木屋瀬宿(こやのせ) 旧:鞍手郡木屋瀬村 現:北九州市八幡西区藤田 KOYANOSE STATION

概要

盆踊りの山車の提灯
盆踊りの山車の提灯 
問屋場跡 -
問屋場跡 -  
祇園祭り - 西構口付近
祇園祭り - 西構口付近 
宿場おどり - 男は男らしく、女は女らしい伝統を感じる踊り(「あかりと大名行列まつり」)
宿場おどり - 男は男らしく、女は女らしい伝統を感じる踊り(「あかりと大名行列まつり」) 
宿場おどり
宿場おどり 

筑前國続風土記』巻之13 鞍手郡 ○木屋瀬 の項にその名の由来が記載されている。

「勝光上人(聖光上人の誤植)穂波郡明星寺再興の時、豊後臼杵家より材木を寄附しけるを船につみ、蘆屋川(遠賀川)より上せ、 此所の河邉に木屋をかけて入置ける。其所を木屋の瀬と云。今は他國通路の宿驛と成て、民家多し。」

木屋瀬街づくりの会による案内板より抜粋する。

木屋瀬宿は江戸時代、非常な賑わいをみせていた。

宿場には東構口(跡なし)から西構口まで約1kmの裏通りのない一本道で、御茶屋(本陣) 付近で直角に曲がって見通しを断ち、又鋸歯(のこのは)状(矢止め)の家並は 我が身を隠して賊に対し、更に脇道には、決まって寺社に突き当たる袋小路という、 すべてが治安防衛を考えた昔の様が、今でも残っているのは、長崎街道の中でも 珍しいと言える。

オランダ商館医師ケンベル、同シーボルト・測量学者伊能忠敬(いのうただたか)・ 学者頼山陽(らいさんよう)・洋画家司馬江漢(しばこうかん)・ 作家十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)・医師伊沢爛軒(いざわらんけん)・ 思想家吉田松陰(しょういん)等、有名な歴史人や、八代将軍吉宗に献上の象まで、 或るいは休泊し、或いは旅日記に残している点、昔を偲ぶに充分である。

ルート

東構口跡 → 馬つなぎ石 → 御茶屋跡 → 長徳寺前 → 船庄屋 → 旧高崎家 → 村船庄屋跡 → 旧安田家 → 西構口跡 → 柴田丹兵衛の墓碑 → 筑豊電鉄感田駅 → 四ツ辻 → 直方


筑前名所図会

植木町図(巻之6鞍手郡)
植木町図(巻之6鞍手郡)
『筑前名所図会』
木屋瀬驛図(巻之6鞍手郡)
木屋瀬驛図(巻之6鞍手郡)
『筑前名所図会』

上の『筑前名所図会』には木屋瀬宿西構口外の追分石と遠賀川を渡った対岸の植木町の様子が連続して描かれている。

Link

筑前六宿のひとつ木屋瀬宿へ|めがねのコクラヤ

東構口跡 標高:4.1m MAP  4km以内の寺院検索

  • 東構口跡付近の商家
    東構口跡付近の商家 
  • 東構口 - 宿内に向かって撮影
    東構口 - 宿内に向かって撮影 

東構口(ひがしかまえぐち)跡にある案内板によると、平成13年に発掘調査があり、 石組が道路と直交して築かれてあったとある。石組の上にはさらに練塀(ねりべい)が 築かれていたとの事である。

現在は、石組などは何も残っていない。 当時の繁栄をしのぶ立派な商家が立っている。

木屋瀬で無料で配布される案内図では「黒崎口」とも呼ばれているようである。


馬つなぎ石 標高:7.8m MAP  4km以内の寺院検索

  • 馬つなぎ石前の通り
    馬つなぎ石前の通り 
  • 馬つなぎ石
    馬つなぎ石 

この石は多分馬つなぎ石と思われるが、未確認である。

この角を右に曲がって路地を進むと大儀山 永源寺が伽藍を構えている。 ここの南側の門は旧本陣(御茶屋跡)の門を移築したものであるという。


御茶屋跡 標高:8.4m MAP  4km以内の寺院検索

左手が御茶屋跡、右手が問屋場跡 - 東構口に向かって撮影
左手が御茶屋跡、右手が問屋場跡 - 東構口に向かって撮影 
町茶屋跡(前方の曲がり角付近) - 西構口に向かって撮影
町茶屋跡(前方の曲がり角付近) - 西構口に向かって撮影 
町茶屋付近の商家 - 町茶屋より少し東構口よりにある
町茶屋付近の商家 - 町茶屋より少し東構口よりにある 

宿場内の通りはここで西構口に向かって大きく左にカーブする。 カーブの手前右手は御茶屋・町茶屋跡(現みちの郷土資料館)、その向かいの左手は問屋場跡である。

「御茶屋」とは、大名行列が休憩・宿泊するときの本陣であった所である。


長徳寺前 標高:8m MAP  4km以内の寺院検索

  • 長徳寺の鐘楼
    長徳寺の鐘楼 
  • 長徳寺前 - 西構口に向かって撮影
    長徳寺前 - 西構口に向かって撮影 

長徳寺は山号を「光明山」といい、浄土宗のお寺である。 境内の石碑によると、元は天台宗で嘉祥元年1235に浄土宗となったとある。 町内最古のお寺という。


船庄屋(梅本家) 標高:10.3m MAP  4km以内の寺院検索

  • 船庄屋
    船庄屋 
  • 船庄屋前の街道 - 西構口に向かって撮影
    船庄屋前の街道 - 西構口に向かって撮影 

案内板の内容をそのまま記載する。

船庄屋(ふなしょうや)(梅本家)

江戸時代、木屋瀬には年貢米の集積場である本場(米場)が置かれ、 その輸送の権利を持った24艘の川ひらた(川舟)に限られていた。 この24艘の管理が船庄屋の仕事である。

梅本家は屋号を油屋■(あらややましも)[1]と称し、 江戸時代は酒造業、明治に入り醤油醸造業を営んでいた。

この建物は江戸時代末期の建築で、木屋瀬を代表する町家の一つである。 平入(ひらい)りの切妻造り、外壁は大壁造りで、かつての屋根は草葺であった。 角座敷(つのざしき)は明治5年1872の建築である。

[1](やましも):上が「八」に似た字、下が「下」。


旧高崎家(伊馬春部生家) 標高:9.4m MAP  4km以内の寺院検索

旧高崎家
旧高崎家 
旧高崎家の街道 - 西構口に向かって撮影
旧高崎家の街道 - 西構口に向かって撮影 
内部
内部 
井戸-内部は瓦質でつくられ当時の状態が良く保存されている。
井戸-内部は瓦質でつくられ当時の状態が良く保存されている。 
雨戸
雨戸 
雨戸(出隅)
雨戸(出隅) 
雨戸(出隅)
雨戸(出隅) 
二階の船底天井
二階の船底天井 
裏手(畳に縁がない)
裏手(畳に縁がない) 

ここで無料で配布されているパンフレットの内容をそのまま記載する。

高崎家(たかさきけ)

高崎家は屋号を柏屋(かしわや)(カネタマ)[2]といい、 本家柏屋(カネシメ)の七代目高崎四郎八(しろうはち)[3]1795-1865が分家して創立した家です。 四郎八は文政8年1825から町年寄役をつとめ、大庄屋格に任ぜられるなど商人の指導者的立場にありました。

カネタマは、嘉永4年1851のころは板場(絞蝋業)を経営し、明治6年1873ごろには 醤油醸造業を営みました。

放送作家として活躍した伊馬春部(いまはるべ)(本名:高崎英雄)は、カネタマの五代目としてこの家に生まれました。

[2](カネタマ):左がが「「」に似た字、右が「玉」。

[3](カネシメ):左が「〆」、右が「フ」に似た字。

旧高崎家は月曜日・年末年始以外は10:00-16:30まで無料で公開されている。(電話:093-618-2132)

に訪問したが、ボランティアの説明員の方に丁寧な案内・説明をしていただいた(写真に写っている女性の方が説明員の方)。 ここでの見どころを箇条書きする。 江戸期の建物の造りを学ぶには絶好の場所である。

  • 井戸・・縁は近年作成されたものであるが、内部は瓦質で当時のまま
  • 雨戸・・入隅(いりずみ),出隅(でずみ)で雨戸を90度回転させて戸袋に納める
  • 摺り上げ戸
  • 箱階段
  • 船底天井
  • 大木戸(おおきど)・・・昼間(営業時間)に内側にはね上げ、夜になると閉める。その戸に小さな夜間用の出入口が附属している。
  • 街道沿いの商家の二階は大体物置として使っていた。街道を通る武士(大名行列など)を高い所から見ることに遠慮して。
  • 商家の畳には(ふち)がない。また、室内は質素。身分制度の為。

村庄屋跡(松尾家) 標高:7.3m MAP  4km以内の寺院検索

  • 村庄屋跡
    村庄屋跡 
  • 村庄屋跡前の街道 - 西構口に向かって撮影
    村庄屋跡前の街道 - 西構口に向かって撮影 

案内板の内容をそのまま記載する。

村庄屋跡(むらしょうや)(松尾家)

木屋瀬には村庄屋、宿庄屋、船庄屋の三庄屋が置かれ、 村庄屋は村全体を統括した。 松尾家は屋号を灰屋(はいや)と称し、 問屋役・人馬支配役、村庄屋などを務めた。 当家には江戸時代後期から明治初期にかけての木屋瀬宿駅、郡方、村方に関する貴重な資料が多数伝えられている。

この建物は江戸時代末期の建築で。木屋瀬を代表する町家の一つである。 妻入り(つまいり)入母屋造(いりおもやづく)り、 漆喰を軒裏まで塗り込めた大壁造(おおかべづく)りで、かつて二階に鉄格子の窓を設け、 外側に防火戸を建てた。 居室部には摺り上げ戸が残る。


旧安田家 標高:7.3m MAP  4km以内の寺院検索

  • 旧安田家
    旧安田家 
  • 旧安田家前の街道 - 西構口に向かって撮影
    旧安田家前の街道 - 西構口に向かって撮影 

案内板によれば渡し守が居住していたとのこと。


西構口跡 標高:7.3m MAP  4km以内の寺院検索

  • 西構口跡(両側に石組が見える)
    西構口跡(両側に石組が見える) 
  • 西構口の追分道標跡
    西構口の追分道標跡 

西構口(にしかまえぐち)には「従是(これより)赤間道 ,左飯塚道」 と、その裏には「元文3年建」(1738)と刻まれた追分石がある。 その地にあるのはレプリカで本物は郷土資料館の敷地内に移されているとのことである。

西構口右の赤間道方面の道は、遠賀川に突き当たる。この先は渡し船にて川を渡り、 赤間道に抜け、さらに唐津街道に向かう街道が続く。


柴田丹兵衛の墓碑 MAP  4km以内の寺院検索

  • 墓碑
    墓碑 

近くの案内板の内容をそのまま記す。

八代将軍吉宗当時、享保18年1733五月、参勤交代の帰路、木屋瀬宿まで来た肥前島原藩 の一行は、折からの大雨による増水で、川を渡ることが出来ませんでした。 日が立てばそれだけ経費が(かさむ)むので、家臣の柴田丹兵衛が、渡れる浅瀬を見付け ようと、下境まで行って瀬踏(せぶみ)をしているうちに深みにはまり、 遺体が感田に流れ着きました。それを悼んだ土地の人は、墓を建て"大道勇信士霊位" と刻んで弔ったのでした。

寄贈 健康保険直方中央病院、地元とともに直方信用金庫

このあたり一帯の当時の人々は、遠賀川の治水で苦労した事が当時の記録に記載されている。


筑豊電鉄感田(がんだ)駅 標高:8.4m MAP  4km以内の寺院検索

阿高神社横の瓶の標識
阿高神社横の瓶の標識 
筑豊電鉄感田駅横の踏切(右手奥が阿高神社) - 直方に向かって撮影
筑豊電鉄感田駅横の踏切(右手奥が阿高神社) - 直方に向かって撮影 
阿高神社本殿
阿高神社本殿 

この先、直方へと道は下る。


四ツ辻 標高:5.7m MAP  4km以内の寺院検索

  • 四ツ辻付近 - 直方の対岸より撮影
    四ツ辻付近 - 直方の対岸より撮影 

四ツ辻は遠賀川の河川敷内にあった。(河川敷内のグラウンドのバックネット付近か?) 右写真の右側が日の出大橋。バックネットの左ポールの前方の緑色の塊が大銀杏である。

当時の旅人は、次の直方へはこの先にあったという「直方の渡し」で渡河した。