の街道(街道はここで国道3号線より分かれる) 
従軍記念碑
従軍記念碑 
従軍記念碑(拡大)
従軍記念碑(拡大) 
従軍記念碑の近くの灯籠「やつしろ 日奈久温泉」
従軍記念碑の近くの灯籠「やつしろ 日奈久温泉」 

案内板によれば、この従軍記念碑は建設当時は、頂に金鵄(きんし)がのっていたが、太平洋戦争末期の金属回収令により回収され、現在の形になっているという。何とも皮肉な運命である、

街道はここで国道3号線に一時分かれを告げ、旧道となる。 日奈久宿はすぐ先である。