津和野城下(つわの)[山陰道] 旧: 現:TSUWANO CASTLE TOWN

概要

  • 津和野の町並(前方の雲がかかった山は青野山) - 津和野城の三十間台より撮影
    津和野の町並(前方の雲がかかった山は青野山) - 津和野城の三十間台より撮影 
  • 津和野城の天守台の石組
    津和野城の天守台の石組 
  • 太皷谷稲成神社
    太皷谷稲成神社 

萩・津和野 山陰・近畿〈2〉の城下町 (太陽コレクション―城下町古地図散歩) 』によれば、津和野の城下町としての始まりは、永仁3年1295、鎌倉幕府より西石見に於ける元寇警備の任を受けた吉見氏初代頼行(よりゆき)がこの地の小高い山頂に津和野城[1]を構築したことによる。 城は正中元年1324、2代頼直(よりなお)の時代に落成。 以降300余年間吉見氏の治世が続く。 最初は、石垣で周囲を固めたものではなく、山頂を削った程度の砦だったという。

吉見氏の時代は、現在とは反対に城の西側を大手門とし、その麓に居館を構えていた。 (現在の城下町地域を「後田(うしろだ)」という。この地名は城の搦手(からめて)の田という意味という。)西側を大手とした理由は、現在の城下町地域(東側)は当時、津和野川の氾濫地域であり、とても町を形成できる状況ではなかったようである。

吉見氏中期になると川の氾濫もおさまり、戦略的に配置された寺院の門前に自然発生的に市がひらかれるようになった。 大手側よりも地の利のよい、この地域に人が集まりはじめ、次第に町が形成されていったという。

吉見氏は関ヶ原の戦1600で西軍について敗戦。萩に去ることになり、翌慶長6年1601坂崎直盛(さかざきなおもり)(出羽守)が代わって入封した。 直盛は現在の城下町の整備に努めた。 さらに城の大手と搦手を交代させて津和野城の大改築を行い、強固な山城を完成させた。

この理由は、関ヶ原の戦いの後、周防・長門に削封された毛利氏に対する監視役を徳川幕府に負わされた為と見ることができるという。

元和2年1616千姫事件により自刃。 翌元和3年1617亀井政矩(まさのり)が新たな藩主となり、12代の亀井氏の治世が明治まで続いたという。

その後の藩邸の火災などあり、町の改築発展は続き、元禄期1688-1704頃にほぼ完成を見たという。

Links

野坂峠~津和野
『歴史の道 - 山陰道Ⅲ』
旧山陰道48、周防・山口宿~山陽道・小郡/紀行写真集/Hitosh
旧山陰道47、石見・津和野町・野坂峠~周防・35山口宿/紀行写真集/Hitosh
山陰道 - Wikipedia
浜田藩 - Wikipedia
津和野藩 - Wikipedia

ルート

鉄砲町入口→津和野郵便局前→本町入口→殿町→太皷谷稲成神社参道口→津和野大橋→高砂酒造資料館→大師堂→若宮神社跡→金刀比羅宮→国道工事記念碑→野坂番所跡→恵長寺→ 以下未稿

鉄砲町入口 標高:152mMAP  4km以内の寺院検索

鉄砲町入口(街道は左側を進む) - 津和野城下に向って撮影
鉄砲町入口(街道は左側を進む) - 津和野城下に向って撮影 
案内板 - 山内宿に向って撮影
案内板 - 山内宿に向って撮影 

街道はこの三叉路を左側に進む。 三叉路に設置された案内板の内容を下に記す。

鉄砲町(てっぽうちょう)

藩主亀井氏は、城下町の北の橋に位置するこの通りに鉄砲足軽40軒と番所を配置して城下防衛に備えた。

ここが、隣接の浜田領や安芸方面へつながる交通上の要衝だったからである。 鉄砲町の地名はそれを今に伝える。

春秋会


津和野郵便局前 標高:156.5mMAP  4km以内の寺院検索

街道(左手が津和野郵便局) - 本町に向って撮影
街道(左手が津和野郵便局) - 本町に向って撮影 

鉄砲町から南下した道はここでクランク状に折れ曲がる。 これは、町の防御機構の一つである枡形構造ではなかろうか?


本町入口 標高:156.6mMAP  4km以内の寺院検索

本町入口
本町入口 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 
本町の町並
本町の町並 

本町の町並みは約250mほどの距離である。 本町は商家中心の町であったようである。 本町の町並みの写真を北側から順に掲示する。


殿町 標高:157.9mMAP  4km以内の寺院検索

殿町の町並
殿町の町並 
殿町の町並
殿町の町並 
殿町の町並
殿町の町並 
殿町の町並
殿町の町並 
殿町の町並
殿町の町並 
殿町の町並
殿町の町並 

殿町は武家屋敷中心の町であったようである。 案内板の内容を下に記す。

殿町(とのまち)

慶長6年1601津和野入した坂崎出羽守によって城下町が整備されて以来、今日まで城下の中心部としてその名を留めている。亀井時代には、西側に多胡・大岡・牧の三■屋敷が、東側に藩校養老館があった。


太皷谷稲成神社参道口 標高:159mMAP  4km以内の寺院検索

参道口 - 津和野大橋から撮影
参道口 - 津和野大橋から撮影 
参道口
参道口 
参道口 - 殿町から撮影
参道口 - 殿町から撮影 

太皷谷稲成神社のページのご由緒のページによれば、安永2年1773に津和野藩主7代亀井矩貞(かめいのりさだ)が津和野藩の安穏鎮護と領民の安寧を祈願するため、三本松城(津和野城)の鬼門にあたる東北端の太皷谷の峰に、京都の伏見稲荷大社から斎き祀ったのが始めという。

山の中腹に鎮座、ここからの津和野城下町の眺めもなかなかのものである。


津和野大橋 標高:157.5mMAP  4km以内の寺院検索

津和野大橋
津和野大橋 
津和野大橋
津和野大橋 

未稿。


高砂酒造資料館 標高:178.9mMAP  4km以内の寺院検索

看板
看板 
杉ぼて
杉ぼて 
看板
看板 
全景
全景 
門前の街道
門前の街道 

未稿。


大師堂 標高:191.5mMAP  4km以内の寺院検索

街道左手に小堂あり。


若宮神社跡 標高:214.6mMAP  4km以内の寺院検索

タブノキの巨木
タブノキの巨木 
若宮神社跡石碑
若宮神社跡石碑 
祠
祠 
若宮神社跡の街道
若宮神社跡の街道 

未稿。


金刀比羅宮 標高:219.1mMAP  4km以内の寺院検索

金刀比羅宮鳥居 - 野坂番所跡に向って撮影
金刀比羅宮鳥居 - 野坂番所跡に向って撮影 

未稿。


国道工事記念碑 標高:378.8mMAP  4km以内の寺院検索

街道
街道 
街道(この先に石畳があるという)
街道(この先に石畳があるという) 
石碑
石碑 

この先には当時の石畳がみられるという。 しかしこの先は草木が茂って前進不可。(「全面通行止」の表示もあり。) 石畳だけでも確認しようとしたが、スズメバチの警告音の為踏査を中止。

石碑は漢字がびっしり書かれている。作者は判読不能。 石碑脇の案内板の内容を下に記す。

國道工事記念碑津和野町 野坂

鹿足郡寺田より津和野市街を貫通した野坂に至る國道改修は明治18年5月起工し翌年12月に竣工。

津和野藩の関所が設けられていたこの野坂の険は13634円95銭5厘の工費を要し、工夫日に500名を役す難工事であったと言われる。

その成果は明治聖世の賜の証であることを記念して建てられた碑です。


野坂番所跡 標高:349.4mMAP  4km以内の寺院検索

番所跡(前後の道は国道9号線) - 山内宿に向って撮影
番所跡(前後の道は国道9号線) - 山内宿に向って撮影 

番所跡には案内板とイチョウの巨木があるのみである。 他に番所の遺構らしきものは確認できない。 案内板の内容を下に記す。

野坂御番所跡

ここ野坂は、長門国(長州藩)と石見国(津和野藩)の国境の地である。

長州藩では慶長13年1608徳佐下山の藤井孫兵衛に御口屋番を命じ旅人や通過物資の監視にあたらせた。 爾来4代,78年間、藤井家が勤めた。

貞享3年1686御口番所と改められ、毛利氏から番役人(御番所山方)を差し向けて任にあたらせた。

明治2年1869番所が廃止されるまで当地に存続した。

平成4年12月 阿東町教育委員会


恵長寺 標高:320.5mMAP  4km以内の寺院検索

門前の街道
門前の街道 

恵長寺は萬國山と号し、曹洞宗の寺院である。