嬉野宿(うれしの)[長崎街道] 旧:蓮池藩領本村 現:佐賀県嬉野市嬉野町URESHINO STATION

概要

シーボルトの湯(旧藩営浴場)
シーボルトの湯(旧藩営浴場) 
旅館大村屋跡(伊能忠敬測量隊本陣、写真右端の鉄橋は嬉野橋。江戸期は橋は無く飛び石を渡って渡河した。)
旅館大村屋跡(伊能忠敬測量隊本陣、写真右端の鉄橋は嬉野橋。江戸期は橋は無く飛び石を渡って渡河した。) 
嬉野川(左手はシーボルトの湯) - 嬉野橋から撮影
嬉野川(左手はシーボルトの湯) - 嬉野橋から撮影 
瑞光寺(江戸後期は本陣として使用された)
瑞光寺(江戸後期は本陣として使用された) 

嬉野宿は、「嬉野湯宿」「湯町」あるいは「嬉野駅」と呼ばれていたという。 宿場内には旅籠30軒、その他商家・農家など併せて100軒ほどの規模。

元々嬉野宿は長崎奉行や諸大名は通過するか、小休止する程度がほとんどであり、稀に宿泊地として定められると上使屋(御茶屋)は手狭で不便なため瑞光寺が本陣として使われていた。

寛政9年1791牛津宿で火災が発生し宿場中心部が焼失、宿泊ができなくなる。 それを契機として嬉野宿での宿泊が増えるようになり、寛政9年1797には正式に長崎奉行の宿泊地として決定された。

江戸期は佐賀藩の支藩蓮池藩の領地であったという。 (『長崎街道 (肥前佐賀路) (九州文化図録撰書 (2))』などより)

ここでは、嬉野宿手前の下宿の追分(塚崎ルートと塩田からのルートの合流点)から、次の彼杵宿の前までのルートについて記載する。

ルート

賢楽寺 → 明元寺 → 大定寺坂地蔵堂 → ヨウメイ堂薬局前の石碑 → 和多屋別荘北側通路入口 → 和多屋別荘北側通路出口 → 東構口 → 番号石(百十九) → 豊玉姫神社跡 → 上使屋跡 → 番号石(百四十六) → 西構口 → 街道消滅地点

Link

嬉野宿へ|めがねのコクラヤ
嬉野宿 佐賀国道事務所
長崎街道・塩田宿~彼杵宿|街道歩きの旅 長崎街道のルートと地図


賢楽寺 標高:57.9m MAP  4km以内の寺院検索

本堂
本堂 
門前の街道 - 嬉野宿に向かって撮影
門前の街道 - 嬉野宿に向かって撮影 

賢楽寺は三忍山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。 延徳3年1491創建の歴史ある寺院である。


明元寺 標高:59.7m MAP  4km以内の寺院検索

上使屋にあった門 - 境内から撮影
上使屋にあった門 - 境内から撮影 
門前の街道 - 嬉野宿に向かって撮影
門前の街道 - 嬉野宿に向かって撮影 

明元寺は美城山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。 延徳3年1491創建。山門は宿場内の本陣として使われていた上使屋にあった門という。

ここからは緩やかな上り坂となる。


大定寺坂地蔵堂 標高:66.9m MAP  4km以内の寺院検索

全景
全景 
地蔵堂前の街道 - 嬉野宿に向かって撮影
地蔵堂前の街道 - 嬉野宿に向かって撮影 

明元寺からの坂道はこのあたりが峠となる。 ここからは下り坂。 明治12年までにはこのあたりに大定寺が伽藍を構えており、その寺号にちなんでこの坂は「大定寺坂」と呼ばれていたという。


ヨウメイ堂薬局前の石碑 標高:57.5m MAP  4km以内の寺院検索

石碑の街道案内図
石碑の街道案内図 

どうやらこの地点付近から次の和多屋別荘北側通路までは街道は消失しているようである。


和多屋別荘北側通路入口 標高:60.1m MAP  4km以内の寺院検索

遠景
遠景 
入口手前の辻に立てられた案内板
入口手前の辻に立てられた案内板 
入口にある「旧長崎街道」の石碑
入口にある「旧長崎街道」の石碑 
街道(道幅は約1間)
街道(道幅は約1間) 

ここより次の出口までは道幅ほぼ1間。昔の道幅のままのようである。


和多屋別荘北側通路出口 標高:62.6m MAP  4km以内の寺院検索

街道脇の石碑
街道脇の石碑 
街道 - 東構口に向って撮影
街道 - 東構口に向って撮影 

ここで1間幅の道は終わり、広い道幅となる。 ここから先、東構口までは鍵型の道のようである。


東構口 標高:62.7m MAP  4km以内の寺院検索

石碑と案内板
石碑と案内板 
東構口前の街道 - 西構口に向って撮影
東構口前の街道 - 西構口に向って撮影 
東構口脇の商店軒下のツバメの赤ちゃん
東構口脇の商店軒下のツバメの赤ちゃん 

東構口には番所跡など当時の遺構は確認できない。 ここから宿場内である。


番号石(百十九) 標高:65m MAP  4km以内の寺院検索

案内板
案内板 
番号石
番号石 
「新湯入口」の門柱
「新湯入口」の門柱 
番号石前の街道 - 西構口に向って撮影
番号石前の街道 - 西構口に向って撮影 

ここより西200mほどにある「百四十六」と記された番号石脇の案内板の内容を下に記す。

江戸時代の嬉野地区は、佐賀本藩と蓮池支藩によって治められていましたが、 天明元年1781に両藩の間に境界紛争が起り、4年の歳月を経て本藩の完全勝利のうちに決着し、 新しい境界線上に20メートル間隔で全長40キロメートルにわたり番号石が設置されました。

番号石は、嬉野地区の全12村に設置されたものであり、村ごとに隣村に接するところまで、一番からの一連番号で設置されていました。

119番から200mほど先に146番。上の説明(「20m毎の連番」)からすると200m先の番号は(200m÷20m)+119番=129番辺りではなかろうか? 計算が合わない???

番号石のすぐ先には「新湯入口」と記された立派な門柱が建っている(湯の効能らしい文言が記されている)。 この道の先に何かがあるのかもしれないが、「新湯」とは何かは作者は知らない。


豊玉姫神社跡 標高:65.5m MAP  4km以内の寺院検索

石碑と案内板
石碑と案内板 
石碑と案内番前の街道 - 西構口に向って撮影
石碑と案内番前の街道 - 西構口に向って撮影 

案内板の内容を下に記す。

江戸時代の豊玉姫神社は嬉野宿中心部、現在のハッピータウンからこの場所まで広い地域に高さ3尺(約1メートル)ほどの石垣を築いて鎮座していた。

寛永18年1641に蓮池鍋島家の祈願所になったといわれる。 瑞光寺が長崎奉行の本陣となった時には宿場で一番の良建築であった社務所は奉行所幹部の宿とされた。

天保3年1832の大火で焼失しその焼け残った蓮池領内一の巨楠は藩主御用の船材として弘化4年1847に伐採された。

平成13年12月 嬉野町

長崎街道 (肥前佐賀路) (九州文化図録撰書 (2))』によれば、明治に入り現在の地(大正屋の北側=西構口脇)に移転したという。 ここには、高札場人馬継所があったという。


上使屋跡 標高:65.8m MAP  4km以内の寺院検索

上使屋跡の石碑
上使屋跡の石碑 

上使屋跡の石碑は、現在のシーボルトの湯の裏手に案内板と共にひっそりと立っている。 その脇には薬師堂がある。

上使屋の門は、明治になって明元寺に移設されている。


番号石(百四十六) 標高:65m MAP  4km以内の寺院検索

番号石と案内板
番号石と案内板 
番号石のある商家
番号石のある商家 
番号石前の街道 - 西構口に向って撮影
番号石前の街道 - 西構口に向って撮影 

番号石(百十九)参照のこと。


西構口 標高:68.8m MAP  4km以内の寺院検索

石碑の遠景
石碑の遠景 
石碑
石碑 
西構口前に街道 - 彼杵宿に向って撮影
西構口前に街道 - 彼杵宿に向って撮影 
豊玉姫神社参道口
豊玉姫神社参道口 
豊玉姫神社社殿
豊玉姫神社社殿 
豊玉姫神社に安置されている大ナマズ
豊玉姫神社に安置されている大ナマズ 

ここには、旅館大正屋の前に石碑と案内板があるのみで、構口に遺構は確認できない。

大正屋の街道を挟んで反対側には豊玉姫神社の参道口がある。 下に豊玉姫神社境内の案内板の内容を記す。

「美肌の神様」豊玉姫神社 縁起

豊玉姫神社の歴史は古く、天正年間1573-1592兵火のために焼失してしまいましたが、 元和年間1615-1624には社殿を再建し、藩主鍋島直澄の祈願所となりました。 以来、歴代藩主をはじめ、地元住民の尊崇を集めています。

豊玉姫様は海神の娘で、竜宮城の乙姫様としても有名であり、古来より水の神、海の神として広く崇敬を集めています。

豊玉姫神社のお遣いは「なまず」です。 嬉野川を支配し、郷の守りについていて、国に大難あるときには六尺の大なまずが現れて、神託を告げると語り伝えられています。 この「なまず様」は古来より「肌の病」にご利益があるといわれています。 豊玉姫様は乙姫様であり、その肌は美しく、嬉野の温泉の効能と相まって「美肌の神様」として、広く親しまれています。


街道消滅地点 標高:69.1m MAP  4km以内の寺院検索

この場所から暫くの間、街道は現代の建物の下に埋もれているようである。